ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 令和六年九月四日、水曜日。日本、岩手県、大祇村。

「ゆう?」

 翔が覗きこんでくる。机でつっぷしていたから。

「どっか痛いの?」
「あ、いや、ちょっとお腹が。……大丈夫」
「帰るべ?」
「あ、ちょっと待って、ちょっとトイレ」

 ゆうは男子トイレにかけこんだ。便座に座り、考える。

(始祖……始祖は誰だ?)

 男か女かもわからない、顔もわからない。ということは、歳もわからないのだろうか。

『そうだよ』
「ベル!」

 聞こえてきた愛しい声に、トイレの個室でひとり声を上げた。

『私たちも、きみが始祖と呼ぶモノに追われていた』
「ベルは見たの?」
『……うん、見たよ』
「見たのっ? 誰、誰だった?」

 ゆうは食い気味に聞くが、愛しい少女の声は暗い。
『それが……見たはずなんだけれど……わからないんだ。必死に逃げる旅の途中、捕まったんだ。そして、私のこの世でいちばん大切なものも取り上げられた。そして、この村に連れてこられた』
「それが、この前の……転校生?」

 今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました。あの日のあゆみ先生の言葉が浮かぶ。

『そう。愛しいきみの転校生になった。きみと会った最後の日。胸に十字架の杭を打たれた……でも……それが誰だったのか、その記憶だけがすっぽりと無いんだ』
「そんなことが……」
『出来得る。私たち新月のモノは、かんだ相手を洗脳できる』
「僕のことも?」
『したろ? たましいのとりこに』

 ……そうだった。ゆうは、嬉しくてほっぺたが赤くなった。

『同じことが、オリジン……始祖にも出来ると思われる。つまり、見たことを忘れさせるんだ』

 あのさ、とゆうは記憶をたどりながら言葉を紡いだ。

「あの部屋のかんおけの前で、ベルの記憶を聞いたんだよね……胸に杭を打たれる瞬間の」
『……うん。覚えているよ。きみの記憶は私の記憶だから』
「あの時の声、男の人だったけど」
『あれも、改ざんされていると思ってくれて間違いない。女だったかもしれないし、本当に男の声だったのかもしれない』
 途方に暮れる。見たものや記憶すら書き換えられる存在と闘わなければならないなんて。

「……早く君をとりもどさなきゃ」
『私はこのままでもいいよ。愛するきみといっしょにいられる。思っているより心地よくてね』
「僕は、ベルに会いたいんだ。一刻も早く」
『……好きにするといいよ。きみにあげた新月の始祖の力があれば可能だ』

「ゆう? 誰と話してんの」
「あ……ああ、なんでもない」
「てか、うんこ長すぎない?」

 ゆうはかあっと顔が赤くなった。

「いいから! あっちで待っとけよ!」

「……ベル、必ず君を取り戻すよ。……例えクラスのみんなを殺すことになっても」
『……誰かを殺すのは、本当にもういやなんだけどな……』

 ベルが頭の中で小さく呟いた。
「みて、ベルベッチカ。僕らの家だよ」
「白にしてくれたんだ」

 少女の顔がぱあっと明るくなる。
 この村に来てふた月が経った。大好きな、愛しいアレクが誇らしげに新築の家を見せる。木で出来ているのは、ほかの家と同じ。でも、真っ白なペンキで塗ってある。せっかく新調したばかりの色鮮やかなダウンの胸元に、白いペンキが付いてしまっている。逃亡生活の中で奪ったSUVがいつもペンキの臭いがしていたのも、この為なんだろうとベルベッチカは思った。

「白、好きだろ? ぜーんぶ、塗ってみた!」
「ぷっ……あはははは……」
「え、ダメ? 変かなあ」
「ははははは、あはは……ううん、ちがうちがう。背の高いきみが、一生懸命しゃがんで、小さくなって下まで塗ってたのかと思うとね……あっははは」
 七百歳の吸血鬼はお腹を抱えて笑った。久しぶりだった、こんなに大きな声で笑ったのは。久しぶりだった、こんなにきれいな家に住むのは。あんまり笑うから。……笑うから。
 気持ちが悪くなった。急に、吐き気に襲われた。その場でうずくまって、吐きもどした。でも最近は何も食べて──血を吸って──いないから、胃液がでるだけ。
 苦しそうにえずく彼女に、愛しい彼が背中をさすりながら心配そうに覗き込んでくれる。

「ベルベッチカ! 大丈夫?」
「うん……大丈夫……たぶん」

 彼女には、思い当たるコトがあった。

 ……

 令和六年九月五日、木曜日。日本、岩手県、大祇村。

「相原ちゃんさ、ちょっと時間くれない?」

 女子唯一のメガネ少女でロングヘアに白のカチューシャ、みかが放課後声を掛けてきた。

「なに? みか」
「見てほしいものがあるんだよね」

 今日は九月なのに朝から猛烈に暑い。そしてみかの家は下町だから、行ったらそれだけで十五分、帰るのにも三十分は歩く。……なるべく、避けたい。恐る恐る聞いてみた。

「ううん、神社まで」

 神社なら近い。良かった。そう安心して彼女を見ると、何やら顔色が悪い。いつものおとぼけ天然の、忘れ物クイーンじゃない。
「みか?」
「あ、うん、大丈夫」
「おー、ゆう、帰るべ」

