ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 ゆうは、言うなら今だと考えた。
 ベルに「新月のモノ」の「始祖」にしてもらったことを。

「ああ……そうか。やはりベルベッチカだったか」
「うん。あの子に、かんでもらったんだ。今月の六日に」
「そうだったのね。……ゆうちゃん、言ってくれてありがとう」

 そう言ってお母さんは、ゆうの癖のある髪をしまった帽子の上から撫でた。
 ……この髪の毛が、コンプレックスなんだ……

「ねえねえ、相原先生、おばさん。ゆうが祭りの日、おおかみたちを食べたのって……」
「それは、私が説明しようかの」

 沙羅のおじいちゃんが口を開いた。

「さっき言った通り、新月のモノの始祖は、バラバラにされても食べられても、元に戻ることが出来る。……ゆうくんの中のベルベッチカの細胞が、取り戻そうとしていたのだろう」
「ベルが、取り戻す……」

 ゆうは自分の手を見た。

「じゃあ、ベルの肉を食べたおおかみたちをみんな食べれば……」
「ああ、ベルベッチカは復活するだろう」

 ゆうの心の中に、宿ってはいけない火が灯った。……友達や、村人達全ての命を、愛しいベルにために食う、その業火が。

「だが、そうするためにも、満月の『始祖』を滅ぼさなくては、復活は無理だろう。おおかみたちは、満月の始祖の下僕なのだから」
「……わかりました」

 ゆうは、覚悟を決めた。絶対に、満月の始祖を滅ぼすと。おおかみたち全てを食べ尽くす、と。

「ところで、なんでトマトジュースは飲めたんですか?」
「完全に目覚めた新月の始祖は、目覚めていない『幼体』と違い、食事を取らないと聞く。が、トマトジュースを飲むとは……」
「ああ、あれ? ……お決まりじゃない? 吸血鬼にはトマトジュースって」

 お母さんは、そう言って笑った。
「ベルベッチカ、こっちだ!」
「アレク、お願い、手を離さないでっ」

 雪原をひたすら走るふたつの影。両者はヒトの形をしているが、ヒトではない。「新月のモノ」と呼ばれる存在だ。この社会主義の超大国では、吸血鬼と呼ばれていた。
 数時間前、住んでいた村が満月のモノ、おおかみの襲撃を受け壊滅した。おおかみ達を率いているモノを、ふたりは「オリジン」と呼んでいた。
 ……ベルベッチカも、新月のオリジンだ。今までただのおおかみなら引けを取ることもなかった。しかしここ数年、オリジンがおおかみを統率するようになった。格段に、手強くなった。それまで勝てていたおおかみに、苦戦するようになった。倒しても倒しても湧くように現れるおおかみに、押された。
 そして……今回現れた満月のオリジン。
 凄まじい強さだ。奴には、絶対に勝てない。
 顔がわかる位まで接近もした。だが、どうやってもその姿を認識できないのだ。男か女かもわからない、顔もわからない。ヒトにも新月にも敵対し、数多の新月を葬ったその存在は、脅威以外の何者でもなかった。
 そしていつの間にか包囲網は築かれていた。今まで隣人だった住人たちは、おおかみにすり替えられた。仲が良かった友達、隣人、知人はみな、二人に襲いかかった。
 特に、六百九十七年生きてきたベルベッチカという名前の新月のオリジンに、満月のオリジンは固執した。
 ……もう五年。追い続けられ、追い詰められる日々が続いている。
 アレクセイという百八十五センチの高身長、金髪に緑の瞳の青年は、ベルベッチカの恋人である。十一歳くらいにしか見えない彼女と違い、二十歳前後に見えるが彼の方が遥かに若い。つい三十五年ほど前に少女が新月のオリジンの力を与えたばかりの青年だ。まだ目覚めていない幼体だが、けんめいに彼女を守ってくれる。

