ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

「……ごめん、わからない」

 その気持ちはあるんだけど、もうゆうには「そうでない」と言えなかった。ただ、下を向くしか出来なかった。

「ねえ、ゆうちゃん」
「ん?」

 ん──!
 沙羅がキスをしてきた。短く、大人に見られないように。すぐにはなしたけれど。ベルみたいに、舌を使わなかったけれど。

「ゆうちゃん。だいすき」

 そう言うと、沙羅はソファのクッションにぼすんと顔をうずめた。短めの水色のワンピースを着ていたから、ピンクのぱんつが見えた。

「沙羅」
「なんも言わないで! めっちゃ恥ずかしいの! いま!」

 沙羅はクッションに顔をすりつけて言った。ゆうの心に、なんだか暖かい火が灯った気がした。

「……ありがとう、沙羅……」

 ん。沙羅は、短くそうとだけ言った。

 ……
 がたんごとん、がたんごとん。どこか、電車の上に居るようだ。

「うわあああ!」

 下腹部が引きさかれるくらいの痛みに、叫び声を抑えられない。
 冷たい粒が顔に当たる。雪が降るなか、屋根のない電車に乗っている。

「あああぁぁぁ! うぁぁああ!」

 声が出なくなるほど叫んでいるのに、骨盤を砕かれるような痛みは引いてくれない。

「しっかり! もうすぐセーカントンネルだ」
「アレク、アレク、いたい、すごくいたいんだよ……うあああっ!」

 ごとんごとん、ごとんごとん。視界が真っ暗になる。電車はトンネルに入ったのか、光の帯がきらきらと後ろに下がる。

「もうすぐだ、もうすぐホンシューだ。トーキョーまであと少しだ!」
「はっはっはっ、うああああっ!」

 呼吸が、呼吸がまともに出来ない。

「トーキョーまでいけば、満月の始祖に襲われずに生きていける!」

 未熟な産道を引き裂かれる痛みの余り、顔を左右に振った。石の山……いや、石炭の山が見える。ここが石炭を運ぶ貨車の中だということがわかった。
「っ! 頭が見えた、もう少しだ!」
「いたい、いたいよアレク!」
「ほら、息を、息をして!」
「はっはっはっ……うああああああ──っ」
「おぎゃあ、おぎゃあ」

 最後の力でいきんだ時、赤ちゃんはこの世に産まれ落ちた。

「産まれた! 産まれたよ! ほら、見て! 女の子だよ、君と同じ、金髪で青い目の……」

 だが、がっくりと石炭の山に倒れ込み、動けない。

「しっかり! しっかりして!」
「おぎゃあ、おぎゃあ」
「目を覚まして! お願いだから」

 ごとんごとん。ごとんごとん。さあっと、視界が開ける。白い空が見える。トンネルを抜けたようだ。
 がたんがたん、がたんがたん。

「ほら、ホンシューに着いたよ。二度とおおかみを恐れないで済む、トーキョーはもうすぐだよ」
「おぎゃあ、おぎゃあ」
「だから目を覚まして……ベルベッチカ……」

 ……

「うわあっ」

 ゆうは、はね起きた。

「ん……ゆうちゃん?」

 いつの間にかゆうも沙羅も家のソファで眠ってしまっていたらしい。ぎゃはははは、テレビでは芸人が観客相手にコントをしている。沙羅が覗き込む。

「ゆめ、見たの?」

 ずきん。下腹部が今も痛んでいるかのように感じた。
 ただいま、お父さんが帰ってきた。

「おかえりなさい、あなた。……樫田のおじい様が」
「おお、毅さん。こんばんは。おじゃましてさせていただいておるよ」
「ああ、樫田さん。これはこれは。どうぞ、ゆっくりしていってください」
「それなんだがね……ゆう君に、村のことを……」
「ああ……そうですか。私も今日、話そうと思っておった所です」

 大人たちは玄関でしばらく話した後、リビングに入ってきた。

「ゆう。きちんと家にいたか? おお、沙羅さん。ゆうといつも遊んでくれてありがとう」
「相原先生! 今日はお招きありがとうございます!」

 沙羅が背筋を伸ばして、きちんとあいさつをした。

「まあ、なんていい子なのっ! ゆうちゃん、少しは見習いなさい」

 お母さんが感激して沙羅にハグをする。

「沙羅は猫かぶりなんだよ」
「うっさいわねえ!」

 げしっ。さっきまでしおらしくしてたくせに、大人の前だとローキックだ。

「着替えてくる。夕ごはんは……なんだこれは。頼みすぎだ」
「いいじゃない、久々のお客さまよ」
(やっぱり多すぎじゃん。だいたい、僕はトマトジュースしか飲めないんだぞ)

 ゆうは心の中で毒づいた。お父さんは学校用のスーツを着替えに寝室に入った。

「ささ、みなさんテーブルについて。沙羅ちゃん、なんでも食べてね。大好きなはまちのお刺身もあるわよ」
「ありがとうございます! うわあ、おいしそう!」
「ゆうちゃんは……はい、これ」

 トマトジュース入りのマグカップを、とんと目の前に置かれた。
(まあ、いっか。沙羅も嬉しそうだし)
「おお、お刺身まで。豪華ですな」
「お待たせしました」

 寝巻きに着替えたお父さんが出てきた。

「席につこうか。ゆう、テレビを消しなさい」

 うるさいバラエティ番組が鳴るテレビを、ぷちっと消した。

「じゃあみなさん、いただきます」

 お母さんがそう言って、みんなで割り箸をぱきんと割った。

「はまちおいしー!」
「こうして誰かのおうちで食べるのは久しぶりだの」
「うん、なかなか。どこで頼んだ?」
「香坂さんとこ。あそこオードブルも、頼めばやってくれるの」

