霖雨蒼生(りんうそうせい)の姫君にはなれない。



地下牢の冷たい床に転がされていた少女は、目を覚ました。
億劫そうに身体を起こして、自身の手足に目を落とす。そして、掌をゆっくりと開いて、閉じてを繰り返してから、瞬きを一つ。

「……生きてる」

ポツリ、呟いた。
その声は、薄暗く鬱々とした牢の中で、静かに反響する。

「おい、女」

その直後。少女の耳朶を擽ったのは、低い男の声だった。

「おい、女。起きたのなら返事をしろ」
「……私、ですか?」
「あぁ」

声を掛けられたのが自分だと気づくまで、数秒の時間を要した。少女は怠慢な動きで、牢の外に顔を向ける。

鉄格子を隔てた向こう側に立っていたのは、真っ黒な服に身を包んだ、がっしりした体躯の男だった。
――忍び隊に所属している八雲だ。

頭巾で口許まで覆われているため、その相貌をはっきり見ることは難しいが、目許はキリリと涼しげで、左目下には泣き黒子がある。鈍色の額当ての下からは、目許まで長さのある黒い前髪が覗いている。

「頭、この女です」
「へぇ、君が……。確かに面妖な格好をしてるけど、見た目は普通の女の子に見えるね。綺麗な顔立ちをしているみたいだし、どこかの国のお姫さんだとしても、おかしくはないかな」

八雲が声を発したと同時に、また別の男が、音もなく現れた。八雲の上司に当たる存在の、千蔭だ。少女が目を覚ましたと同時に、八雲は忍術を駆使して、千蔭に信号を送ったのだ。

少女は千蔭の登場に驚きながらも、それを一切表情に出すことはなく、身動ぎ一つすることもなく、黙り込んでいる。

「まぁ、良いところのお姫様が、あんな森の中で倒れてるわけないか」

話を一人で完結させた千蔭は、地下牢の鍵を開けて、座りこんだままの少女のもとへと歩み寄る。

「で、君はどうして森の中で倒れていたのかな?」

少女の目線の高さに合わせて腰を折った千蔭は、ニコリと人好きのする笑みを浮かべて、問いかける。

「……」
「あれ、もしかして、口がきけない感じ?」
「いえ。先ほど独り言を漏らしていましたし、こちらの問いかけに対しても返答していました」
「ふーん、そっか」

八雲の言葉に頷いた千蔭は、立ち上がって、牢の外に出て行く。

そして、牢の外に置いてあった水差しを手にして再び中に戻ったかと思えば、それを少女の頭上でひっくり返した。
ポタリ、ポタリと、少女の漆黒の髪から雫が滴り落ちる。

「あのさ、俺も暇じゃないんだよね」
「……」
「これでも話す気にならないの? そうなると、もっと酷いことをしなくちゃならないんだけど……」

困ったような微笑を顔に貼り付けてはいるが、その実、千蔭は一切困ってなどいなかった。
これから目の前の少女に行おうとしている非道な行為に対して、一寸の躊躇の気持ちもなければ、一欠けらの罪悪感も持ち合わせてはいなかった。

ただ、少女から素性を聞きだして、自分たちにとっての危険分子となる存在――間者ならば、この手で始末するのみ。それだけだ。

千蔭は、少女の心の内を探るように、その目をジッと見据える。そして、少女が開口するのを待った。
これでも口を割らないようなら、多少手荒い真似をすることになったとしても、それも致し方ないだろう、と。そう考えながら。

「……私、は」

少女が口を開く。弱々しくか細い声だ。
けれど耳の良い千蔭は、その声をはっきりと聞き取ることができた。

「死のうと、して……でも、死ねなかった」

少女は、暗く澱んだ目をしたまま、下を向いている。

「……へぇ。そうなんだ」
「だから、私……わから、ない」

――あの後自分が、どうなったのか。此処はどこなのか。

少女は今自分が置かれている状況を、何一つ把握できていなかった。

俯いていた少女は顔を上げて、目の前で屈みこんでいる千蔭の顔を、おずおずと見る。

表情こそ無ではあったが、少女の戸惑いと不安に揺れた瞳と対峙して、千蔭はニコリと笑った。
――かと思えば、千蔭を纏う雰囲気が、ガラリと変わる。

「死にたきゃ勝手に死ねばいいんじゃない?」
「っ、……」

冷え冷えとするまなざしが、声が。
鋭利な刃となって、少女に突き刺さる。

「というか、そんなに死にたいなら、俺が殺してあげようか?」

笑みを消し去った千蔭は、懐から小刀を取り出した。カチャリと音を立てて、鉛色に光る刃先が顔を出す。

「俺さぁ……アンタ、嫌いだわ」

明確な殺気に当てられた少女が身体を震わせていれば、蝋燭が一つ灯っているだけの薄暗い地下牢に、別の灯火が近づいてきた。

「千蔭、止めろ」

まだ大人にはなりきれていないような、少しだけ高めの、少年のような声。
上等そうな着物に身を包んでいる、綺麗な顔立ちをした男は、少女と目線を合わせると、眉を下げて困ったような顔で笑った。

「部下が御無礼を働き申し訳ありません。オレは、風神与人(かぜかみよりと)と申します。貴女の名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

真っ直ぐな目に、温かさを感じる声に、少女はそっと唇を震わせる。

「私の、名前は……水樹雫音(みずきしずね)、です」
「雫音殿、ですね。綺麗な名だ。……雫音殿?」

与人の優しい言葉に、柔らかい笑みに、すっかり安心してしまった雫音は、そこで再び意識を手放した。



「えー、本当に知らないの? “霖雨蒼生(りんうそうせい)の姫君”!」

ガヤガヤと賑やかな教室内。
クラスメイトの女子が、楽しそうにお喋りしている声が聞こえてくる。

「あー、名前だけなら聞いたことあるかも? 確か有名な乙女ゲームでしょ?」
「そう! そうなの! そのゲームに出てくるキャラがもう皆格好良くてさ……! シナリオもめちゃくちゃ良いの!」

ショートヘアの少女は、掌をグッと握りしめながら、頬杖をついて半ば呆れ顔をしている黒髪ロングの少女に熱弁している。

「へぇ、どんな話なの?」
「世界観的には、和風ファンタジーって感じでね。その世界には、四つの国があるの。でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!」
「なるほどね。それで雨を降らせて感謝されて好かれて、ハッピーエンドってこと?」
「いやいや、そう単純な話でもないのよ。各国はそれぞれ敵対してたりで、まぁ色々な事情を抱えていてね……ヒロインの力を巡って、問題も起きちゃうわけ。で、ハピエンルートが最高なのは勿論なんだけどね。バドエンルートがもう……めっっちゃくちゃ泣けてさぁ。私的には火之国が一番……いや、風之国ルートも泣けたなぁ」
「あんた、だから今日の朝、目がパンパンだったの?」
「てへっ。徹夜でゲームしちゃいました!」
「それは良いけど、次の時間小テストあるからね」
「え、そうだっけ!? やっば、それを早く言ってよ~!」

ショートヘアの少女は、慌てた様子で鞄から教材を取り出している。
雫音は後方の席でそれを眺めながら、特に何を思うわけでもなく、一人ぼうっとしていたのだが、“雨を降らせる力”という言葉には、微かな反応を見せた。

(そんな風に、誰かのために、力を使えたのなら……それは、幸せなことなんだろうな)

窓の外、ポツポツと降る雨粒に目を移しながら、雫音はそう思った。
けれど、それは物語の中だけでのお話で、現実では絶対に有り得ない話であると、知っている。

――そう。雫音はそんなこと、とっくの昔から知っていた。願えば願うほど、信じれば信じるほど辛くなることを、知っていた。

(雨が降り続けることを喜ぶ人なんて、いるわけがない)