 翔が相変わらずのテンションで話しかけてきた。

「悪い、先に帰ってて」
「はー? なんでよ」
「ちょっと、今日はダメなんだ。……ごめん」
「ちぇっ、なんだよそれ。つまんね」

 翔は唇をとがらせて、帰っていった。

「ありがとう」

 みかは下を向いて少し、はにかんだ。

「内緒にしてくれて」
「……なんとなく、言って欲しくなさそうだったから」
「……うん、みんなには内緒にして欲しくて」
「いいよ。……じゃあ、いこっか」

 ……

 みーんみんみんみん、セミが大合唱。今日は本当に暑い。東北でも山間の盆地に位置するこの村は、暑くなるときは容赦しない。田んぼに面する道路では、ミミズが干からびていた。大人より背の低い子供には、アスファルトが鉄板みたいで、より一層暑かった。
 ゆうはこんな日にももちろん、キャップは欠かせない。目深に被って、決して人には髪を見せない。

「あぶないよ、クルマ来るよ」
「いいのいいの。真ん中歩きたくて」

 あれ以来、田んぼが怖い。

『それと、水を恐れる。水に近づきたがらない』

 おじいちゃんの言う通りだ。ここ数日は、手も顔も洗ってない。

 ……
 坂を登りきって、神社の下り階段が遠くに見えてきた頃。

「相原ちゃん」

 みかが下を向いたまま、つぶやくように口を開いた。

「大祇祭。どうだった?」

 ぎくり。ゆうは心臓を針でちくりと刺されたようだった。

「どうって……どういう意味……?」
「……本殿着いたら、話すね」

 長い階段を下りて、境内に着いた。川の音が聞こえる以外とても静かで、洞窟が近くにあるからか少しだけひんやりしている。仮の本殿も何事もなかったかのように洞窟の入り口に立っている。相変わらず嫌な雰囲気だと思って見ていると、みかが覗き込んで、何か見せてきた。

「相原ちゃん。これ」

 小さなジップロックに、黒い何かの毛みたいなのが束になって入っている。

「……これって。まさか……」

 こくり、とメガネの少女は頷いた。

「こっちが、私たちがお屋敷で最初に遭ったおおかみ。で、これが、祭りの日に現れたおおかみのもの。比べてみて」

 そう言って、もうひとつ、ジップロックを出した。……同じに、見える。

「だよね?」
 ここでゆうはハッとする。
 あの日、神社にいたヒトはみな噛まれおおかみになったか、食い殺されてしまっている。祭りのことを覚えているヒトは、ゆうとお父さんとお母さん、沙羅とおじいちゃんだけのはずだ。

「私、お祭りが始まるほんとすぐ前に、おなか痛くなっちゃってトイレに行ってたの。そしたら、本殿はもう閉まってるし、変なヒトたちがいっぱいいるしで入れなくて。仕方ないから外で待ってたら……」
「おおかみが本殿からあふれた……」
「うん。だから私、またトイレに駆け込んで、必死にドアを押さえたんだよ」

 みかは真っ青だ……あの日のことを思い出しているようだ。

「ばきばき、くちゃくちゃ。おおかみがヒトを食べる音がずっと、ずうっとして、怖くて怖くて。何時間かして、ドアを開けると、おおかみは居なくなっていたの。でも……」

 涙を浮かべて、ゆうの目を見た。

「パパもママも居なくて……たくさんの血があちこちに飛び散ってて。それでこの毛を、見つけたの」
 ゆうはお父さんとお母さんのことを、おそるおそる泣きそうな少女に聞いた。

「それが……怖くなって家に帰ると普通に居たんだ、おかえりって。……おかしいよね、一緒に行ってたんだよ、でも祭りのことを何も覚えてなくて……私、忘れ物クイーンだから、忘れっぽいよ? でも、こんなの変だよ、私でも覚えてるのに……それとも私が、変になっちゃったのかな……」

 そう言うと、ゆうの前で泣き始めた。

「言ってくれてありがとう。みかは……ヒトなんだね。この村で数少ない……」

 こくり、とみかはうなずいた。いつもの天然おとぼけキャラからは想像もつかない、この村の呪いを恐れるふつうの女の子、だった。ゆうはみかの肩を抱いてあげた。とても柔らかだった。

『きみ。愛しいきみ』

 ベルが唐突に告げる。

『気をつけて……奴の……オリジンの気配がする』
「えっ?」
『近い』

 ……

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