ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

「祭で食べるのって、結局なんなの?」

 ああ、あのね、そう言ってから説明をはじめた。

「神様がくれる、祝福された食べ物なんだって」
「祝福……?」
「うん、あたしもよく知らないんだけど、神様が狩りで捕ってきたお肉なんだって」
「神様が捕ってきた……なんのお肉なんだろ?」
「さあ。でも今は滅多にとれないって。狩りにももう出ないって言ってたから、普通のお肉とか?」
「そっか。美味しいといいな」
「それが……秘密ね? ……超不味いんだって」
「ええっ、やだなそれ」

 ふと自分が今、「飲み込めない」ことに気がついた。今朝も、遅刻するふりをして、朝ごはんをぬいてきた。当日も飲み込めないだろうと思うと、気が滅入った。

「でね、でね。『お膳立て』であたしみんなに配るんだー」

 そんなゆうの心を知らない沙羅は、下を向いて嬉しそう……少し、顔が赤い……?

「ゆうちゃんにはなるべく美味しそうなやつあげるからさ……だから」

 えへへ、ゆうの方を見たけれと、やっぱりほっぺたを朱に染めている。

「いちばん最初に並んでよ。おねがい」
「うん、わかった。いいよ!」
「やったあ! 約束だかんね!」

 ゆうがにっこり笑うと、ぱあっと顔色が明るくなった。んー、んー……ご機嫌になって鼻歌を歌いはじめた。

『気をつけて。くるよ』
「ん? なに?」
「へ? 何が?」

 ゆうは彼女を見たが、何も聞こえないのかきょとんとしている。
 がさっ……がさがさっ……
 突然、右手側の杉林の下り斜面からナニカの音がした。ゆうは足を止めた。

「沙羅」
「ん?」

 ゆうの呼びかけに、きょとんとしたまま答える。

「なにか聞こえる」

 がさっ……がさっ……がさっ……

 気がつくとあれだけ鳴いていたセミの声がしない。

「……なんかする?」
「しっ」

 ……視線を、感じる。

「ぐるるるるるる……」

 足音の方を見るが、ちょうど下生えが高くなっていて直接は見えない。でも、うなり声がすぐそばから聞こえはじめた。

「沙羅、お守りお願い」
「わ、わかった……」

 彼女はゆっくり赤いランドセルを下ろし、視線をそらさないようにしながら、中を探る。

 がさっ……がさっ……

 足音は確実に大きくなっている。もう二メートルも離れてないかもしれない。
「はい!」

 沙羅がお守りをわたしてきた。十字架の形をした白木で出来たシンプルな形のお守り。二枚の板を貼り合わせて作ってあって、その間に紙がはさまっている。おおかみと出会ったら、難しい筆の字で「子大祇之守護」と書いてある方を向ける……そして三回、となえる。

「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」

 小さいころから、お母さんから教えてもらっていたように口にした。ぴたりと音がやんだ。

「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ。おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」

 がさっがさっがさっがさっ……気配が小さくなってゆく。
 一分……二分……三分……四分。

「……行った……?」

 ふるえる女の子が声をかける。
 ……もう、大丈夫だろう。

「……うん」
「はあ、よかったあ……あたしまたもらすとこだった」

 沙羅が心底、ほっとして息をはく。

「あ、遅刻しちゃう、急ご!」

 そう言うと、走り出した。
 ゆうはまだ森の方を見て足を止めたまま、さっき聞こえた声に想いをはせた。

「……ベル……君なの?」

 返事は、なかった。

 ……

「はいはーい、みなさん、おはようございます。じゃあ、こくごの四十ページを開いてください」

 翔に航に茜が今日は休みだった。でもあゆみ先生は、三人が見えてないみたいに授業をはじめた。
 令和六年七月十九日、金曜日。
 終業式の日の、お日さまの容赦のない暑い暑いカンカン照りの帰り道。明日からなつやすみだ。沙羅が、クラスイチのオタク少女、美玲に言った。

