雫音が風之国に滞在してから、早五日。

十畳以上はある広々とした和室を用意された雫音は、何をするでもなく、毎日を無気力に過ごしていた。
朝昼晩と女中が食事を部屋まで運んでくれるため、夜の入浴の時間と、トイレの際に部屋を出るだけ。あとはずっと、あてがわれた部屋に篭っている。外に出る必要がないからだ。

初めの頃は、何か手伝えることはないかと女中に聞いてみたりもした。
けれど「お客様にそのようなことはさせられない」と、きっぱり断られてしまったのだ。

与人からは、庭を自由に散歩してもいいと言われていたが、ここ三日間の天候が生憎の雨模様なこともあり、とても外に出る気にはなれなかった。
この雨は雫音が降らせてしまったものなので、それは自業自得の話ではあるのだが。

「雫音殿、今よろしいですか?」
「……はい」

今日も変わらずぼうっと過ごしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、与人だった。

与人は、こうして一日に何度か雫音のもとを訪ねてきては、何か不便なことはないか、困っていることはないかと気にかけてくれる。
そして、雨が降ったおかげで何とかという名前の薬草が育っただとか、畑の作物が育ちそうだとか、どこどこの店の甘味が美味しいのだとか。

そんな他愛のない話をして、去っていくのだ。

領主という立場であれば忙しいはずなのに、時間を割いてわざわざ雫音のもとを訪ねてきてくれるのは、暇を持て余している雫音を気遣ってのことなのだろう。

自身とそう年も変わらないだろうに、素性も分からない怪しい女をこうして迎え入れてくれて、ましてや心を砕いてくれるだなんて……やはり心根の優しい人なのだろうな、と。

雫音は思いながら、今日も与人の話に耳を傾ける。

「実は本日、雫音殿を歓迎する、宴を開こうと思っているのです」
「宴、ですか?」
「はい。美味い料理をたくさん用意していますから、楽しみにしていてください」
「いえ、私は宴だなんて……」
「迷惑、でしたか?」

雫音は誘いを断ろうとした。自分のためにわざわざ宴を開いてもらうなど、申し訳ないと思ったからだ。それに、人が多く集まる場所が好きではないという理由もある。

けれど、あからさまに落ち込んだ顔をした与人にジッと見つめられて、雫音は出しかけていた言葉をグッと飲み込んだ。

「……いえ、迷惑だなんて、そんなことはないです。ただ、私なんかのために宴を開いてもらうことが、申し訳なくて」

しゅんとした顔から一変、今度は眉を顰めたかと思えば、与人は不満げな顔をする。

「雫音殿はよく“私なんか”とご自分を卑下するようなことを口にされますが……オレは、雫音殿は素敵な女性だと思います。ですから、もっと自信を持ってください」

純度百パーセントの笑みを向けられた雫音は、心の隅っこの方がむず痒いような、擽ったいような……今まで感じたことのない、妙な気持ちになるのを感じた。
男の人にこんなにも真っ直ぐに賛辞の言葉を伝えられたのは、多分、生まれて初めてのことだったからだ。

雫音は曖昧に微笑みながら、小さく頭を下げる。普段あまり笑顔を作ることがないので、口角がピクリと引き攣るのを感じた。

「……ありがとう、ございます」
「いえ。それでは、また夜にお会いしましょう」

雫音の歪な笑顔とは対照的に、与人は自然でいて爽やかな笑顔を浮かべると、そろそろ執務に戻ると言って、雫音の部屋を後にした。

一人残された雫音は、肩の力を抜いて、ふぅっと息を漏らす。

与人が善人であることは分かっているが、それでも雫音は、一人でいる方がずっと気楽で、安心できる。他者と関わり合うことに、共に時間を過ごすことに、慣れていないのだ。

そして、宴の誘いを断れなかったことに再び嘆息しながら、閉められた障子戸を少しだけ開けて、縁側の向こうの庭をぼうっと見つめた。雨に濡れて、木々の緑が濃くなっている。

