「ゆうくんになら、見せてもいいかな。私の、マスクの下」
だれもいないお屋敷の庭の、湿った落ち葉のじゅうたんの上で。友達をおんぶした逸瑠辺さんはゆうにそうとだけ言うと、背を向けた。
「待って、なんで僕にだけ……」
でも逸瑠辺さんは後ろを向いたまま、答えてはくれない。
「ねえ、なんで」
……
相原ゆうは小学五年生。身長百四十五センチ。いつも青いキャップを目深に被っているのは、コンプレックスを隠すためだ。岩手県の山奥のとある小さな村、大祇村に住んでいる。山に囲まれた、ゆうの小さな世界。大祇村上町の細い山道の途中に、彼の小さな家はある。
井戸水から引いた水は、とても冷たくておいしい。産まれた時から知っている植林されたスギ林の匂いは、林業の盛んなこの地ならではだ。神社のとなりを流れる渓流で、夏になるとイワナやヤマメを釣り上げては、よくお母さんに渡して晩ごはんのおかずにしてもらったものだ。
お父さんはゆうの通う小学校の音楽の先生だ。家にあるヤマハのアップライトピアノで、お母さんも入れて三人でいつも歌った。みんなのお気に入りは、翼をください。家族みんなで歌うと、お母さんはすごく幸せそうに笑う。
友達はみんな小さな頃から仲良しで、毎日たんけんに明け暮れた。なぜか階段の下に鳥居があって、洞窟に続くふしぎな神社。山の上に場違いに建つ、だれもいないなぞの古い洋館。上町と下町をショートカットできるだれも知らないけもの道。村の中は知らないところはないくらいたんけんした。そんな友達と行く学校は一学年に一クラスしかなくて、クラスメイトはみんな幼稚園からずっといっしょの変わらぬ顔ぶれ。
入ってくる人もいなければ、出ていく人もいない。変わらない毎日、ずっと続く学校からの帰り道、村のたんけんとケイドロと家族と歌う日々。閉鎖的、という言葉をまだ知らないゆうには当たり前の日常だった。
……
「はいはーい、みんな、静かに。……静かにー」
令和六年六月三日、月曜日。大祇小学校、五年一組。朝の会。
担任の小林あゆみ先生は、にぎやかにおしゃべりをする九人に向かって呼びかける。二十七歳、まだけっこんしてない。五年生になって、それまで六年生の担任だったあゆみ先生がゆうのクラスの担任になったと知って、ゆうは心の中でガッツポーズをした。百四十五センチのゆうと対して変わらないくらい小柄なのに、胸はおっきくて、肩まである髪をゆるめにひとつに結んだ、子供みたいな顔の優しい笑顔のみんなのアイドル。おっとりしていて優しくて、男女問わずみんな、彼女が大好きなのだ。
「けっこんしてください!」
野球少年みたいな、ぼうず頭でゆうより背の高いとなりの家の翔が、五年生の初めの日にでかい声でそうこくはくして、クラス中の笑いものになった。くそう、ライバルがいたかと、ゆうは心の中で悔しがった。
そんなあゆみ先生が、みんなの前に立って注目を集める。
「今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました」
九人のクラスが一瞬だけザワついた。転校生なんて、少年マンガの中だけの出来事だと思っていたから、翔もゆうを見て「まじで」とちっちゃな声で漏らした。
「へるべさん」
かたかたかたかた、と教室の白い金属製のドアがやけにゆっくり開いた。
「大丈夫ですよ。入ってらっしゃい」
見ると、女の子が立っている。……一歩……二歩。その子が教室に入り、歩くたび、クラスのざわめきが大きくなった。ゆうも、息を呑んだ。その子は先生の横に、ふわり、と浮きそうに立った。いや、本当に浮いているのかもしれない。
(ホントにいたんだ……)
かっかっかっ、小林先生が黒板にとてもていねいな字で名前を書いた。
逸瑠辺 千夏。
「へるべちかさんです。みんな、なかよく……」
くるりと後ろを向いて、その子は黒板にあったもうひとつのチョークで、名前の下に文字を書き加えた。
逸瑠辺 千夏 リリヰ。
「……ベルベッチカ・リリヰです」
腰まであるくせの強い金髪。空の色みたいなキラキラした水色の瞳。限りなく薄い色の肌。ちょっとだけあるそばかす。百六十はありそうな身長。バレリーナみたいな手足。かぜだろうか、マスクをしている。学校の制服がまだなのか、青いリボンの付いた、レースのえりの白いひざまでのワンピースを着ている。
先生が紹介したその女の子は、村のきれいなあの渓流みたいな信じられないくらい透き通った高い声で静かに、そう名乗った。ザワついていた教室がしん、と静かになった。
「……はい、みなさん。千夏さんは、ロシアからはるばるいらっしゃったんですよ。なかよくしてくださいね」
「……よろしく、お願いします」
マスクのその子は、小さな声で不器用そうにはにかんだ。
(天使じゃん──!)