もう、諦めていた。
悲観することも、期待することも、とうの昔に止めたのだ。

だから、生まれ持ったこの力を、少しでも抑えられるように。
これ以上神様が泣くことのないように、と。

雫音は今日も、感情を殺して、無感情に、一人ぼっちで。
潸潸(さんさん)と降る雨を、見つめていた。


***

雫音は目を覚ました。視界に広がるのは、見慣れぬ木目の天井だ。
目を瞬いてぼうっとしていれば、左方から声が掛けられる。

「目覚められましたか?」

雫音は、目線だけをそちらに向ける。
そこに居たのは、茶色の長い髪を後ろで一つに括っている、綺麗な顔立ちをした少年で。

(……夢じゃ、なかったんだ)

牢での出来事を思い出した雫音は、これが夢まやかしなどではなく、現実世界での出来事であることを悟った。
それと同時に、まだ夢を見ているのではないだろうかと、軽い現実逃避をしてしまいそうにもなる。けれど、身体に感じる気だるさから、これはやはり夢ではないと、そう結論付けて、ゆっくりと上半身を起こした。

「お身体の方は大丈夫ですか? 先ほどは部下が手荒な真似をしてしまい、本当に申し訳なく……。千蔭、お前も出てきて謝れ」
「はいはい、分かってるって。お嬢さん、さっきは驚かせちゃってごめんね?」

音もなく雫音の前に姿を現した千蔭は、軽い調子で謝罪の言葉を口にする。

「……いえ」

雫音はそれだけ言って、口を閉じた。
千蔭は口許に弧を描きながらも、警戒を顕わにした目で雫音を見つめている。

雫音は、自身に向けられる敵意という名の感情に、直ぐに気づいた。けれど、だからといって、それに傷つくことも、悲しむこともない。
多少の恐怖心はあるけれど、なるだけ平静を装って、無感情でいれるように努めて、目の前の二人と対峙する。

「では、まず食事にしましょうか。雫音殿は、食べられないものなどはございませんか?」
「……いえ、特には」
「それは良かった。風之国の山菜や果実はとても美味ですから、雫音殿にもぜひ召し上がっていただきたくて」
「……風之国?」

聞き覚えのある名称に、雫音は思わず反応してしまった。

「そう言えば、きちんと自己紹介をしていませんでしたね。改めまして、オレは風之国の領主である、風神与人と言います。雫音殿が近くの森林にて倒れていたところを、部下が発見したのです」

――まさか、そんなはずがない。そんなこと、あるわけがない。

そう思いながらも、つい先ほど見ていた夢に出てきた国の名と同じであることに、雫音は引っ掛かりを覚えてしまった。こんな偶然があるのだろうか、と。

「あ、の……」

雫音が詳しいことを尋ねようとした、その時。
部屋の外から、賑やかな声が聞こえてきた。

「いやぁ、本当に良かったよなぁ! 雨が降ったおかげで作物も育つし、これで川の増水も見込めるだろう」
「あぁ。雨女神(あまがみ)様々、だな!」

喜色を孕んだ野太い声は、そんな言葉を残して、あっという間に遠ざかっていった。

「すみません、騒々しくて」

手触りの良さそうな茶色の髪を掻きながら、眉をへにゃりと下げた与人は、困り顔で笑っている。その動きに合わせて、後ろで結われた長い髪が、ゆらゆらと揺れる。

(……変な人だな)

与人は、雫音が思う“領主”のイメージとはかけ離れていた。

領主と言われれば、もっと厳しくて、怖そうな人を思い浮かべる。
けれど、目の前で笑っている与人を見て感じるのは、優しい人なんだろうな、と。ただそれだけだった。

「実はここ最近、雨が降らず、各地で干ばつが続いて困っていたのです。ですがつい先刻、久方ぶりの雨が降ったので、皆大層喜んでいまして」

“でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!”

与人が紡いだ言葉を耳にした瞬間、クラスメイトの女子が楽しそうに語っていた声が、その姿が――雫音の頭の中を、走馬灯のように駆け巡った。

「……そう、なんですね」
「はい。……実は、玉依(たまより)の巫女より、数日前に預言がありました。間もなく、天より雨女神様が現れ、枯れた地に恵みの雨をもたらしてくださる、と。その雨女神様は……雫音殿、貴女ではないのですか?」

与人の確信を持った問いかけに、雫音は、小さく首を横に振って返す。

「いえ、違います」
「ですが……」

与人は柔らかな声音で、追究を試みる。
しかし、雫音の顔を目にして、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。


――霖雨蒼生とは、苦しんでいる人々に、救いの手を差し伸べること。また、民衆の苦しみを救う、慈悲深い人のことを指すらしい。

もしもこの世界が、雫音のクラスメイトが話していた“霖雨蒼生の姫君”の世界なのだとしたら。その名の通り、恵みの雨を降らし、人々を救うお姫様が存在するはずだ。

けれど、そのお姫様は、雫音ではない。


「私は、神様だなんて……そんな、崇高な存在ではありません」

――そう。むしろ私は、人々に疎まれるような存在なのだから。

「私はただの、雨女です」
「あめ、おんな……?」

聞き馴染みのない言葉に、与人は首を傾げた。後ろに控えている千蔭は、雫音の一挙一動を見逃さないように神経をとがらせながら、怪しい動きをしていないかと、探るようなまなざしを向けている。

何とも言えない微妙な沈黙が、室内に漂った。

されど、障子戸を一枚隔てた向こう側では、依然として、大地を潤す恵みの雨が、ざあざあと歓喜の声を上げながら降り続けていた。



「本人が違うって言ってるんだから、そういうことなんでしょ」

沈黙を破ったのは、与人の背後に控えている千蔭だった。

「この子、どう見てもただの女の子だし。とても神様には見えないじゃん?」
「だが、玉依の巫女が仰っていただろう。その予言通り、雫音殿がこの地に降り立った瞬間に雨が降った。それは事実だ」
「確かに、預言通りではあるけどさぁ……」

千蔭からグサグサと突き刺さる猜疑心を孕んだまなざしに気づきながらも、雫音は反応を見せることもなければ、話に割って入ることもせずに、二人の会話を黙って聞いていた。

雫音は、神様などではない。千蔭の言う通りだ。
ただ、のうのうと生きてきただけの、何の才も持たぬ女。

けれど、一つだけ。
ほとんどの人間が持たぬであろう、生まれ持った体質がある。

「あの……」
「はい、何でしょう?」

与人は、雫音が漏らした小さな声にも直ぐに気づいて、千蔭に向けていた顔を正面に座る雫音へと戻す。

「私は、神様ではありません。それは事実です。でも……雨を降らせてしまったのは、私のせいかもしれません」
「そうなのですか?」
「はい。さっきも言った通り、私は雨女なんです」
「その、雨女、と言うのは……?」
「雨を降らせたり、雨に降られたりする確率が高い人のこと、です」

雫音は、生まれながらの雨女だった。

遠出をする時や何かイベント事がある時には、いつも決まって雨が降る。待ち望んでいることがあれば、楽しみにしていることがあれば、雫音の感情に呼応するようにして鉛空が広がり、ポツポツと雨が降るのだ。

そのため、表立って言われることはなかったものの、小学校の運動会や遠足の日など、クラスメイトから陰で悪口を言われていることも知っていた。

「雫音ちゃんが来ると雨が降るから、当日は休んでほしいよね」

――その言葉を、幼い頃から何度も耳にした。

雫音は、自身の体質を疎ましく思いながら生きてきたのだ。
けれど……。

「そうだったのですね! 有難うございます。雨女である雫音殿のおかげで、多くの者が救われました。例え神ではなくとも、貴女はオレたちの命の恩人です」

雫音の話を聞き、嬉しそうに目を輝かせた与人は、心からの感謝の気持ちを口にする。

――雨を降らせたことで、こんな風に感謝されたのは、生まれてはじめてのことだった。

雫音は僅かに瞠目したが、直ぐに表情を戻して、小さく首を振った。

「いえ。別に、私は何も……」
「そのようなことはありません! 本当に、感謝してもしきれません。……そうだ。雫音殿は、これから行く先は決まっているのですか?」
「え? ……いえ、特には」
「でしたら、風之国でゆっくりしていってください。雫音殿の気が済むまで、いつまでもご滞在いただいて構いませんので」

