(いっつもああして座ってるだけで、暇じゃないのかねぇ。……何考えてんだろ)

天井裏に身を潜めた千蔭は、縁側に腰掛けている雫音を見つめていた。要は、監視のようなものだ。

どれだけ調べてみても一切素性の分からない、怪しい少女。与人は風之国を救ってくれた恩人だと言ってすっかり心を許している様子だが、忍びである千蔭は、そう易々と絆されるわけにはいかなかった。

(本当に生気のない顔してるな)

動くことのない表情筋に、千蔭は雫音のことを、人形のようだと思っていた。そして、出会い頭に雫音が言っていた言葉を忘れられずにいた。――自ら命を断とうとしていたという雫音のことを、千蔭は少なからず、嫌悪していたのだ。

けれど昨日、喫茶店でパンケーキを頬張っていた雫音の表情を目にした時。
微笑を浮かべていた雫音を見て、千蔭は表情にこそ出さなかったものの、驚いた。

(……いつもあんな風に、笑ってればいいのに)

無表情で、全てを諦めたような顔をしている彼女にとって、少しでも心許せる存在が、好きだと思える何かがあればいい。彼女のことなど何も知らないが、生きることを諦めることだけは、してほしくないと思った。

――そんな感情を抱いている自分に、らしくないと驚きながらも、思うだけならば許されるだろうと、そう結論付けて。

パラパラと優しい音を奏でる雨音に耳を澄ませながら、千蔭は視線の先にいる少女のことを考えていた。


***

「傷、痛む?」
「……その、少しだけ」

あの後。雫音を抱えて部屋に戻り、手当てをしようとした与人を制したのは、千蔭だった。

「この子の手当ては俺がするから、与人様は自分の部屋に戻っててよ」
「だが……」
「というか、勝手に抜け出すとか本当に勘弁してよ。さっきもこの子の所にこっそり行こうとしてたんでしょ? まだ本調子じゃないくせに」
「……バレていたのか」
「当たり前」
「すまない……」
「手当てを終えたら、与人様に報告に行くからさ」
「……分かった。雫音殿、オレは部屋に戻りますね。千蔭にきちんと手当てをしてもらってください」

千蔭に諭された与人は自室に戻り、今この部屋にいるのは、雫音と千蔭の二人だけだ。

「女の子が無茶して、傷が残ったらどうするの」
「どうする、とは」
「嫁の貰い手がなくなっちゃうでしょ」
「いえ、別に気にしませんし……そんなこと、千蔭さんには関係ないことですよね?」

自分を嫌っている千蔭にとっては、嫁の貰い手がなくなろうと、どうでもいいはずだ。
雫音はただ、思ったままを口にしただけだった。

「……アンタって、本当にさぁ……」

雫音の返答に、何かを堪えるように言葉を飲み込んだ千蔭は、溜息を吐き出した。そして、雫音の右頬をふにっと摘まむ。
千蔭の表情は、いつもの笑顔ではなかった。ジトリとした目をしていて、口許はへの字を描いている。その顔は不機嫌そうで、どことなく拗ねているようにも見える。

「可愛くない」
「……別に、千蔭さんに可愛いと思ってもらえなくても大丈夫です」
「そーいうところだよ」

頬から手を離して、雫音の鼻先をつんと突いた千蔭は、救急箱を開ける。

「でも、犯人を誘き出すためとはいえ、また地下牢なんかに閉じ込めちゃってごめんね」
「いえ。……でも千蔭さんは、私を疑っていたんじゃないんですか?」

――てっきり千蔭も、自分を犯人だと思っているものだと。
そう考えていた雫音だったが、今の口ぶりからしてそうではないらしい。

「……疑ってるよ。でも、与人様の茶に何か仕込んだのがアンタじゃないってことくらいは、初めから分かってた」

千蔭は雫音の足裏に、消毒液を染みこませた脱脂綿をあてがう。治療をする手は止めぬまま、話し続ける。

「それに、与人様がアンタのことを信じるっていうんだから、部下の俺が信じないわけにもいかないでしょ? ……って言っても、与人様は生粋のお人好しだからさ。主を守るためにも、俺が疑うことを完全に止めることはできないんだけどね」

千蔭は脱脂綿を置くと、首元と足裏全体に傷薬を塗ってから、今度は包帯を手に取って患部に巻き付けていく。慣れた手つきだ。

「それじゃあ、今度は俺から質問するけどさ。あの時、何で自分はやってないって言わなかったの?」
「それは……」
「八雲は、完全にアンタが犯人だと思い込んでたよ」
「……分かりません」
「分からない?」

千蔭は片眉を上げて、訝しそうな顔をする。

「それじゃあ、あのまま殺されてもよかったわけ?」
「……それも、仕方のないことだったかなって」

雫音の返答に、千蔭は不快そうに顔を顰めた。

「……やっぱり俺、アンタのこと嫌いだわ」

苛ただしげに吐き捨てて、立ち上がる。傷の手当てはすでに終わっていた。
そのまま部屋から出て行くと思った千蔭だったが、何故か障子戸の前で足を止めたかと思えば、引き返してきた。そして、雫音の目の前に屈み込む。

「あの、千蔭さん? どうし……」

――雫音は息を呑んだ。真剣な表情をした千蔭が、眼前まで迫っていたからだ。あと数センチで、唇が触れ合いそうな距離。雫音は咄嗟に、瞳を固く閉じた。

「……へぇ。そういう顔もできるんだ」

鼓膜を揺らした低い声。すぐ目の前まで迫っていた気配が離れていく。
雫音はそうっと目を開けた。

「――年端もいかない小娘が人生諦めるなんて、百年早いよ。その感じだと好い人の一人もいなかったみたいだけど、死ぬ前に恋人くらい作ってみれば?」
「なっ……よ、余計なお世話です!」
「それと、こういう時には無闇に目は閉じないこと。俺じゃなかったらアンタ、パクッと喰われてるからね」

千蔭は意地の悪い顔でニヤリと笑っていたかと思えば、

「あ、もう一つ言い忘れてた。与人様を守ってくれたこと、感謝してるよ。ありがとね」

と優しい顔で感謝の言葉を述べて、部屋を出て行ってしまった。
一人残された雫音は、畳の上にへたり込んだままだ。

「……何、今の」

そう、ポツリと呟く。
雫音の顔は、熟れた林檎のように真っ赤に色づいていた。