ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 学校から角田屋の手前まで、ウルフカットが可愛い──割と美少女だ──美玲がずうっと「チェーンソー・ヤイバ」のことをしゃべり続けている。

「でさ、そしたらヤイバくんがさ!」
「もー、わかんないってば、美玲。……ねえ、ゆうちゃん」

 はは……ゆうも苦笑いしか出せない。この前からこの道を通るとなぜか気持ち悪くなる。田んぼに張った水を風が撫でる音がやけに鼓膜を刺すし、きらきらしたお日様の反射が網膜を焦がして痛くて仕方ない。正直、「チェーンソー・ヤイバ」どころではなかった。キリのいいところで、語り続けるオタク少女から視線を進行方向にむけた。二、三十メートル先に、相変わらずオンボロで、看板も日に焼けてほとんど読めない角田屋が見える。
 その角田屋に、長いクセのある金髪の女の子が、入っていった……のが見えた。

「ベル?」

 見えた、たしかに見えた。ゆうは自然とその名を口に出し、自然とかけ出していた。

「ゆうちゃん?」
「ゆーくん!」

 沙羅と美玲が後ろで自分を呼ぶ声を背中で聞きながら、夢中で走って角田のおばあちゃんのお店にかけこんだ。
「ベルっ、ベルっ?」

 でも角田屋は、いつもの薄暗くてせまい店で、なにごともないかのようだった。……ベルベッチカ・リリヰなんて名前の女の子は、始めから居なかったみたいに……角田のおばあちゃんは、いつも座っている座布団の上でうつむいている。

「ゆうちゃん」
「ゆーくん、どったの?」

 女子二人が遅れて入ってきた。
「……なんでもない」
「なーんだ、てっきりボクらにおごってくれるかと思ったのにぃ」

 美玲がくちびるをツンととがらせる。

「……だいじょうぶ?」
「なにが」
「……だってさ……呼んでたし。あの子」
(ベル……大好きなベル……どこ行っちゃったんだよ……)

 けれどどんなに呼んでも、彼女が返事をしてくれることは無かった。

「……かみ……さま……」

 急に、角田のおばあちゃんの方からかすれた小さな声がした。三人とも、心底びっくりした……寝てると思ったから。

「お……かみ……ま……みこの……しい……いただ……そう……ろう」
「え……どうして……どうして知ってるの?」
 沙羅の顔色が青くなる。

「え?」

 ゆうは沙羅の方を向いた。だからその叫び声を聞いた時、おばあちゃんの方を見ていなかった。

「ああああああ──!」

 物凄い絶叫で、まさかそれがおばあちゃんが発した声だと気づかなかった。びっくりしたゆうが振り返ると、座布団の上におばあちゃんはいない。どさっと、今度は角田屋の入口で何かが落ちる音がして、もう一度振り返る。見ると、角田のおばあちゃんが裸足で立っている。瞳を……真っ赤に光らせて。

「おおかみさま みこのたましい いただきたく そうろう」

 信じられないくらい野太い声でそう言った。……そして。
 めきっ。
 めきめきめきっ。ぴしっ。
 おばあちゃんは着ている着物を破きながら、三人の小学生の前で「変わり」はじめた。

「あ……ああ……」

 六月の恐怖を思い出したのか、沙羅が腰を抜かした。美玲も、え、え、と硬直している。
 みしっ。ばきんっ。
 ぐるるるる……
 全身をひしゃげながら、黒い毛を生やして、ゆうの目の前で。

 角田のおばあちゃんは、おおかみに成った。

「いやあぁぁぁああああ!!」
 沙羅が絶叫した。そしてとっさにゆうは、沙羅を「見て」しまう。おおかみはゆうの肩をがつんとかみついて、店のふすまをなぎ倒して、ゆうの頭を柱に打ち付けた。
 がんっ。愛用の帽子が宙を舞う。意識はそこでぷつりと切れた。
「ゆーくん! ゆーくん! どうしよ、ボク、どうしよっ?」
「美玲! おばさん呼んできてっ!」
「沙羅ちゃんはっ?」
「お守り持ってきた! やってみる!」
「わ、わかった!」
「こっちだよ、こっちみて! お、おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ……おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ! おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ……っ! や、やった……行った……ゆうちゃん、ねえ、ゆうちゃん! 目、目開けてよお……ゆうちゃん……」