行く当てなど特にない雫音にとって、与人からの言葉は有難い提案だった。
雫音はチラリと、窺うようなまなざしで与人の後方を見る。その先に居るのは、千蔭だ。

千蔭が自身に対して良くない感情を向けていることにはとっくに気づいていたので、雫音は、滞在を反対されるだろうと思ったのだ。

けれど千蔭は、何も言わない。
端正な顔に浮かんでいるのは貼り付けたような笑みで、そこから感情を読み取ることは、難しかった。

「あの、それじゃあ……暫くの間、お世話になります」

悩んだ末、雫音はすごすごと頭を下げた。
ニコニコと笑っている与人と千蔭を交互に見ながら(……何だか疲れた)と、胸中で重たい溜め息を吐き出しながら。

こうして、予期せぬ形で異世界へと迷い込んでしまった雫音は、暫くの間、風之国に身を置くことになったのだ。



雫音が風之国に滞在してから、早五日。

十畳以上はある広々とした和室を用意された雫音は、何をするでもなく、毎日を無気力に過ごしていた。
朝昼晩と女中が食事を部屋まで運んでくれるため、夜の入浴の時間と、トイレの際に部屋を出るだけ。あとはずっと、あてがわれた部屋に篭っている。外に出る必要がないからだ。

初めの頃は、何か手伝えることはないかと女中に聞いてみたりもした。
けれど「お客様にそのようなことはさせられない」と、きっぱり断られてしまったのだ。

与人からは、庭を自由に散歩してもいいと言われていたが、ここ三日間の天候が生憎の雨模様なこともあり、とても外に出る気にはなれなかった。
この雨は雫音が降らせてしまったものなので、それは自業自得の話ではあるのだが。

「雫音殿、今よろしいですか?」
「……はい」

今日も変わらずぼうっと過ごしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、与人だった。

与人は、こうして一日に何度か雫音のもとを訪ねてきては、何か不便なことはないか、困っていることはないかと気にかけてくれる。
そして、雨が降ったおかげで何とかという名前の薬草が育っただとか、畑の作物が育ちそうだとか、どこどこの店の甘味が美味しいのだとか。

そんな他愛のない話をして、去っていくのだ。

領主という立場であれば忙しいはずなのに、時間を割いてわざわざ雫音のもとを訪ねてきてくれるのは、暇を持て余している雫音を気遣ってのことなのだろう。

自身とそう年も変わらないだろうに、素性も分からない怪しい女をこうして迎え入れてくれて、ましてや心を砕いてくれるだなんて……やはり心根の優しい人なのだろうな、と。

雫音は思いながら、今日も与人の話に耳を傾ける。

「実は本日、雫音殿を歓迎する、宴を開こうと思っているのです」
「宴、ですか?」
「はい。美味い料理をたくさん用意していますから、楽しみにしていてください」
「いえ、私は宴だなんて……」
「迷惑、でしたか?」

雫音は誘いを断ろうとした。自分のためにわざわざ宴を開いてもらうなど、申し訳ないと思ったからだ。それに、人が多く集まる場所が好きではないという理由もある。

けれど、あからさまに落ち込んだ顔をした与人にジッと見つめられて、雫音は出しかけていた言葉をグッと飲み込んだ。

「……いえ、迷惑だなんて、そんなことはないです。ただ、私なんかのために宴を開いてもらうことが、申し訳なくて」

しゅんとした顔から一変、今度は眉を顰めたかと思えば、与人は不満げな顔をする。

「雫音殿はよく“私なんか”とご自分を卑下するようなことを口にされますが……オレは、雫音殿は素敵な女性だと思います。ですから、もっと自信を持ってください」

純度百パーセントの笑みを向けられた雫音は、心の隅っこの方がむず痒いような、擽ったいような……今まで感じたことのない、妙な気持ちになるのを感じた。
男の人にこんなにも真っ直ぐに賛辞の言葉を伝えられたのは、多分、生まれて初めてのことだったからだ。

雫音は曖昧に微笑みながら、小さく頭を下げる。普段あまり笑顔を作ることがないので、口角がピクリと引き攣るのを感じた。

「……ありがとう、ございます」
「いえ。それでは、また夜にお会いしましょう」

雫音の歪な笑顔とは対照的に、与人は自然でいて爽やかな笑顔を浮かべると、そろそろ執務に戻ると言って、雫音の部屋を後にした。

一人残された雫音は、肩の力を抜いて、ふぅっと息を漏らす。

与人が善人であることは分かっているが、それでも雫音は、一人でいる方がずっと気楽で、安心できる。他者と関わり合うことに、共に時間を過ごすことに、慣れていないのだ。

そして、宴の誘いを断れなかったことに再び嘆息しながら、閉められた障子戸を少しだけ開けて、縁側の向こうの庭をぼうっと見つめた。雨に濡れて、木々の緑が濃くなっている。

いつの間にか雨は上がっていたが、見上げる空は鉛色のままで、眩しい太陽の姿は見えなかった。


***

「――それでは、雨女神様からのお恵みに感謝して! 乾杯!」
「「かんぱーい!」」

一人の男の音頭を合図に、御猪口や盃がカツンとぶつかり合う音が、あちこちで響き渡る。

宴が行われる大広間には、二十数名の男の姿があった。集う皆が与人の部下にして、その中でもそこそこの地位を持つ者たちだ。見るからに屈強な男たちばかりが揃っている。
また室内の其処彼処(そこかしこ)には、料理を運んだり酒を注いだりしている女中の姿も見えた。

「雫音殿。今宵はたくさん飲んで食べて、楽しんでくださいね」

上座に座っている与人に声を掛けられて、その右斜め前に腰を落ち着けていた雫音は、曖昧に頷く。男性陣たちの熱気やその賑やかな声に、完全に圧倒されていた。

「ささっ、雨女神様も、どうぞどうぞ」

周囲を見渡しながら慣れない空気にソワソワとしていれば、酒瓶を持った二人の男が、雫音のもとに近づいてきた。その顔は薄っすらと赤く染まっていて、開始早々、すでに酔いが回っていることが伝わってくる。

男たちは雫音に御猪口を手渡すと、そこに白濁色の酒を注いでいく。むわりと、強いアルコールの香りが広がる。
未成年であるため酒を口にしたことのない雫音は、鼻腔を通り抜ける慣れない香りに、それだけで頭がクラクラしそうになった。

「雨女神様は、我らにとって命の恩人です。今宵は存分に楽しんでくだされ」

――どうやら此処に集う者たちは、雫音のことを“雨女神様”だと、完全に勘違いしているようだ。

「いえ、私、お酒は飲めないので。それと、私は雨女神様なんかじゃ……」

注がれた酒をやんわりと断りつつ、誤解を解こうとした雫音だったが、その声は中途半端なまま、故意的に遮られてしまう。

「お前ら、雨女神様(・・・・)に、無理強いするなよ」

話に割り入ってきたのは、与人の左斜め前――膳を挟んで雫音の向かい側に座っていたはずの、千蔭だった。

「千蔭殿! ハハ、無理強いなどはしていませんよ」
「そう? 傍から見たら、オッサンたちが女の子に詰め寄ってるようにしか見えないからさ」
「「お、オッサン……!?」」

