「失礼いたします」

部屋でぼうっとしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、身の回りの世話をしてくれている女中の一人だった。年は二十代前半といったところで、この屋敷にいる女中の中では若い方だ。

「そろそろ与人様がいらっしゃる頃合いかと思いまして、お茶をお持ちしました」
「有難うございます」

盆に載せられているのは、湯呑みが二つと、茶菓子の饅頭が二つ。
与人と談笑する際には、こうして茶と菓子を用意してくれるのだ。

「どうです? 此処での暮らしには慣れましたか?」

膝をついて礼儀正しく頭を下げた女中が、部屋に入ってくる。持ってきた盆を机上に置くと、与人のために座布団を用意したり、掛け軸が傾いているのを直したりと部屋の中を動き回りながらも、世間話をするように雫音に話しかけてくる。

「はい。皆さんが良くしてくださるので」
「それは良かったです。……そういえば雨女神様は、他の国に行かれる御予定はないのですか?」
「他の国に、ですか?」
「えぇ。干ばつは他の国でも続いているようですから」
「そう、ですね……今の所、特に考えてないです」
「そうなのですね」
「はい。……あの、何だかすみません」
「あら、何故謝られるのですか? むしろ私どもは、雨女神様に、いつまでも風之国にご滞在していただきたいと思っていますから。何かご不便なことなどございましたら、いつでも仰ってくださいね」

女中は朗らかに笑うと、昼食の支度をしてくると言って部屋を出て行った。

そして、それから数分後。
女中の言っていた通り、与人が部屋を訪ねてきた。

「雫音殿、失礼いたします。……ん? 今日は、もう茶が準備してあるのですね?」
「はい。先ほど、女中の方が持ってきてくださいました」
「はは、オレが雫音殿のもとを訪ねることは、お見通しだったようですね」

照れ臭そうに笑った与人は、座布団の上に腰を下ろすと、湯呑みを手に取った。
そして、温かい茶を喉に流し込んだ。――次の瞬間。

「っ、ゴホッ……ゴホ、カハッ……!」

掌で口許を抑えた与人が、突然、咳き込み始めたのだ。上体を折り曲げて、苦しそうに身体を震わせている。

「よ、与人さん? どうし…「動くな」

雫音は慌てて与人の側に行こうとした。けれどそれは、叶わない。何故なら、廊下に控えていたはずの八雲が素早い動きで入室し、雫音の首元にクナイをあてがったからだ。少しでも動けば、雫音の首元に刃が食い込むだろう。

「……これは、どういうこと?」

困惑と険悪が入り交ざった空気の中、庭先から姿を現したのは、千蔭だった。
苦しそうに咳をしている与人に気づくと、直ぐに近寄って頸動脈に手を当てる。そして「天寧、直ぐに医師を」と、姿は見えないが近くに居るらしい天寧に、冷静に指示を出した。

「あ、雨女神様が、先ほど与人様の茶に何かを入れている姿を、この目で確かに見たんです! 私、不安で、怖くなって……それで、千蔭様を呼びに……」

千蔭の後ろから現れたのは、つい先ほどまで雫音の部屋に滞在していた女中だった。指先を真っ直ぐ雫音に向けて、悲痛そうな面持ちで肩を震わせている。

「やはりお前、間者だったのか」

八雲は冷え切った声でそう言うと、掌にグッと力を込めた。首元にあてがわれたままの切っ先が、首元に食い込む。雫音の白い肌に、鮮血が伝う。

「ゴホッ、八雲、っ、止めろ!」

与人が叫ぶ。
しかし八雲は、クナイを下ろそうとはしなかった。眼光鋭く雫音を見据えている。

「八雲、もういい。あとは俺がやる」
「……御意」

そこに、千蔭の制止の声が掛かる。主君と頭、二人からの指示に、八雲は渋々といった様子でクナイを下ろす。そして雫音の耳元で、「少しでも怪しい動きをしたら、殺す」と、脅しの言葉を吐き捨てた。

「っ、千蔭」
「……分かってますよ。とりあえず与人様は、解毒剤を飲んで安静にしていてください。薬物が茶に混入していたようですが、匂いからして、毒性の低いものですね。頭痛や吐き気を催す程度の症状で、後遺症なんかが残る心配もないはずですけど、一応医師の診察も受けてくださいね。……天寧、あとは頼んだ」
「うん、分かった」

切羽詰まった声を出す与人に、千蔭は“分かっている”と、頷き返した。
医師を連れてやってきた天寧は、眉をほんの僅かに下げて、雫音を見遣る。そこには心配の色が滲んでいたが、俯いていた雫音は、その表情には気づかなかった。

「話はあっちで聞くから。付いてきて」

下を向いたまま、身動ぎ一つすることなく固まっていた雫音の手首を掴んだ千蔭は、誘導するように前を歩く。雫音は抵抗することなくその後に続いた。

「ねぇ、本当にアンタがやったの?」
「……」

足は止めぬまま、千蔭は尋ねた。目だけでチラリと後ろを向いたが、雫音は無表情で、何を考えているのか読み取ることはできない。他者の感情の機微には聡いと自負している千蔭だったが、どうにも雫音に対しては、その自信も崩れ去ってしまう。

普通は、疑われていることに対して自分はやっていないと否定したり、動揺したり恐怖したりするものだろう。けれど雫音の表情は、そのどの感情とも結びつかない。何も感じられない。

「だんまりじゃ、何も分かんないんだけど」
「……」
「頭、もう止めましょう。現場を見た者がいるのですから、やったのはこの娘に決まっています。聞くだけ時間の無駄です」

後を追いかけてきた八雲は、雫音の背を睨みつける。

「……はぁ。分かった。とりあえずアンタには、犯人が確定するまでの間、牢にいてもらう」

何か思うところがあるのか、難しい顔をして考え込んでいた千蔭だったが、小さく嘆息して、雫音を地下牢へと誘導する。
けれど、やはり雫音は、やったのは自分だと罪を認めるわけでもなければ、自分はやっていないと声を上げるわけでもなく。千蔭に言われるまま、大人しくその後に続いたのだった。