 ……おおかみたちの気配が消えた。

「はあ、はあ……振り切ったか」

 彼がそう言い、少女が振り返る。遠く……二十キロくらい先で、煙が大きくあがっている。村全体が燃えているのだろうか。あのおおかみの群れだ。修羅の巷で生き残りはないだろう。

「ああ」

 ベルベッチカは雪の上で、ひざから崩れ落ちた。

「ああああ……」

 声も涙も、枯れ果てたと思ったのに、まだ溢れてくる。

「ああああ……」
(……地獄じゃないか……この世界は……生きるということは)

 ポケットにしまっていた、古い……本当に古い赤い服のぬいぐるみが、ぽすっと落ちた。

「……行こう」

 アレクはそれを拾って、彼女の肩をささえてくれた。

「アレク、アレク。死んだよ、みんな死んでしまった」

 そう言って、吸血鬼の少女は慟哭の声を上げた。

 ……
 令和六年九月二日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。
 一ヶ月ぶりにランドセルをしょって家を出ると翔が声をかける。

「久しぶり! 行こうぜ!」
「……ああ、いいよ」

 ゆうは穏やかに笑った。

 ……

「いいか、ゆうくん」

 沙羅のおじいちゃんは、真剣な顔でゆうを見た。

「今は日常を、いつも通りに送るんだ。コピーのおおかみたちは、ヒトの姿ではおおかみの記憶はないし、鼻も効かない。祭りも、なつやすみも終わった。学校にいる限り、安心なんだよ」
「あたしもいる! 任せて!」

 そう言って、沙羅はリュックからあの十字架のお守りを取り出して、見せた。そして八重歯を見せてにっこり、笑った。

「だいじょぶだかんね!」

 ……

「やほー、翔!」
「あっ、来たな、ガサツ女!」

 翔はいつものようにランドセルを前にしょって構えた。

「もー、やめろってー」

 身構えていた顔の前の手をどける。

「……あれ。いつものおーふくビンタは?」
「ああ。今日は……ふふ、やって欲しい?」

 にい、と沙羅が笑った。

「ひー、やめてー!」
「まてこら、翔ーっ!」

 真夏が過ぎた、木漏れ日がきらきらした山の中の道路。幼なじみたちは坂を駆け降りていった。

「沙羅……ありがとう」

 ゆうは感謝をつぶやくと、帽子を直して、二人を追った。

 ……
 大神小学校、五年一組。
 あゆみ先生が、一学期と同じようにおっとりと教室に入ってきた。

「はいはーい。なつやすみ、楽しく過ごしましたかぁ?」
「はーい!」
「みなさん、元気いっぱいで何よりです! 特に!」

 みんなのお返事を聞いて、あゆみ先生は満足そうに笑顔を浮かべる。

「大祇祭! みなさん、たくさんお肉食べられましたかー?」

 はーい。おいしかったです。うまかったー。これでもう大人ー? みな、楽しかった異口同音の感想を口々にする。

「それはよかった! 先生もとっても嬉しいです。ね、ゆうくん」

 ぎくり、ゆうの額に汗がつたう。

「とっても美味しそうに、食べてましたもんね?」
「は、はい……」
(あれ。あの洞窟の中に……あゆみ先生。居たっけ)
「はい、じゃあ、今日はまずなつやすみの宿題を集めますよー」

 あゆみ先生はいつものにこにこした顔を貼り付けて、いつもどおりに授業を始めた。

『始祖は誰か、わかっているんですか』
『毅さん、それもわからんのだ。男か女か、見た目も歳もわからない。だが確実に存在し人々の中に溶け込んで、着実にこの村のヒトをおおかみに変えている』

 あの日、沙羅のおじいちゃんは苦い顔で確かに、そう言った。
「ここなら大丈夫そうだ」

 五十六時間後。アレクセイとベルベッチカは雪山の中に手入れのされた山小屋を見つけた。荒れ果ててはいない……つまり誰か他のヒトがここに来ている、ということだ。油断は出来ないが、ここ三年血を吸っていないベルベッチカの体力は限界だった。