まだ二十代後半といったところの年齢である二人は、少しだけ傷ついたような顔をして、ガックリと肩を落としている。

その隙にと、千蔭は雫音の手から御猪口を奪い、その中身を一気に飲み干した。そして表情一つ変えることなく、雫音の耳元に顔を近づける。

「コイツらの相手は俺がするから。アンタは与人様の隣に行ってなよ」

雫音にだけ聞こえる声で耳打ちした千蔭は、シッシッと手で追い払うような仕草をする。どうやら雫音が困っていることに気づいて、助けてくれたようだ。

雫音は言われた通りに、与人の隣に移動する。そうすれば、白髪に藍緑色の目をした少年が現れて、雫音に用意されていた膳を目の前に運んでくれる。

「あ、ありがとうございます」
「……」

少年は雫音と目も合わせぬまま、瞬く間にこの場から姿を消してしまった。俊敏な身のこなしからして、彼もまた、千蔭と同じように忍び隊に属しているのかもしれない。

雫音は左隣に目を向ける。そこには与人がいて、料理を黙々と食べながら、幸せそうに頬を緩めている。

「雫音殿、この魚料理、とても美味しいですよ! ぜひ食べてみてください」
「……はい。それじゃあ、いただきますね」

雫音も自身の膳に目を落とした。ほかほかの白米に豆腐とわかめの味噌汁、具だくさんの煮物に、魚の煮つけ、刺身に天ぷら等々。多種多様な料理が並べられている。
雫音は与人が絶賛している魚の身を箸でほぐして、一口頬張った。柔らかく甘みがあって、口の中でほろりとほどけていく。

「美味しい、です」
「それは良かったです」

与人は雫音の顔を見て嬉しそうに笑いながら、また自身の膳に手を付け始めた。

雫音も暫くの間、黙々と食事を続けていたのだが、ふと周囲を見渡してみれば、千蔭の姿が見えなくなっていることに気づいた。先ほど雫音に酒を勧めてくれた男性陣は、酔いつぶれて畳の上に寝転がっている。

「あの……私、少し外で涼んできますね」
「分かりました。お一人で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」

与人に一声掛けた雫音は、席を立って、依然として賑やかな大広間を後にした。



宴の席を抜け出した雫音は、薄暗がりの縁側を一人で歩いていた。そして、その足を止める。数メートル先に、捜していた人物を見つけたからだ。

名前を呼ぼうとした。――けれど、どことなく話しかけづらい雰囲気を感じる。
踵を返すか迷いながらも、雫音は再び足を前へと動かして、その者の側へと恐る恐る近づいていく。

「……どうしたの? 何かあった?」

忍び隊の長を務める千蔭は、気配には人一倍敏感だ。そのため雫音が近づいてきていることにも、とっくに気づいていたらしい。特に驚いた様子もなく、小雨が降っている鉛空を見上げたまま尋ねる。

「いえ、あの……」
「何? ……主役が一人で抜け出してきちゃ駄目でしょ」

此処に来てからというもの、千蔭からは、敵意にも似た感情ばかり向けられている。てっきりまた、冷たい言葉を浴びせられると思っていたのだが――雫音の予想に反して、千蔭の声音は穏やかだ。

「私、お礼が言いたくて」
「お礼?」
「さっき、お酒を勧められた時、助けていただいたので……」
「あぁ、そのこと。アンタは与人様の客人ってことになってるからね。酒に耐性もなさそうだし、そのせいで具合でも悪くなったりしたら、与人様が気に病みそうだからさ」

千蔭はそこで漸く、雨雲に向けていた視線を雫音に移した。千蔭の深紅の瞳に、生気の感じられない、感情の読めない顔をした雫音が映っている。

「もう遅いし、先に部屋に戻って休んでもいいよ。与人様には俺から伝えておくしさ」

千蔭はニコリと口角を上げて、そう言った。
いつもの、貼り付けたような、完璧な笑顔で。

「……千蔭さんは、私のことが、お嫌いですか?」

気づけば雫音は、そう尋ねていた。

笑っているはずなのに、その目の奥は、いつだって冷え切っているように感じる。本心を隠すかのように貼り付けられた笑顔の意味を、雫音はずっと知りたいと思っていた。

数秒か、数十秒か。
暫しの沈黙の末、千蔭はその顔から一瞬で笑みを消し去った。

「うん、嫌いだよ。俺は自分の命を軽んじる奴が、大嫌いなんだよね」
「……そう、ですか」

雫音はその答えを聞いても、特段何も感じなかった。
心のどこかで、そうだろうなと、思っていたから。

――雨を降らせるしか能がない、周りに不幸しかもたらさない自分が、誰かに好かれるだなんて、はなから思っていない。

やはり嫌われていたのだと、納得しただけだった。

雫音は嫌われることに、嫌悪の目を向けられることに、慣れていた。
感情を殺すことにとらわれる余り、悲しいとか、怒りとか。そういう類の感情を、感じづらくなっていたのだ。

「……それじゃあ、俺は行くから」
「はい。……あ、さっきは助けていただいて、ありがとうございました」

まだお礼を伝えていなかったと気づいた雫音は、小さく頭を下げた。

そして、次に顔を上げた時。
千蔭の姿はすでに見えなくなっていた。

雫音は空を見上げた。墨を落としたような一面の真っ暗闇には雨雲が立ち込め、止む気配もなく、しとしとと雨が降り続いている。

「私、これから……どうすればいいのかな」

――いつまでも此処にいるわけにはいかない。それは分かっている。
けれど、何も分からない世界で、死ぬことも叶わず、誰からも必要とされることのない自分が、何をしたらいいのか。何処に行けばいいのか……。

雫音は与人が捜しにきてくれるまで暫くの間、雨空を見上げながら、迷い子になったような心地でその場に立ち竦んでいた。



今朝方には、降り続いていた雨も止んだ。
空には厚い雲がかかっているが、時折、太陽の光が顔をのぞかせている。

自身に当てがわれた部屋の前。縁側に一人で座っていた雫音は、考えていた。

この世界のこと。これからのこと。

けれどいくら考えたところで、いい考えは浮かばなかった。
雫音は何も知らないからだ。

(こんなことになるなら、あの子たちに詳しい話を聞いておけばよかったな)

クラスメイトの女の子たちの顔を思い浮かべた雫音だったが、その考えを直ぐに一蹴した。自分から話しかけている姿など、想像できなかったから。

「……ちょっといい?」

雫音のどんより沈んだ心とは反するように、小鳥のさえずりが聞こえる長閑な時間。
鼓膜を震わせたのは、聞き馴染みのない少年の声だった。

「千蔭に頼まれて、これ……持ってきた」

雫音は顔を右に向ける。そこにいたのは、昨夜の宴会の席で、雫音の膳を運んできてくれた少年だった。珍しい白髪に、藍緑色の猫目が特徴的な男の子。

「これって……」

差し出されたのは、雫音のスクールバッグだった。まさか共にこの世界にきているとは思っていなかったので、きょとんとした顔で目を瞬かせてしまう。

「森の中に、落ちてたって。武器とかが入ってないか、中は一応、確認させてもらったって。……それじゃあおれ、もう行くから」

少年は雫音と目も合わさずに、ボソボソと俯き気味のまま話す。そして、これで用は済んだと言わんばかりに、この場を立ち去ろうとする。

「ま、待ってください」

雫音は少年を引き止めた。すでに背を向けていた少年は、雫音の声に反応して小さく肩を震わせると、再びこちらに顔だけを向ける。

「……何?」
「あの……話を、聞きたくて」
「……」

少年は黙ったまま、斜め下に向けていた目線を更に下げて、自身の足元をジッと見つめている。

――突然声を掛けてしまって、迷惑だっただろうか。

少年の反応を見て、雫音は断られてしまうだろうと思った。
けれど、少年から返ってきた答えは、意外なものだった。

「おれが話せることなら……いいけど」

そう言って踵を返してくれた少年は、雫音の隣、二人分ほど空いた場所に腰を下ろす。

「あ、ありがとう、ございます」
「……別に、いいよ」
「あの、貴方の名前を聞いてもいいですか?」
「おれは、天寧(あまね)
「天寧、さん」
「さんなんて、付けなくてもいいよ。堅苦しい話し方も、しなくいていい」
「……それじゃあ、天寧くんで。天寧くんは、千蔭さんと同じように、この国の忍び隊に入っているんですよね?」
「うん、そうだよ」