 こうさか亭。下町にある、洋食屋さんだ。結花の家でお父さんとお母さんがやっている。 お母さんは結花が二年生の時亡くなった。前に食べに行ったら、結花がメイド服でウエイトレスをやっていた。クラスでいちばんおしゃれで背の高い結花だ。
 ……沙羅とはまた違った方向で、すごい美人だった。

「おいしー! って、ゆうちゃん食べないの?」
「……僕、トマトジュースしか飲めないんだ」
「へ? どゆこと?」
「じゃあ」

 沙羅のおじいちゃんが口を開いた。

「どうして、そうなのか。この村の抱えている業を、話すとしようか」

 お父さんもこくり、とうなずいた。
 みんな、食事の手を止めた。

 ……
 昔。この世界には、みっつの種族があった。
「ヒト」と「満月に属するモノ」と「新月に属するモノ」だ。
 満月に属するモノ。沙羅やゆうくんが出会った、あの黒い獣「おおかみ」だ。ヒトの世界に溶け込み、ヒトに擬態し、ヒトを喰らう。かまれたヒトは、おおかみになる。そしてまた、ヒトをかむ……満月に属するモノは、そうやってひそかに数を増やしていた。
 もともと、彼らは世界中のあちこちにいた。西洋では「オオカミ男」として名が通っておる。この国にも古くからヒトと共存していたのだな。
 そんなある時。ヒトしかいなかったこの村に、一人の「おおかみ」がやってきた。それも、そのおおかみは、「始祖」だった。

「始祖って?」

 沙羅、そういう名前がある訳では無い。
 私たち一家が、そう呼んでいるだけだ。

「ほかのおおかみとは……違うんですか?」

 そうだ、ゆうくん。……おおかみは、かむことでヒトをおおかみに変えることが出来る。
「始祖」は、その原初。数を増やした言わばコピー達の「オリジナル」という訳だな。アリで言うと女王アリと言うところだ。
「どうして始祖はこの村に来たんでしょう」

 それは毅さん、わからんのだよ。江戸から明治にかけての文明開化で、世の中では政府が主導しておおかみなどの人外に対して大規模な駆逐を行った。全国に散らばっていた始祖たちは、駆逐の最重要の標的だった。この村の「始祖」も、そうして標的にされ全国を逃げ回った。
 そして百五十年前。政府の手の届かない、東北は岩手の山奥のこの寒村に逃げてきた……わしは先代からそう聞かされておる。

「始祖は誰か、わかっているんですか」

 毅さん、それもわからんのだ。男か女か、見た目も歳もわからない。だが確実に存在し人々の中に溶け込んで、着実にこの村のヒトをおおかみに変えている。
 始祖のコピー、普通のおおかみには弱点があってな。おおかみになってしばらく経つと、ヒトに戻れなくなるのだ。だいたい十二、三年でそのようになると伝えられている。

「大祇祭……」

 そうだ、ゆうくん、その通りだ。あの祭りは、おおかみたちをヒトに留めるため、必要な儀式なのだ。あるモノを食べさせると、おおかみはその力をヒトの姿に抑えられるくらいに減らすことができる。満月の力を減らすことの出来るもの。

「まさか」

 ……ゆうくん、そのまさかなんだよ。それは……「新月のモノ」の肉なのだ。
「満月の力を減らすことの出来るもの」
「まさか」

 ゆうの顔から血の気が引いていく。

「……ゆうくん。そのまさかなんだよ。それは……『新月のモノ』の肉なのだ。祭りの日に出されただろう。あの肉は『新月のモノ』の肉だ」
「嘘だっ! そんな、そんな! だって、だってそれって……」

 ゆうは激しく動揺した。心臓が大太鼓みたいに激しく鳴って、耳鳴りがする。

「そうだ。あの肉は、新月のモノ、ベルベッチカ・リリヰのものだ」

 ……

 トイレの外で、沙羅がゆうの名を呼びながら必死にドアをたたく。

「おええっ。げえええっ」

 ゆうは便器を抱いて、吐き続けた。トマトジュースしか飲んでないから、真っ赤な血みたいな色をしている。いや……血を吐いているのかもしれない。
 だって、自分が食べたのは。この世で一番好きな、ベルベッチカ・リリヰの舌だったのだから。

『だいじょうぶかい』

 ベルの声が聞いてきた。
「大丈夫なもんか。ひどいじゃないか。なにも言わずに居なくなって、何も言わずに死んじゃっていて。何も言わずにベルを食べていたなんて」
「ゆうちゃん?」

 沙羅が異変に気付いた。

『……すまない。愛するきみには、ないしょにしておきたかったんだけど』
「どうして言ってくれなかったの? そしたら逃げたのに。二人で、どこへでも」
「ゆうちゃんってば」

 扉の外から声をかけている。

『それは……できないんだ。私はここで殺されなければならなかった』
「そんな、おおかみのことなんて知らないよ! 僕にはベルが大切だったのに!」
「ゆうちゃん、だれと話しているの?」

 だんだん幼馴染の声が大きくなる。

『膝を折るしかなかったんだ。人質を取られていたから』
「人質?」
「ゆうちゃんっ!」
『私の……大切な人だよ。この世でいちばん』
「……ひどいよ。愛してるのは僕じゃないの?」

 ゆうにはベルベッチカの言葉がショックで、沙羅の声は届いていない。

「おじいちゃん、ゆうちゃんがっ!」

 ついにはおじいちゃんを呼びだした。

『はは。愛している、の種類が違うよ』
「種類……?」
『ほら、きみを好きな女の子が、心配してる。行ってあげなよ』

 ……