いつの間にか雨は上がっていたが、見上げる空は鉛色のままで、眩しい太陽の姿は見えなかった。


***

「――それでは、雨女神様からのお恵みに感謝して! 乾杯!」
「「かんぱーい!」」

一人の男の音頭を合図に、御猪口や盃がカツンとぶつかり合う音が、あちこちで響き渡る。

宴が行われる大広間には、二十数名の男の姿があった。集う皆が与人の部下にして、その中でもそこそこの地位を持つ者たちだ。見るからに屈強な男たちばかりが揃っている。
また室内の其処彼処(そこかしこ)には、料理を運んだり酒を注いだりしている女中の姿も見えた。

「雫音殿。今宵はたくさん飲んで食べて、楽しんでくださいね」

上座に座っている与人に声を掛けられて、その右斜め前に腰を落ち着けていた雫音は、曖昧に頷く。男性陣たちの熱気やその賑やかな声に、完全に圧倒されていた。

「ささっ、雨女神様も、どうぞどうぞ」

周囲を見渡しながら慣れない空気にソワソワとしていれば、酒瓶を持った二人の男が、雫音のもとに近づいてきた。その顔は薄っすらと赤く染まっていて、開始早々、すでに酔いが回っていることが伝わってくる。

男たちは雫音に御猪口を手渡すと、そこに白濁色の酒を注いでいく。むわりと、強いアルコールの香りが広がる。
未成年であるため酒を口にしたことのない雫音は、鼻腔を通り抜ける慣れない香りに、それだけで頭がクラクラしそうになった。

「雨女神様は、我らにとって命の恩人です。今宵は存分に楽しんでくだされ」

――どうやら此処に集う者たちは、雫音のことを“雨女神様”だと、完全に勘違いしているようだ。

「いえ、私、お酒は飲めないので。それと、私は雨女神様なんかじゃ……」

注がれた酒をやんわりと断りつつ、誤解を解こうとした雫音だったが、その声は中途半端なまま、故意的に遮られてしまう。

「お前ら、雨女神様(・・・・)に、無理強いするなよ」

話に割り入ってきたのは、与人の左斜め前――膳を挟んで雫音の向かい側に座っていたはずの、千蔭だった。

「千蔭殿! ハハ、無理強いなどはしていませんよ」
「そう? 傍から見たら、オッサンたちが女の子に詰め寄ってるようにしか見えないからさ」
「「お、オッサン……!?」」

まだ二十代後半といったところの年齢である二人は、少しだけ傷ついたような顔をして、ガックリと肩を落としている。

その隙にと、千蔭は雫音の手から御猪口を奪い、その中身を一気に飲み干した。そして表情一つ変えることなく、雫音の耳元に顔を近づける。

「コイツらの相手は俺がするから。アンタは与人様の隣に行ってなよ」

雫音にだけ聞こえる声で耳打ちした千蔭は、シッシッと手で追い払うような仕草をする。どうやら雫音が困っていることに気づいて、助けてくれたようだ。

雫音は言われた通りに、与人の隣に移動する。そうすれば、白髪に藍緑色の目をした少年が現れて、雫音に用意されていた膳を目の前に運んでくれる。

「あ、ありがとうございます」
「……」

少年は雫音と目も合わせぬまま、瞬く間にこの場から姿を消してしまった。俊敏な身のこなしからして、彼もまた、千蔭と同じように忍び隊に属しているのかもしれない。

雫音は左隣に目を向ける。そこには与人がいて、料理を黙々と食べながら、幸せそうに頬を緩めている。

「雫音殿、この魚料理、とても美味しいですよ! ぜひ食べてみてください」
「……はい。それじゃあ、いただきますね」

雫音も自身の膳に目を落とした。ほかほかの白米に豆腐とわかめの味噌汁、具だくさんの煮物に、魚の煮つけ、刺身に天ぷら等々。多種多様な料理が並べられている。
雫音は与人が絶賛している魚の身を箸でほぐして、一口頬張った。柔らかく甘みがあって、口の中でほろりとほどけていく。

「美味しい、です」
「それは良かったです」

与人は雫音の顔を見て嬉しそうに笑いながら、また自身の膳に手を付け始めた。

雫音も暫くの間、黙々と食事を続けていたのだが、ふと周囲を見渡してみれば、千蔭の姿が見えなくなっていることに気づいた。先ほど雫音に酒を勧めてくれた男性陣は、酔いつぶれて畳の上に寝転がっている。

「あの……私、少し外で涼んできますね」
「分かりました。お一人で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」

与人に一声掛けた雫音は、席を立って、依然として賑やかな大広間を後にした。