千蔭が忍び隊という部隊に所属している隊長であることは、此処で過ごすようになって直ぐに、与人から聞いていた。

千蔭と似たような格好をしていたので、天寧もそうではないかと思っていたのだ。やはり雫音の予想は的中していたらしい。

「千蔭は、幼馴染みたいなもの……だから。千蔭が忍び隊に入ることになったから、成り行きで、おれも入っただけ」
「そうなんですね」
「うん。……それで、他に聞きたいことは?」

天寧はそろりと顔を上げて、窺うような目で雫音を見る。

「その……この世界のことを、教えてもらいたくて」
「この世界のこと?」
「はい。私は無知で、この世界にどんな国があるのかとか、情勢がどうなっているのかとか……そういったことに疎いので。教えてもらえませんか?」

雫音からの質問に、天寧は何かを確認するように、一瞬頭上に目配せした。けれど、それはほんの一瞬、瞬く間のことで、雫音がその仕草に気づくことはなかった。

「いいけど……おれじゃなくて、与人様に聞いた方がいいんじゃないの?」

――会ったばかりの自分より、話す機会も多い与人に聞いた方がいいのではないか。
天寧はそう言いたいのだろう。

「それも考えましたけど……与人さんが部屋を訪ねてくる時は、いつも部屋の前に、控えている方がいる、ので……」
「……あぁ、八雲のことか」

皆まで言わずとも、天寧には分かったようだ。自身の同僚に当たる男の名前を口にして、納得したと言いたげに頷いた。

八雲とは、雫音が牢の中で目覚めた時、一番初めに対峙した男だ。

彼は千蔭のように笑顔で取り繕うこともなく、疑いのまなざしを一切隠す様子もなく、雫音に直接ぶつけてくる。
雫音が少しでも与人に余計なことを口走ったものなら、直ぐに首を掻っ切られるかもしれない。冗談ではなく、本気で。それくらいの殺伐とした圧力を感じるのだ。

「うん、いいよ。教えてあげる」

雫音の言い分に納得してくれたらしい天寧は、話し出す。

「まず、この日ノ本(ひのもと)にある国については、知ってる?」
「その、本当に何も知らなくて……此処は、風之国っていうんですよね?」
「そう。日ノ本は今、四つの国に分断されてる。風之国、緑之国、花之国、そして、火之国」
「風と、緑と、花と、火?」
「そう。外来からの影響も受けたりして、それぞれの国で文化はかなり異なってる。例えば此処、風之国は、昔ながらの風習も大切にしながら、外来からの文化も少しずつ取り入れてる。そして先祖代々、隠密活動に長けた者を育成・輩出している家が多い、とか」

天寧は、雫音にも理解しやすいようにざっくりと、掻い摘んだ説明をしてくれる。

「花之国なんかは、西洋の文化も取り入れているらしいし、緑之国は、自然と調和した生活を大切にしてる。それに、まじないを扱える者が多くいるっていう噂もある」
「それじゃあ、火之国は?」
「あそこは……荒くれ者が集う国、だよ」

天寧は、眉を顰めてそれだけ言う。
火之国については、これ以上話したくなさそうな雰囲気だ。

「つい最近まで領地争いの戦をしていたんだけど、各地で干ばつがあって、それどころじゃなくなったんだ。だから今は、四つの国で協定を結んでる」
「協定?」
「謀反を企てる国には、他の三つの国が協力して、火種となった国を鎮圧する。牽制みたいなものだよ」

天寧はそこまで言うと、チラリと天井を見てから腰を上げた。

「ごめん。おれ、もう行かなきゃ」
「あ、はい。天寧くん、色々と教えてくれて、ありがとうございました」
「別に、いいよ。……じゃあね」

雫音は膝をついたまま、深々と頭を下げてお礼を言う。
恭しい態度をとられることに慣れていない天寧は、困ったように眉を下げた。

そして、雫音が顔を上げた、次の瞬間。
この場に小さな風を吹かせた天寧は、一瞬で姿を消してしまった。

「……やっぱり忍者って、すごい」



「雫音殿、甘味を食べに行きませんか?」
「……え?」

今日も今日とて、縁側に座ってぼうっと空を見上げていた雫音は、訪ねてきた与人と他愛のないおしゃべりを楽しんでいた。与人の愛馬である夜叉丸の数々の功績を聞いていたのだが、脈絡もなく予期せぬお誘いを受けてしまい、一拍遅れて疑問符を返す。

与人の後ろには千蔭も控えていて、雫音と目が合うと、軽やかに笑いながら頷いた。与人の提案については、千蔭もすでに把握していたらしい。

「実は行きつけの喫茶店で、新メニューのチョコレートパフェが出たらしいのです。その店の甘味はどれも絶品なので、ぜひ雫音殿にも食べて頂きたいと思いまして」
「えっ。そのお店には、パフェがあるんですか?」

驚いた雫音は、ぱちりと瞳を瞬く。
純和風建築の内装に、着物に、忍びという存在。何百年も前の時代を彷彿とさせる世界の中で“パフェ”というワードが飛び出てきたことに、違和感を覚えたからだ。
けれど天寧が、風之国では外来からの文化も取り入れていると言っていたことを思い出した。横文字の言葉が混ざり合っていても不自然ではないのだろう。

だけど、やはりどこかちぐはぐで、可笑しな世界だと――雫音はそう思った。クラスメイトたちが話していた、乙女ゲームとやらの世界だからそういう仕様になっているのだろうか。

「もしや雫音殿は、パフェを食べたことがあるのですか?」
「はい、何度か」
「おぉ! さすが雫音殿。情報をお耳に入れるのが早いですな」

目を丸くしていた与人だったが、雫音の返答にぱっと笑顔を咲かせる。この口ぶりから察するに、風之国でパフェが食べられるようになったのは、つい最近のことなのだろう。
雫音がパフェを口にしたのは前の世界での出来事だったが、それを言うと話がややこしくなりそうだったので、あえて勘違いを正すようなことはしなかった。

「雫音殿は、甘いものはお好きですか?」
「そうですね、……はい。甘いものは、好きです」
「でしたら、ぜひ食べに行きましょう! その後に城下町も案内しますので」

誘ってくれる与人は前のめりで、瞳はキラキラと輝いているように見える。その雰囲気にのまれた雫音は、半ば反射でコクリと頷いてしまった。

「それでは、支度をしなければなりませんね! 女中を呼んできますので、雫音殿はこのままお待ちください」

勢いよく立ち上がった与人は、後ろで結った長い髪を尻尾のように揺らしながら、部屋を出て行ってしまう。姿が見えなくなるのはあっという間で、雫音が口を挟む隙もなかった。

「別に、嫌なら嫌って言ってもいいんだからね」
「え?」
「本当は外、行きたくなかったんじゃないの?」

まだ部屋に残っていた千蔭は、雫音が嫌々誘いを受けたと思っているようだ。
確かに雫音は人混みが苦手だし、人目を気にしてしまう節があるので、好んで外出をする方ではない。けれど表情や態度に出しているつもりはなかったので、千蔭に指摘されるとは思ってもいなかった。

「いえ、別に……嫌ってわけではないですから」
「そうなの? ……アンタって、何考えてるのか分かりにくいよね」
「はい。よく言われます」
「……忍びの才能、あるかもよ」

感情の読み取りにくい雫音の顔をジッと見つめていた千蔭は、本気なのか冗談なのかよく分からない言葉を残して、与人の後を追いかけていった。


***

「――この店です! この店の甘味は、どれも絶品なんですよ」

女中に着物を着付けてもらった雫音は、与人と千蔭と共に、初めて城の敷地内を出て、城下へと赴いていた。
先ずはお目当てのパフェがある喫茶店に行こうという話になり、三人は『喫茶 夢庵処』と書かれた暖簾の下をくぐった。