「休んでいて。シカでも捕ってくる」

 彼はそう言うと、吹雪の中へ山小屋から出ていった。

「はあ……」
(疲れた。……とても)

 少女は疲弊しきっていた。ヒトから身を隠すのも、おおかみと戦うのも、満月のオリジンから逃げるのも。
 ふう、と真っ白い息を吐く。ヒトなら数分で凍死しているだろう。けれど新月のオリジン、ベルベッチカなら平気だ。……それが、油断を招いた。

「おや、誰もいないと思ったら」

 彼じゃない……ヒトだった。ランタンを持った四十過ぎくらいの男だ。彼女はいま、黒の薄いチュニック一枚だ。

(しまった、うとうとしていたら……)
「こんな中そんな格好ってことは、おめえ……ヒトじゃねえな?」

 そう言うと、男は手を伸ばしてきた。
 アレクが悲鳴を聞いた時、二キロは離れていた。だから、ベルベッチカからもらった新月の力で全力でかけつけたが、深い雪に足を取られた。思いっきりドアを蹴破ると、半裸にされた愛しい少女が犯されそうになっていた。男の首を二秒で落とすと、彼女が叫んだ。

「なんで殺したんだ! どうして!」
「え? だって、殺さなかったら、君は……」
「なんで……なんで!」
「君に酷いことをしようとしたんだぞ」
「殺すのはいやだ! もう、殺すのはいやなんだよぉ!」

 そう言うと、パニックを起こしている彼女は彼の腕の中で、じたばたと暴れた。

「もういやだ、もういやだーっ!」

 男にはもう、抱きしめる事しか出来なかった。

 夜遅く、目が覚めたアレクセイの前で、ベルベッチカは服を脱いだ。
 赤い洋服のぬいぐるみが、抱き合う二人を静かに見守っていた。

 ……
 令和六年九月四日、水曜日。日本、岩手県、大祇村。

「ゆう?」

 翔が覗きこんでくる。机でつっぷしていたから。

「どっか痛いの?」
「あ、いや、ちょっとお腹が。……大丈夫」
「帰るべ?」
「あ、ちょっと待って、ちょっとトイレ」

 ゆうは男子トイレにかけこんだ。便座に座り、考える。

(始祖……始祖は誰だ?)

 男か女かもわからない、顔もわからない。ということは、歳もわからないのだろうか。

『そうだよ』
「ベル!」

 聞こえてきた愛しい声に、トイレの個室でひとり声を上げた。

『私たちも、きみが始祖と呼ぶモノに追われていた』
「ベルは見たの?」
『……うん、見たよ』
「見たのっ? 誰、誰だった?」

 ゆうは食い気味に聞くが、愛しい少女の声は暗い。
『それが……見たはずなんだけれど……わからないんだ。必死に逃げる旅の途中、捕まったんだ。そして、私のこの世でいちばん大切なものも取り上げられた。そして、この村に連れてこられた』
「それが、この前の……転校生?」

 今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました。あの日のあゆみ先生の言葉が浮かぶ。

『そう。愛しいきみの転校生になった。きみと会った最後の日。胸に十字架の杭を打たれた……でも……それが誰だったのか、その記憶だけがすっぽりと無いんだ』
「そんなことが……」
『出来得る。私たち新月のモノは、かんだ相手を洗脳できる』
「僕のことも?」
『したろ? たましいのとりこに』

 ……そうだった。ゆうは、嬉しくてほっぺたが赤くなった。

『同じことが、オリジン……始祖にも出来ると思われる。つまり、見たことを忘れさせるんだ』

 あのさ、とゆうは記憶をたどりながら言葉を紡いだ。

「あの部屋のかんおけの前で、ベルの記憶を聞いたんだよね……胸に杭を打たれる瞬間の」
『……うん。覚えているよ。きみの記憶は私の記憶だから』
「あの時の声、男の人だったけど」
『あれも、改ざんされていると思ってくれて間違いない。女だったかもしれないし、本当に男の声だったのかもしれない』