 ……

「おばさん連れてきたよ!」
「ぐすっ……みれい……ぐすっ……ゆうちゃんが……」
「ゆうちゃん! ゆうちゃん! ……沙羅ちゃん、かまれたのは? かまれたのはいつっ?」
「ぐすっ……ひっく……」
「沙羅ちゃん! 落ち着いて。教えて。そう。落ち着いて。……そう。いい子ね……いい? かまれたのはいつなの?」
「じゅ、十分くらい……まえ……」
「落ち着いて、落ち着くのよ私……まずい、まずいわ、新月の力が失われちゃう……百十九は……だめね、間に合わない……」
「……」
「あ、もしもし、上町の相原です。宮司の樫田さんを急ぎで……はい、お願いします」
「……」
「……樫田さんですかっ? ……ゆうが、息子がかまれて……あ、いえ、違うんです、息子は……はい、実は新月の力が……はい、その……その通りです……はい、はい……それは……はい、はい……それについては……それについては。あとで、あとでお話します……ですから」
「おばさん、おばさん! ゆーくんが!」
「……ゆうちゃんっ? ゆうちゃんなのっ? ……すいません、今のは……はい、意識を取り戻しました。……どうか、今のはどうか、ご内密に……はい……すいませんでした……はい、それでは……はい……」
「ゆうちゃん、わかる? お母さんだよ、わかる? ゆうちゃん」

 ……
 真っ暗だ。真っ暗な所で、ゆうは座っている。どうしてここに居るのかわからない。

(たしか……沙羅と美玲と帰っていて……そうだ、ベルだ。大好きなベルを見かけたんだ。それで……それで? たしか、おばあちゃんがおおかみになって……そうか、かまれたんだ。じゃあ……僕は……死んだの?)
「死んでないよ」
「ベルっ!」

 立ち上がって振り返って叫ぶ。ゆうが心の底から愛するその女の子は、背中を向けてそこに立っていた。でも、ベルは暗やみでも光る金の髪をたなびかせ、ゆうからはなれていってしまう。

「待って! 行かないで!」

 ぴたりと足を止めた。

「愛しいきみ。きみは死なないよ。私が守ってあげているからね」
「ねえ、ベル! 僕も、僕も連れて行ってよ!」

 すると、背中を向けたまま右手を真っ直ぐ横に伸ばし、指を指した。

「呼んでるよ、きみのこと」
「え?」
「ゆうちゃん、わかる? お母さんだよ、わかる?」

 ……
 相原ゆうは、自分の部屋で飛び起きる。ずきん。右肩がひどく傷んだ。

「いったたた……」
「ゆうちゃん! ……おばさん、おばさん! ゆうちゃんがっ! ……大丈夫? 覚えてる? おおかみにかまれたんだよ」
「……沙羅?」

 沙羅がいるのがわかって、慌てて帽子をかぶった。

「ゆうちゃんっ」

 ばたばたとお母さんが入ってきた。
 おでこに手を当てて、それから服をずらして肩を見た。

「……ふう。まずは、大丈夫そうね。……のど、かわいたでしょ」

 はい。
 ことん、と、ゆうの部屋の畳の上の小さなテーブルに、トマトジュースを置いた。

「ああ、あのね、お母さん。僕、たぶんそれ飲めな」
「飲めるわ」
「……え?」
「それなら、飲めるの」

 お母さんはにっこりした笑顔で、じぃっとゆうだけを見ている少女に、声をかけた。

「はい」
「ちょっとだけ、下行っててくれる? ……おねがい」
「え……はい」

 とんとん、と軽やかな足取りが遠ざかる。
「ふう。ほんとに、あなたって子は」

 お母さんは、ふうっと、もう一度ため息をついて、枕元に座った。

「あなたも始祖の力を持っていたなんて……やっぱりあの子、かしら。ベルベッチカ」
「知ってるのっ?」

 ゆうは出ると思わなかったその名前に、思わず大きな声を出す。

「あの子しかいないわね……はあ。それしかないわよね」
「ベルはっ! ベルはどこっ!」
「……ベルベッチカに会いたい?」
(会いたいか、だって?)