内装はブラウンを基調とした、落ち着いた色合いになっていた。アンティーク調の長机に、葡萄色(えびいろ)のソファが置かれ、小さなシャンデリアが各席の頭上にぶら下がっている。どこか懐かしさを感じる、レトロな雰囲気が漂う喫茶店だ。

「与人様、いらっしゃいませ」

歳は優に六十を過ぎているであろう、丸眼鏡をかけた御老公が、席まで案内してくれた。笑うと目尻にくっきりと皺ができて、優しそうな印象を受ける。

「あぁ、ひと月振りだな」
「えぇ。新作のパフェのご用意もできておりますよ。して、そちらのお嬢様は? 見かけないお顔ですが……」

雫音は小さく頭を下げた。

「こちらは雫音殿といって、この風之国に慈雨をもたらしてくれたお方だ」
「おぉ、ではあの噂は真だったのですね」
「噂?」
「えぇ。雨女神様がこの地に舞い降りて、雨を降らせてくれた、というものです」

黙って話を聞いていた雫音は、それを否定しようとした。自分は雨女神などではない、と。
嘘を吐いているようで心苦しくなったからだ。

「あの、それは…「有難うございます。貴女様のおかげで、大勢の者の命が救われました。今日はお好きなだけ食べて、寛いでいってくださいね」

雫音の小さな声は、届かなかったらしい。
御老公は恭しく頭を下げて、朗らかな笑顔で礼を言うと、手にしていたメニュー表を机に置いた。

「とりあえず、今はいいんじゃない? アンタが雨を降らせたってことは事実なわけだし、店主も喜んでるみたいだしさ」

隣に座っていた千蔭に小声でそう言われた雫音は、開きかけた口を噤むことにした。店主らしい御老公は、もう一度深く頭を下げてから、店の奥へと戻っていった。

「ん? あそこにいるのは……すみません、雫音殿。オレは少々席を外しますので、メニューを見て待っていてください。千蔭、雫音殿のことを頼んだぞ」
「了解」

店内に見知った顔を見つけたらしい与人は、席を立って行ってしまった。その背を見送れば、与人に声を掛けられた男性が慌てて席を立ち、深々と頭を下げている姿が見える。一国の領主である与人が直々に挨拶にきたことに、驚いているらしい。

――やはり与人は、領主らしくない領主なのだな、と。

雫音は思いながら、店主から受け取ったメニュー表を開く。
そこには、雫音もよく知る料理の名前がずらりと並んでいた。パフェやプリンといった甘い物だけでなく、サンドウィッチやおにぎり、ナポリタンといった軽食もあるようだ。

「千蔭さんも見ますか?」

千蔭にも見えるようにと、雫音は開いたメニューを左隣に寄せる。

「否、俺はいいよ」

けれど千蔭は、興味なさげに首を振る。再びメニュー表に目を落とした雫音だったが、そこに書かれた食べ物の名前を目にした瞬間、幼い頃の記憶を思い出した。

「……どうかした?」

どこかぼうっとしている雫音に気づいた千蔭が、不思議そうに尋ねる。

「え? ……あ、いえ。ただ、懐かしいなと思っただけで」
「懐かしいって、何が? ……パンケーキ?」

雫音が指さす文字を声に出した千蔭は、また不思議そうに小首を傾げた。

「はい。子どもの頃に母が、よく作ってくれたんです」

綺麗な黄金色に焼かれた、分厚くてふかふかのパンケーキ。真ん中にバターをのせて、メープルシロップを垂らした、パンケーキといえばのオードソックスなあの味。母の作ったパンケーキが、雫音は大好きだった。

あの頃の雫音は、自身の体質のこともあり、学校を休みがちだった。イベント事がある日などは、特にだ。
けれど母は、そんな雫音を責めることも、学校に行きなさいと諭すこともしなかった。雫音の大好きなパンケーキを作って、「一緒に食べよう」と、いつだって優しく笑いかけてくれた。

「お待たせしました。雫音殿は何にするか、決められましたか?」

知人への挨拶を済ませた与人が戻ってきた。目の前のソファ席に腰を下ろして、雫音の手元にあるメニュー表に視線を向ける。

母のことを考えてぼうっとしていた雫音は、何を注文するか、まだ決めていなかった。けれどここは、誘ってくれた与人を立てる意味でも、与人おすすめのパフェを頼むのがいいだろう。そう思ったのだが……。

「この子はパンケーキにするってさ」
「パンケーキですね。承知しました」
「え? いや、その……」

千蔭の言葉に頷いた与人は、店員を呼ぶと、そのまま注文を進めてしまった。

「あの……私、パンケーキにするなんて一言も……」
「でも、食べたいんでしょ? 言わなくても、顔に書いてあったよ」

千蔭は雫音の顔を見ることなくそう言うと「俺は冷たい玄米茶で」と店員に注文する。

それから十数分ほどして運ばれてきたのは、千蔭が頼んだ玄米茶と、与人が頼んだチョコレートパフェ。そして、二段重ねになったパンケーキだった。
パンケーキの皿が載ったトレーには、レモンの輪切りが浮いたアイスティーもセットになって置いてある。アイスティーは、この地に雨を降らせてくれたことへの心ばかりの感謝の気持ちらしい。

「さっ、雫音殿。食べてみてください」
「……それじゃあ、いただきます」

期待に満ちたまなざしを受けながら、雫音はナイフを使ってパンケーキを一口大に切った。そして、パクリと頬張る。ふわふわの生地に、バターと甘いシロップが合わさって、口の中で蕩けていく。

「……美味しい」

呟けば、雫音の隣に座っていた千蔭が、フッと息を漏らす音が聞こえる。

「そういう顔も出来るんじゃん」
「……え?」

鼓膜を揺らした、優しい声。顔を上げた雫音は、左を向く。
そこにあったのは――初めて目にする、千蔭の笑顔だった。

いつもの貼り付けたような笑みではない。眉を下げて、口角をほんの僅かに上げただけの微笑。とても分かりにくいけれど、でもそこにあるのは、感情が伝わってくる確かな笑顔だった。

雫音が思わず見惚れていれば、千蔭は自身の手元にあるグラスを手に取った。よく冷えた玄米茶を一口。喉仏が小さく上下する。そしてグラスを口許から離した千蔭の顔は、いつもの作り笑顔に戻ってしまっていた。

「雫音殿に気にいっていただけて、よかったです」

雫音のほころんだ顔を見て満足そうに笑った与人は、自身が頼んだチョコレートパフェに手を付け始める。

「ほら、早く食べなよ」
「……あ、はい」

呆けていた雫音は、千蔭の言葉に頷いて、パンケーキをまた一口頬張った。口内が優しい甘さで満たされて、頬が勝手に緩んでいくのが分かる。

「アンタってさ、ずっと人形みたいに感情のない顔してるじゃん。今みたいに笑ったり、それこそ、もっと怒ったり悲しんだりしてもいいんじゃないの?」

グラスを置いた千蔭は、机に頬杖をつきながら、右隣に座る雫音を見つめる。ジッと見られていたことに気恥ずかしさを覚えた雫音は、口の中にあるパンケーキを飲み込んでから、口許をぎゅっと引き結んだ。

「……千蔭さんには、言われたくないです」
「あはは、まぁそれもそうか」

雫音の返しに、千蔭は可笑しそうな声音で同意を示した。そこにあるのは、やはりいつもの、綺麗な作り笑顔で。

――さっきの笑顔の方が、ずっと素敵だったのに。

雫音は、ただ純粋に、そう思った。
けれど何故だか、それを口にすることはできなくて。

「……」

雫音はパンケーキをまた一口、パクリと頬張った。

母が作ってくれた味とは、どこか違う。
けれど、何だか懐かしくて、優しい味がする。そんなパンケーキだった。



「失礼いたします」

部屋でぼうっとしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、身の回りの世話をしてくれている女中の一人だった。年は二十代前半といったところで、この屋敷にいる女中の中では若い方だ。