相原ゆうはその日、心臓をもっていかれた。
「ただいまー!」
「あら、翔くんはー?」
帰るとお母さんが聞いてきた。いつもなら翔が必ずくっついてきて、帰るなりうちに上がり込んできて、『イカやろうぜ』とゲーム機を出すから。ゆうは話したいきもちを押さえながら、ゆっくり答えた。
「ううん、話してる。それがさあ……お母さん?」
大根をとんとんと切っているお母さん。相原静、三十二歳。こんなことを言うと翔にマザコンと言われるからいやだけど、ものすごく美人だし、二十代にしか見えない、ゆうのじまんのお母さんだ。スレンダーで、黒髪のポニーテールに白のTシャツ、細身のジーパンが良く似合う。お化粧がとっても上手で、火傷したことなんて誰も気づかない。
そんな自慢の母親が手を止めた……みたいに感じた。
「えと……なんて?」
「だからあ、翔は今日来た子と話してるって。それで僕だけ帰ってきたの」
「あ、ああ、そう、お人形さんみたいよね」
ゆうは目を丸くして「へ?」ともらした。女の子だとは言ってない。
「なんでしってんの?」
「あ……ああ、ああ、あれよ。引っ越してきた時見かけたのよ。可愛い子だったから、ゆうちゃんと同じ学年ならいいなって思って」
「ああ、そか。……うん、金髪の女の子って、他にも居たんだ」
翔のお母さんも金髪だけど、染めてるのとちがうほんものだったから。こころの中に、ほんのりと暖かいものを感じた。
「それでね、その子、ロシアからきたみたいでね、それでね」
「ああ、ゆうちゃん、ごめん、おみそ切らしちゃってた。おばあちゃんのとこ、お願い」
お話をさえぎられて、ええと、といっしゅん頭が固まってしまった。
「おみそよ、おみそ。角田さんとこ行ってきて」
「……わかった」
「あ、ほら、いつものちゅうは?」
「もー、はいはい」
ゆうが青い帽子をずらしておでこを差し出すと、甘えんぼのお母さんはそこにちゅっとちゅうをした。
「おおかみに気をつけるのよ」
「わかったってば」
逸瑠辺さんのこと話したかったからもやもやしたけど、いいや知ってるなら。そう言い聞かせて、いつもみたいに帽子を目深に被って玄関の引き戸を開けてお使いに出た。
遅めの昼過ぎ。ほんのりお日様は傾いている。なのに山道のアスファルトは、山側はいつも湧水でぬれている。それを包むガードレールも苔だらけでいつだって緑色だ。ガードレールの外側はがけで、植林されたスギがたくさん並んでいる。道は、角田屋の方……つまり学校に向けて下っている。六月の湿っぽい空気が、裏の山の木々のいいにおいを運んできてくれる。梅雨がきらいっていう大人は多いけど、ゆうはすきだった。それに翔や沙羅とか他の女の子とたんけんで山に入る時は、雨でも関係ない。びしょぬれになりながら木の枝のつえをついて歩くのは、かっこよかった。
角田のおばあちゃんのお店は、ちょうど家と学校の間にあって帰りにお小遣いでアイスキャンデーをよく買う。こどもだけの、ちょっとした社交場だ。家の前の、車一台がやっとの細い道路を下って、学校から続く片側一車線の道路を右に曲がって、スギの木の林を抜けたところに、おばあちゃんのお店……角田屋がある。サビサビのシャッターがちょこっと降りてる、集落で唯一のコンビニ……みたいな白く塗られた木でできたお店で、角田屋という文字もかすれて読めない。
何人か子供がいて、笑い声が聞こえる。このうるさい声は……
「よお、ゆう! ベルちゃんにごちそうするとこ。あっ、お前のは無しな」
「……べつにいらないもん」
「んだよー、機嫌わりいな」
早速ベルちゃん呼び、と、女の子ならだれでもいい、翔らしいおどけた笑い声。いつもなら一緒に笑うんだけど、今日はなぜだかムカついた。
すると、彼女が小さな声で翔の背中に言う。
「あのね……私、食べれないんだ」
「だいじょうぶだいじょうぶ! ばあちゃんとこのはまじでうまいから! 食えばわかるって!」
「でも……」
「ばあちゃん、ソーダ味ふたつ!」
ごそごそと、短パンのポケットから銀色のお金をひとつ、角田のおばあちゃんにわたした。
そんな彼の方を見ていたら、いつの間に逸瑠辺さんが真横に来てて、ヒヤッとした。
すんすん、匂いをかいできた。
「いい匂い」
「へ?」
「とても……甘い……いい匂い。美味しそう」
ゆうの首筋に、顔を近付ける。マスク越しに、口をあーんと開けているのがわかる。ふわふわの金髪が、ちくちくと頬に当たる。アクアマリンみたいな水色の目が、ゆうをつらぬいている。
「あの……逸瑠辺さん?」
「……そうか、わかったよ」
きみが私の……最後までは聞こえなかった。バカでかい声で割り込んできたやつがいたせいで。
「はーい、ベルちゃん、どーぞ! まじさいこーにうまいから! くってみ!」
ん、そう言ってゆうたちのソーダ味の水色のオアシスを差し出した。マスクを付けた同じ色の目をした女の子は、その冷たいキャンディーを、見つめたまま止まっている。六月の蒸し暑い空気が、容赦なくぽたぽたとアイスを細らせる。