 会いたい。会いたいに決まってる。あの青い目の、あの金の髪の。あのほこりまみれの部屋にいた。あのかんおけの前で、赤いぬいぐるみと遊んだ。あの笑顔に……
 あの新月の晩の、ベルの柔らかな笑顔が心に残って抜けない。
 ぽたたっ……涙が止まらない。

「会いたい……会いたいよ……会いたいんだよ……」
「会えるわ」
「え……?」
「会えるわ、大祇祭の日に。だから行きなさい。明後日」

 そうとだけ言うと部屋から出た。
 トマトジュースに手を伸ばす。一口、含んだ……すんなり、飲めた。
 ふすまを開けて沙羅が入ってきた。

「どうしたの? おばさん、泣いてたけど」

 コップのガラスについた雫が、ぽたりと落ちる。吸血鬼が泣いているみたいだった。
 令和六年七月二十一日、日曜日。十二年に一度。大祇祭の当日、午後四時。
 誰にも言わずベルを探すつもりだった。けれどそのもくろみは家を出た瞬間にくずれ去った。

「ゆうちゃん」

 白衣に緋袴(ひばかま)、巫女装束姿の沙羅が、家の引き戸を開けたら立っていた。いつものツインテールを下ろして、見たことの無い、狼の耳に見える銀色の髪留めをつけている。薄く、お化粧をしている。

「えへへ。どかな?」

 はにかむ少女がちょっと下を向いた。とてもよく似合っている。というかもともと顔立ちの整った女の子だったけれど、伝統衣装とお化粧に身を包んだことで、目もあやな美少女になっていた。正直、かなりどきどきした。ベルを初めて見た時くらい、といったら言い過ぎだろうか。

「あの、さ……いっしょに、行こ……?」

 夕暮れにはまだ少し早い午後。七時からの祭りにはまだ早いけれど、いつもは人がほとんどいない道路に、まばらに歩く人がちらほらといる。この村でこんなに人が歩いているのを見たことがない。十一歳のゆうは十一歳の沙羅と、その中を歩く。おっとっと。巫女用の草履を履きなれてない幼なじみが、つまずいた。ぱしっと、ゆうは彼女の手を握って、なるべく優しく自分に寄せてあげた。

「……ありがと……」

 ほっぺたに赤みが差しているけれど、それが傾いたお日さまのせいなのかどうかはわからなかった。
 あのさ、とゆうを想う女の子が呟くように小さな声で言った。

「前、言ったじゃん? いちばんに来てって」
「うん」
「あたし、今日いちばんに入るの……だからゆうちゃんも、いちばんだよ」
「じゃあ、いちばんで始まるのを待つよ」

 うん。照れ屋なその子は笑みをこぼす。
 しばらくの沈黙。さっ、さっ。沙羅の履き物の音だけが鳴る。

「今日、神様の祝福を食べたら、さ。もうオトナなんだって。オトナってことは、さ」

 ぎゅっと、彼女の手をにぎる力が強くなった。

「恋……とか、しても……いいってコトだよ、ね?」
「沙羅……?」

 田んぼの広がる夕方の道。沙羅がゆうの手を離して、ゆうの前で、真っ赤な顔をして見つめた。

「あのさ……ゆうちゃん……あたし……さ……ゆうちゃんのこと……す、す……」

 その時。どさりと、真横を歩いていたおじいさんが倒れた。沙羅が心配そうにかけよる。

「大丈夫ですか……って、ちょっと!」
「あー? ……ひっく……」

 酒臭いし、着ている服はぼろぼろ、ひどい体臭だ。……ホームレス……の、ように見える。
 ろれつの回らないおじいさんは、道路に寝転んだままだ。

「ちょっとちょっと、こんなとこで……だめだよう」
「沙羅……なんか、変だ」

 ふと、ゆうがあることに気がつく。

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