「そろそろ与人様がいらっしゃる頃合いかと思いまして、お茶をお持ちしました」
「有難うございます」

盆に載せられているのは、湯呑みが二つと、茶菓子の饅頭が二つ。
与人と談笑する際には、こうして茶と菓子を用意してくれるのだ。

「どうです? 此処での暮らしには慣れましたか?」

膝をついて礼儀正しく頭を下げた女中が、部屋に入ってくる。持ってきた盆を机上に置くと、与人のために座布団を用意したり、掛け軸が傾いているのを直したりと部屋の中を動き回りながらも、世間話をするように雫音に話しかけてくる。

「はい。皆さんが良くしてくださるので」
「それは良かったです。……そういえば雨女神様は、他の国に行かれる御予定はないのですか?」
「他の国に、ですか?」
「えぇ。干ばつは他の国でも続いているようですから」
「そう、ですね……今の所、特に考えてないです」
「そうなのですね」
「はい。……あの、何だかすみません」
「あら、何故謝られるのですか? むしろ私どもは、雨女神様に、いつまでも風之国にご滞在していただきたいと思っていますから。何かご不便なことなどございましたら、いつでも仰ってくださいね」

女中は朗らかに笑うと、昼食の支度をしてくると言って部屋を出て行った。

そして、それから数分後。
女中の言っていた通り、与人が部屋を訪ねてきた。

「雫音殿、失礼いたします。……ん? 今日は、もう茶が準備してあるのですね?」
「はい。先ほど、女中の方が持ってきてくださいました」
「はは、オレが雫音殿のもとを訪ねることは、お見通しだったようですね」

照れ臭そうに笑った与人は、座布団の上に腰を下ろすと、湯呑みを手に取った。
そして、温かい茶を喉に流し込んだ。――次の瞬間。

「っ、ゴホッ……ゴホ、カハッ……!」

掌で口許を抑えた与人が、突然、咳き込み始めたのだ。上体を折り曲げて、苦しそうに身体を震わせている。

「よ、与人さん? どうし…「動くな」

雫音は慌てて与人の側に行こうとした。けれどそれは、叶わない。何故なら、廊下に控えていたはずの八雲が素早い動きで入室し、雫音の首元にクナイをあてがったからだ。少しでも動けば、雫音の首元に刃が食い込むだろう。

「……これは、どういうこと?」

困惑と険悪が入り交ざった空気の中、庭先から姿を現したのは、千蔭だった。
苦しそうに咳をしている与人に気づくと、直ぐに近寄って頸動脈に手を当てる。そして「天寧、直ぐに医師を」と、姿は見えないが近くに居るらしい天寧に、冷静に指示を出した。

「あ、雨女神様が、先ほど与人様の茶に何かを入れている姿を、この目で確かに見たんです! 私、不安で、怖くなって……それで、千蔭様を呼びに……」

千蔭の後ろから現れたのは、つい先ほどまで雫音の部屋に滞在していた女中だった。指先を真っ直ぐ雫音に向けて、悲痛そうな面持ちで肩を震わせている。

「やはりお前、間者だったのか」

八雲は冷え切った声でそう言うと、掌にグッと力を込めた。首元にあてがわれたままの切っ先が、首元に食い込む。雫音の白い肌に、鮮血が伝う。

「ゴホッ、八雲、っ、止めろ!」

与人が叫ぶ。
しかし八雲は、クナイを下ろそうとはしなかった。眼光鋭く雫音を見据えている。

「八雲、もういい。あとは俺がやる」
「……御意」

そこに、千蔭の制止の声が掛かる。主君と頭、二人からの指示に、八雲は渋々といった様子でクナイを下ろす。そして雫音の耳元で、「少しでも怪しい動きをしたら、殺す」と、脅しの言葉を吐き捨てた。

「っ、千蔭」
「……分かってますよ。とりあえず与人様は、解毒剤を飲んで安静にしていてください。薬物が茶に混入していたようですが、匂いからして、毒性の低いものですね。頭痛や吐き気を催す程度の症状で、後遺症なんかが残る心配もないはずですけど、一応医師の診察も受けてくださいね。……天寧、あとは頼んだ」
「うん、分かった」

切羽詰まった声を出す与人に、千蔭は“分かっている”と、頷き返した。
医師を連れてやってきた天寧は、眉をほんの僅かに下げて、雫音を見遣る。そこには心配の色が滲んでいたが、俯いていた雫音は、その表情には気づかなかった。

「話はあっちで聞くから。付いてきて」

下を向いたまま、身動ぎ一つすることなく固まっていた雫音の手首を掴んだ千蔭は、誘導するように前を歩く。雫音は抵抗することなくその後に続いた。

「ねぇ、本当にアンタがやったの?」
「……」

足は止めぬまま、千蔭は尋ねた。目だけでチラリと後ろを向いたが、雫音は無表情で、何を考えているのか読み取ることはできない。他者の感情の機微には聡いと自負している千蔭だったが、どうにも雫音に対しては、その自信も崩れ去ってしまう。

普通は、疑われていることに対して自分はやっていないと否定したり、動揺したり恐怖したりするものだろう。けれど雫音の表情は、そのどの感情とも結びつかない。何も感じられない。

「だんまりじゃ、何も分かんないんだけど」
「……」
「頭、もう止めましょう。現場を見た者がいるのですから、やったのはこの娘に決まっています。聞くだけ時間の無駄です」

後を追いかけてきた八雲は、雫音の背を睨みつける。

「……はぁ。分かった。とりあえずアンタには、犯人が確定するまでの間、牢にいてもらう」

何か思うところがあるのか、難しい顔をして考え込んでいた千蔭だったが、小さく嘆息して、雫音を地下牢へと誘導する。
けれど、やはり雫音は、やったのは自分だと罪を認めるわけでもなければ、自分はやっていないと声を上げるわけでもなく。千蔭に言われるまま、大人しくその後に続いたのだった。



雨が止み、空には三日月が昇っている。深い闇夜に包まれた時間。
雫音は以前にも来たことのある牢の中で、膝を抱えてじっとしていた。

どうして牢の中に入れられているのかと言えば、与人の茶に毒物を混入した疑いをかけられているからなのだが、勿論、雫音はそんなことはしていない。そもそも部屋に篭りきりだった雫音は、毒などを入手する術もない。だというのに、何故自分はやっていないと声を上げなかったのか。

――何故なら雫音は、諦めているからだ。声を上げても尚、信じてもらえなかった時、声が届かなかった時の辛さを、雫音はよく、知っていたから。

(私、このまま殺されちゃうのかな。それならそれで、仕方ないのかもしれないけど……でも、痛いのは、嫌だな)

膝に顔を埋めた雫音は、目を閉じた。もう何も考えたくなくて、そのまま意識を手放そうとした。――その時、牢の鍵がガチャンと開けられる音がした。

「雨女神様。さっきはごめんなさいね」

牢の中に入ってきたのは、一人の女だった。黒く長い髪を後ろで結いあげている。キリリとした切れ長の目は意志が強そうで、赤い紅が引かれた口許は、綺麗な弧を描いている。

目の前の女性は、雫音が何度も顔を合わせたことのある人物だった。雫音がこの牢に入れられることになった、元凶とも言える存在。

「貴女は……」
「改めまして、私は雛菊(ひなぎく)と言います。先ほどは雨女神様に罪を着せるようなことをしてしまい、申し訳ありません。ですがそれも、貴女のためにしたことなんですよ」

深々と頭を下げた雛菊は、ここ最近、雫音の身の回りの世話をしてくれていた女中だった。

「私のためって、どういうことですか? それに、どうやってここに……外には、見張りの人がいたはずなのに……」
「あぁ、眠ってもらったんです」

雛菊はニコリと綺麗に笑った。よく見ればその格好は、普段のような着物姿ではない。身体のラインがよく分かる、生地の薄そうな服を着用している。腰元のベルトには、拳銃が二挺ぶら下がっていた。