「……えと。はい。これ。……くって?」
「私、食べれないと言ったよ」
「え。アイス、嫌いなの? ……まじ?」
「さっきから言ってるじゃないか。食べられないんだ」
「またまたー。食べてみって。まじうまいから。……ほら、そんなん外してさ」
翔がアイスを持った右手を伸ばして、彼女のマスクに触ろうとした。そのしゅんかん。思いっきりその右手をはらった。
「やめてっ!」
可哀想に、少年のなけなしのお小づかいで買ったアイスは、角田屋の店先のコンクリートの床に落ちた。
「何すんだよっ」
「しつこいよ! いやなんだ! 犬くさいんだよ、きみも、この村のひとも、みんな!」
そう叫ぶと、店から駆け出して、学校の方へ走っていった。
残されたゆうたちは、見つめ合った。
「おれ、飼ってないんだけど……」
アイスはじんわりとコンクリートに水たまりを作った。
……
晩ごはんの時。マーボーなすをほおばりながら、ゆうが昼間の出来ごとを話した。
「犬なんて飼ってないのに、なんでだろ」
「まあ、なんでかしらねえ」
お母さんも一緒に考える。
お父さんも、食卓にいる。相原毅。五十二歳で、お母さんとはだいぶ歳が離れてるゆうのお父さん。白髪混じりで細身だけど、いつも背筋を伸ばしていて老けて見えない。音楽の先生で、しぶくてかっこいいけどちょっと怖い。
そんなお父さんが、黙って音楽雑誌を読みながらマーボーなすをもぐもぐしている。
「何か、言われなかったか」
「え?」
「お前のことを何か、言われなかったか」
「あなた」
「……なんにも?」
『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』
この時なぜか、ゆうはごまかすことを選んだ……なぜだかは、どうしてかわからなかったけれど。お父さんが、雑誌から顔を上げてメガネをくいっとした。怒ってるときによくやる。なんだか気が詰まって、おみそしるをぐいっと飲んだ。
「なんにもなかったってば……」
「……その子とは、もう会うな」
「あなた」
「……なんで?」
「なんでも、だ」
「てか、会うなって、同じクラスだし」
「ダメだと言ったらダメだ。お前はおおかみじゃないんだ!」
「あなた!」
お母さんが大きな声を出したから、それ以上聞けなかった。
「ほら、テレビテレビ」
リビングに、ダウンタウンが仕切る観客のぎゃははという声が急に響きわたる。
でも、その笑いはとてもうるさいのに……どうしてか、静かすぎて怖かった。
「たんけんいくひとー!」
令和六年六月四日、火曜日。五年一組の教室、放課後。
黒板消しがかりの美玲が黒板をごしごしと消している。教室にひとつしかない黒板消しはぼろぼろで、ぜんぜん消えない。何文字か消しては、窓に手を出して校舎のかべでぱんぱんとはたく。教室に、チョークのけむりと臭いが入ってくる。
そんな放課後、翔が手をあげて大祇神社の森へのたんけん隊員を募集する。
「いくいくー!」
クラスで一番遠い下町のはしっこから来てる、金髪の──もちろん地毛じゃない──蒼太がいちばん最初に名乗り出た。
「あたしも!」
赤いリボンのツインテールの、小さいくせに気が勝っている、沙羅が次に手をあげる。
「おれも!」
男子でいちばん背の低い、でもいちばん頭の冴える、航も行きたがった。
「ボク、パスー」
なぜか一人称がボクのオタク少女、美玲が黒板消しをはたきながら叫ぶ。
「……ほかはー? おい、ゆう、来いよー」
「ああ、いくいく」
ランドセルに教科書を入れるのに夢中になっていて、まったく聞いていなかったゆうも、あいまいに返事をした。いや、ちがう、考えごとをしていたのだった。
『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』
美味しそうって、なんだろう。お菓子の匂いでもするのだろうか。と、わきのあたりをくんくんしてみる……汗の匂いしかしない。
「ベルって呼んでいいよ」
「わっ!」
すごくびっくりした。気を向けていなかったら、いつの間に目の前に逸瑠辺さんが立っていた。マスクしててわからないけど……にい、と笑ってる……ように見えた。
「やっぱり、きみ。その匂い好き」
「に、匂い? ……するかなあ?」
「おーい、ゆう、女子集めろよー」
ろうか側に集まる翔が、いちばん前の真ん中の席のゆうに声をかける。ゆうは、いいことを思いついた。
「ね、君も一緒に来ない? たんけん」
「たんけん?」
「うん、今日はいつもんとこ。……たんけん。楽しいよ?」
「あー、だめだめ」
けれど翔がおもむろに歩み寄る。
「そいつ、だめ」
「は?」
昨日はベルちゃんとか言ってでれでれしてたくせに、今日になって手の平を反してイライラした顔してる。なんで?