「どうして始祖はこの村に来たんでしょう」
それは毅さん、わからんのだよ。江戸から明治にかけての文明開化で、世の中では政府が主導しておおかみなどの人外に対して大規模な駆逐を行った。全国に散らばっていた始祖たちは、駆逐の最重要の標的だった。この村の「始祖」も、そうして標的にされ全国を逃げ回った。
そして百五十年前。政府の手の届かない、東北は岩手の山奥のこの寒村に逃げてきた……わしは先代からそう聞かされておる。
「始祖は誰か、わかっているんですか」
毅さん、それもわからんのだ。男か女か、見た目も歳もわからない。だが確実に存在し人々の中に溶け込んで、着実にこの村のヒトをおおかみに変えている。
始祖のコピー、普通のおおかみには弱点があってな。おおかみになってしばらく経つと、ヒトに戻れなくなるのだ。だいたい十二、三年でそのようになると伝えられている。
「大祇祭……」
そうだ、ゆうくん、その通りだ。あの祭りは、おおかみたちをヒトに留めるため、必要な儀式なのだ。あるモノを食べさせると、おおかみはその力をヒトの姿に抑えられるくらいに減らすことができる。満月の力を減らすことの出来るもの。
「まさか」
……ゆうくん、そのまさかなんだよ。それは……「新月のモノ」の肉なのだ。
「満月の力を減らすことの出来るもの」
「まさか」
ゆうの顔から血の気が引いていく。
「……ゆうくん。そのまさかなんだよ。それは……『新月のモノ』の肉なのだ。祭りの日に出されただろう。あの肉は『新月のモノ』の肉だ」
「嘘だっ! そんな、そんな! だって、だってそれって……」
ゆうは激しく動揺した。心臓が大太鼓みたいに激しく鳴って、耳鳴りがする。
「そうだ。あの肉は、新月のモノ、ベルベッチカ・リリヰのものだ」
……
トイレの外で、沙羅がゆうの名を呼びながら必死にドアをたたく。
「おええっ。げえええっ」
ゆうは便器を抱いて、吐き続けた。トマトジュースしか飲んでないから、真っ赤な血みたいな色をしている。いや……血を吐いているのかもしれない。
だって、自分が食べたのは。この世で一番好きな、ベルベッチカ・リリヰの舌だったのだから。
『だいじょうぶかい』
ベルの声が聞いてきた。
「大丈夫なもんか。ひどいじゃないか。なにも言わずに居なくなって、何も言わずに死んじゃっていて。何も言わずにベルを食べていたなんて」
「ゆうちゃん?」
沙羅が異変に気付いた。
『……すまない。愛するきみには、ないしょにしておきたかったんだけど』
「どうして言ってくれなかったの? そしたら逃げたのに。二人で、どこへでも」
「ゆうちゃんってば」
扉の外から声をかけている。
『それは……できないんだ。私はここで殺されなければならなかった』
「そんな、おおかみのことなんて知らないよ! 僕にはベルが大切だったのに!」
「ゆうちゃん、だれと話しているの?」
だんだん幼馴染の声が大きくなる。
『膝を折るしかなかったんだ。人質を取られていたから』
「人質?」
「ゆうちゃんっ!」
『私の……大切な人だよ。この世でいちばん』
「……ひどいよ。愛してるのは僕じゃないの?」
ゆうにはベルベッチカの言葉がショックで、沙羅の声は届いていない。
「おじいちゃん、ゆうちゃんがっ!」
ついにはおじいちゃんを呼びだした。
『はは。愛している、の種類が違うよ』
「種類……?」
『ほら、きみを好きな女の子が、心配してる。行ってあげなよ』
……
「ゆうくん? 大丈夫かね」
「ずっと吐きながらぶつぶつ言ってるの」
ゆうは立ち上がって、トイレのレバーを上げた。じゃー……がちゃり。
「ゆうちゃん! 大丈夫なの? ……誰と話してたの? ねえ、ゆうちゃん!」
「沙羅、やめなさい。ゆうくんは新月のモノだ。心の声が聞こえるんだ」
そういうと、優しく背中をさすった。
「ショックだったろう。……誠に申し訳ない。村を代表して、君に謝罪するよ」
「……もう、いいです……」
そうとだけ言うと、ゆうはリビングの扉を開けた。
お父さんが席を立った。
「大丈夫か」
「……別に……」
「どうでもよくはない。大丈夫かと聞いているんだ……ゆう!」
「あなた」
お母さんが止めてくれた。今は、なにも話したくなかった。
「さて『新月のモノ』について、話しても大丈夫かね」
おじいちゃんがゆうに聞いた。ゆうはこくりとうなずいた。
「わかった。話すとするかね」
……
「新月のモノ」は、「満月のモノ」とは対極にあるモノたちだ。かむと仲間を増やせる、という点では同じだがね。空を自在に飛び、獲物を見つけるとその長い牙で血を吸う。吸われた者は、新たな新月のモノになる。
こちらは吸血鬼として有名だね。実際には、少し生態が違う。 満月と同じで新月にも「始祖」が存在する。太陽の光に当たると蒸発してしまうコピーと違い、「始祖」は太陽の元、自在に活動が出来る。新月の晩にその能力は開花し、一斉に血を吸いに夜空を飛ぶという。
「満月と新月……どちらもヒトをおそうの?」