それを目視した雫音は、そろりと顔を持ち上げて、雛菊の目を真っ直ぐに見据えた。恐怖心といった感情はない。ただ、雛菊がこのような行動を起こした理由を、知りたいと思った。

「貴女の目的は、何ですか?」
「私は、貴女を助けにきたんです」
「助けに……?」
「えぇ。そして、貴女の……雨女神様の力が必要なんです。どうか風之国を出て、私と一緒に来てくださいませんか?」

屈んで雫音と目線を合わせた雛菊は、笑みを消し去り、真剣な顔をして懇願する。

「……それは、出来ません」
「何故です? それにこのままじゃ、雨女神様は疑われたままです。最悪殺されちゃうかもしれませんよ? ですが私と一緒に来てくだされば、雨女神様に何一つ不自由させることなく、その身をお守りするとお約束します」

雛菊は外の様子に警戒しながら、雫音を説得するべく言葉を並べ立てていく。
けれど雫音は、首を縦には振らない。

「私……与人さんたちに、たくさんお世話になりました。だけどまだ、お礼の言葉も、全然伝えられていません。だから……黙っていなくなることは、したくないんです」
「……分かりました」

雫音の言い分に、雛菊は眉を顰めながら頷き返す。そして、牢の外へと歩いていく。

「ですが私も、そう簡単に引き下がるわけにはいかないんです。ですから私が……雨女神様の心残りを、失くしてきて差し上げます」

雛菊は、腰元にある拳銃を一挺手にする。

「それって、どういう……」
「与人様を、この手で葬ってきてあげるってことですよ」
「……は、何言って……「大丈夫です。雨女神様が手を汚すわけではありませんから、気に病む必要はありません。汚れ仕事は、私のような日陰に生きる者がすることですので」

冷えた声色に、何の感情も映していない瞳。
雛菊は動揺している雫音を置いて、牢の外に出る。

「別の迎えの者が直にやってきますから、雨女神様は此処で待っていてください」
「っ、あの!」

雫音は声を上げる。けれど雛菊はその声を無視して、闇夜の中を駆けていった。

「っ、……待ってください!」

雫音は、雛菊の後を追いかける。錠が開いたままの牢を出れば、見張り番の男が倒れている姿があった。雛菊の言っていた通り、眠っているだけのようだ。

暗く狭い階段で何度か転びそうになりながらも、雫音は足を止めることなく駆けあがった。そして、地下にある牢から地上へと出る。雨は降っていなかったが、ついさっきまで顔を出していた月は、厚い雲に覆われて見えなくなっていた。

靴を履いていないので、小石や木の枝が足裏に刺さってジクジクと痛みだす。けれど雫音は、それでも足を止めなかった。与人を捜して走った。

与人がいなくとも、誰でもいい。与人が狙われていることを早く伝えなければ、と。その一心だった。

(っ、いた)

庭園を真っ直ぐに突き進んでいけば、屋敷の縁側を一人で歩いている、与人の姿が見えた。走る速度を緩めた雫音は、与人に声を掛けようとする。

「……っ、危ない!」

雫音は叫んだ。
――庭の先、茂みに身を潜めた雛菊が、拳銃を構える姿が見えたからだ。

駆け寄ってくる雫音を目にして、与人は驚きで目を丸くしている。しかし、まだ身体が思うように動かないのだろう。呆気にとられたまま固まっている与人を守るように、縁側に飛び乗った雫音は正面からその身体に抱き着いた。

次の瞬間。
パンッ! という銃声音とほぼ同時に、カキーンッ! と、雫音にとって聞き慣れぬ金属音が、背後から響いた。

「八雲、東の方向に一人逃げた。こっちは俺がやる」
「御意」

千蔭の声だ。次いで聞こえてきたのは、八雲の声。雫音が背後を見れば、すでに八雲の姿はなく、険しい顔をした千蔭が一人立っているだけだった。

「雫音殿、お怪我はありませんか!?」

雫音の腕の中にいた与人は、雫音の両肩を掴み返して、顔を覗き込んでくる。そこには狼狽の色がありありと滲んでいる。

「わ、私は大丈夫です……」
「本当ですか? っ、何故このような無茶を……!」

苦しそうに声を震わせる与人だったが、息を小さく吐き出して逸る心を落ち着かせると、雫音の顔を真っ直ぐに見据えた。

「ですが、オレを守ろうとしてくれたんですよね? ……有難うございます。オレはまた、雫音殿に助けられてしまいましたね」

笑っているはずの与人は、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。
それを直視した雫音は、何故だか胸が、ギュッと苦しくなるのを感じた。

「はぁ、失敗しちゃった。雨女神様の心残りを減らして差し上げたかったのに」

話していた雫音と与人は、声の聞こえてきた庭の方に、同時に顔を向けた。そこには与人に向けて銃弾を放った雛菊が居て、対峙するような形で庭に下り立っていた千蔭が、鋭い睨みを利かせている。

「やっぱり、アンタの仕業だったわけね」
「あら、バレちゃってました?」

心の芯まで凍えそうな、低い声。
けれど雛菊は、そんな千蔭の問いかけに対しても、平然とした様子で応える。

「アンタ、つい最近入ったばかりの子だよね? 怪しいと思って、素性を調べさせてもらったんだ。そしたらまぁ、嘘だらけの経歴が出てきたわけなんだけど」
「フフ。駄目じゃないですか。そういうことはきちんと調べておかないと」
「そうだね。ウメさんの知り合いの娘さんってことで、調べが甘くなってた。それは完全に、こっちの落ち度だ」

ウメさんとは、女中の中でも一番長く勤めている女性で、歳は八十を過ぎているらしい。信頼のある女性からの紹介ということで、素性調査が甘くなってしまったようだが、そもそもウメさんからの紹介だということ自体が嘘だったようだ。

「で、アンタはどこの国からの回し者?」
「火之国」

雛菊の口から告げられた国名に、千蔭と与人両者の顔が、更に険しくなった。

「その書簡に書いてある通りです。我が主は、雨女神様がお越しになることを心待ちにしています。……雨女神様。良い返事を、お待ちしていますね」

その言葉の直後。雛菊の周囲に、ボフンッと音を立てて、白い煙が上がった。
千蔭は懐に隠し持っていたクナイを、雛菊目掛けて飛ばす。けれどクナイは煙幕を突き抜けて、奥にある木の幹に突き刺さった。

数秒ほどして、煙幕が消えた。雛菊が立っていたはずの場所には、一羽の黒くて大きな鳥が、羽をばたつかせながら宙に浮いている。

「と、鳥? が、何でここに……?」

雫音が呆気にとられている間にも、千蔭は懐から取り出したクナイを標的目掛けて飛ばす。けれど黒い鳥は、それを華麗な身のこなしで軽々と避ける。

「そう簡単に逃がすわけないだろっ」
「フフ、またお会いできる日を楽しみにしていますね」

大きな黒い鳥はそのまま上空へと舞い上がり、鉛空の下を突き進んでいった。

「え? 今あの鳥から、雛菊さんの声が聞こえたような気がするんですけど……」
「火之国には、獣人族や鳥人族がいるのです。あの者も、その血筋の者なのでしょう」
「獣人族……?」
「はい。そんなことより、まずは手当てをしましょう」
「手当てって……わっ」

上空を見上げたまま呆然としていた雫音の身体が、宙に浮いた。
与人が雫音を横抱きにして、持ち上げたからだ。

「あの、与人さん……!?」
「足裏が切れています。それに、首のところも。あれから治療をしていませんよね?」
「えっと、でも、もう……」

足裏の傷は、此処に来るまでの間にできたもの。首元の傷は、八雲にクナイを押し付けられた時にできたものだ。
すでに血も止まっているし大丈夫だと言おうとしたが、辛そうにグッと眉を顰めている与人の顔を目にしてしまえば、その言葉を口にすることはできなかった。