沙羅、そうだね、襲う。ただ、この村では、事情が異なる。おおかみ達の能力を制するのに新月のモノの肉を使うというのは、他の国や地域では全く知られていない。どうやら満月の「始祖」が何か詳しいことを知っているものと思われる。だから、この村では、十二年に一度の祭りのため、生贄が必要になる。新月のモノを、生贄にするんだ。今回は、誰かが新月の「始祖」ベルベッチカ・リリヰを何処かから連れてきた。
「それは、誰ですか」
すまん、ゆうくん。許してくれ。私にもわからんのだ。おそらく満月の「始祖」なのだろうが、巧妙にヒトに擬態していて、おおかみなのかヒトなのかすら、見分けがつかない。
ああ、もうひとつ。新月の「始祖」は、細胞単位での再生が可能だ。どんなに切り刻んでも、焼いても、食べられても。体が揃えば、再生して生まれ変われる。
「ええっ! それって!」
ああ、ゆうくん。君の愛するベルベッチカを、取り戻すことも可能だ。
「えーと……話が色々あってわかんなくなってきた」
沙羅、わかった。まとめると、こうだ。
ひとつ。この村には、ヒト、満月のモノ、新月のモノが混在している。祭りの時、肉を不味そうにしていたヒトがいたはずだ。それは、ヒトの証拠だ。
ふたつ。満月のモノには「始祖」がいて、他のおおかみをコントロールしている。母体を滅することができれば、コピー達もみな滅ぶはずだ。
みっつ。新月のモノは、生贄にされ、満月のモノたちに食われた。が、新月の「始祖」である為、復活も可能だ。
そして、よっつ目。どちらにも、弱点がある。新月のモノは、十字架型の杭で胸を貫くと、刺している間は完全に動きを封じることが出来る。それと、水を恐れる。水に近づきたがらない。これらは新月の「始祖」でも同じだ。満月のモノは、銀の弾丸を打ち込むことで滅ぼすことが出来る。
「それは、満月の始祖にもですか」
だれも試していないからわからないが、そうに違いないと私は考えている。……これをあげよう。君に残された最後の切り札だ。
「おじいちゃん、それって!」
「正夫さん、それは違法です」
毅さん、あんたが教師なのは知っているが……どうかこれだけは大目に見てもらえんかの。この村を救うことが出来るのは、今やゆうくんだけなのだ。
「……わかりました。ゆう、受け取りなさい」
「……はい」
……
それは、銀色の、西部劇に出てきたような、回転式の古い拳銃だった。ずっしりと、重い。
「銀の弾丸が一発だけ、入っている。もうそれしかないんだ。……きみに始祖を見抜く力があれば、満月のモノを根絶することができる」
そういうと、拳銃を持つゆうの手に、おじいちゃんが手を重ねた。
「私も孫娘も、ヒトだ。祭りでは、可哀想に何百人ものヒトが犠牲になった。……どうか、どうか、この村の呪いを断ち切っておくれ」
「この村に、残っているヒトは、だれ?」
ゆうが拳銃からおじいちゃんに目を移す。
「ほとんどが祭りの日に犠牲になった。おおかみに変えられてしまった。今の時点でヒトと判明しているのは……私と沙羅。毅さんに静さん……君のご両親だね。あと……クラスメイトに橋立という子はいなかったかね。あの子とその両親も……」
「だめです、おじいちゃん。美玲は僕の前でおおかみに食いちぎられました。今日会いに行ったら何事も無かったかのようにいたけど……」
「ああ……だめだったか。その子は手遅れだ。おおかみになってしまった。おそらくご両親も……ダメだろう……」
リビングに沈黙が流る。
「それで……」
ゆうが沈黙を破った。
「なんで僕はトマトジュースしか飲めなくなったの?」
「そうか。それがあったな」
おじいちゃんがゆうを見た。
「それについては私が」
お父さんが声を上げた。
「ゆうに、言わなければならないことがある」
お父さんは、ゆうを見てメガネをクイっとした。
お父さんは、ゆうを真っ直ぐ見た。
「ゆうに、言わなければならないことがある」
「あなた……」
「いいんだ。いずれ言わなくてはならなかったんだから、な」
……
お父さんが母さんと出会ったのは、娘が家出をしたと、下町の高池のご両親が大祇小学校の職員室に駆け込んできたのがきっかけだった。……今の下町で和菓子屋をやってる、おじいちゃんとおばあちゃんだな。
お父さんはこの学校に異動してきたばかりで、三十一歳。母さんはまだ、小学五年生だった。
ふたつ前の大祇祭が終わって、三年しか経っていなかった。だからおおかみに襲われる可能性は少なかったんだが……ご両親は大慌てだった。
「心配しすぎなのよ、父さんも、母さんも」
村が村だからな……ご両親の気持ちもよく分かった。それでお父さんは、大祇小学校の先生たちと手分けして、村の家々を一件づつ周ったんだ。ところが、どんなに周っても手がかりがない。しょうがないからとなりのY市の警察署に通報して、山狩りをした。それで見つかったのが……
「うちの本殿の中だったな。たしか」
ええ。……どうやって入ったのか、本殿の中からひょっこり見つかった。
「ふふふ、そんなこともあったわね」
まあ、それで母さんをご両親……下町のおじいちゃんとおばあちゃんの所に送り届けていると……
「告白、したのよね」
突然だったからな……あれにはびっくりした。まあ、未成年だったし、交際は十八歳を超えてからだと伝えて、ご両親に届けたわけだ。で、七年経って母さんが高校を出たら、お付き合いさせてもらったわけだ。