「最近増えたね、おおかみ」
「そだよね、沙羅ちゃんもこの前遭ったんだっけ」
「そうそう。危なかった」

 沙羅は、ゆうがもし居なかったらと思い返したのか、青い顔をしている。

「それよりさ、今週のダッシュ! 『チェーンソー・ヤイバ』読んだ? めっちゃカッコよかったよね! ボク感動しちゃったよぉ」

 はあ……沙羅はため息をついた。美玲が「チェーンソー・ヤイバ」の話をし出すと止まらない。沙羅もゆうも読んだことも無いのに、ずーっとしゃべり続ける。特に主人公が大好きで、火がつくと止まらない。怖くないのか不思議だ。だって今日出席したのは。ここにいる三人とみかをあわせた四人だけだったんだから。

『いよいよ明後日は大祇祭。みなさん、かぜをひいて出られないなんてことは無しですよー』

 あゆみ先生は、相変わらずおっとりした口調で九人のクラスメイトに呼びかけるように話した。四人に。
 学校から角田屋の手前まで、ウルフカットが可愛い──割と美少女だ──美玲がずうっと「チェーンソー・ヤイバ」のことをしゃべり続けている。

「でさ、そしたらヤイバくんがさ!」
「もー、わかんないってば、美玲。……ねえ、ゆうちゃん」

 はは……ゆうも苦笑いしか出せない。この前からこの道を通るとなぜか気持ち悪くなる。田んぼに張った水を風が撫でる音がやけに鼓膜を刺すし、きらきらしたお日様の反射が網膜を焦がして痛くて仕方ない。正直、「チェーンソー・ヤイバ」どころではなかった。キリのいいところで、語り続けるオタク少女から視線を進行方向にむけた。二、三十メートル先に、相変わらずオンボロで、看板も日に焼けてほとんど読めない角田屋が見える。
 その角田屋に、長いクセのある金髪の女の子が、入っていった……のが見えた。

「ベル?」

 見えた、たしかに見えた。ゆうは自然とその名を口に出し、自然とかけ出していた。

「ゆうちゃん?」
「ゆーくん!」

 沙羅と美玲が後ろで自分を呼ぶ声を背中で聞きながら、夢中で走って角田のおばあちゃんのお店にかけこんだ。
「ベルっ、ベルっ?」

 でも角田屋は、いつもの薄暗くてせまい店で、なにごともないかのようだった。……ベルベッチカ・リリヰなんて名前の女の子は、始めから居なかったみたいに……角田のおばあちゃんは、いつも座っている座布団の上でうつむいている。

「ゆうちゃん」
「ゆーくん、どったの?」

 女子二人が遅れて入ってきた。
「……なんでもない」
「なーんだ、てっきりボクらにおごってくれるかと思ったのにぃ」

 美玲がくちびるをツンととがらせる。

「……だいじょうぶ?」
「なにが」
「……だってさ……呼んでたし。あの子」
(ベル……大好きなベル……どこ行っちゃったんだよ……)

 けれどどんなに呼んでも、彼女が返事をしてくれることは無かった。

「……かみ……さま……」

 急に、角田のおばあちゃんの方からかすれた小さな声がした。三人とも、心底びっくりした……寝てると思ったから。

「お……かみ……ま……みこの……しい……いただ……そう……ろう」
「え……どうして……どうして知ってるの?」
 沙羅の顔色が青くなる。

「え?」

 ゆうは沙羅の方を向いた。だからその叫び声を聞いた時、おばあちゃんの方を見ていなかった。

「ああああああ──!」

 物凄い絶叫で、まさかそれがおばあちゃんが発した声だと気づかなかった。びっくりしたゆうが振り返ると、座布団の上におばあちゃんはいない。どさっと、今度は角田屋の入口で何かが落ちる音がして、もう一度振り返る。見ると、角田のおばあちゃんが裸足で立っている。瞳を……真っ赤に光らせて。

「おおかみさま みこのたましい いただきたく そうろう」

 信じられないくらい野太い声でそう言った。……そして。
 めきっ。
 めきめきめきっ。ぴしっ。
 おばあちゃんは着ている着物を破きながら、三人の小学生の前で「変わり」はじめた。

「あ……ああ……」

 六月の恐怖を思い出したのか、沙羅が腰を抜かした。美玲も、え、え、と硬直している。
 みしっ。ばきんっ。
 ぐるるるる……
 全身をひしゃげながら、黒い毛を生やして、ゆうの目の前で。

 角田のおばあちゃんは、おおかみに成った。

「いやあぁぁぁああああ!!」
 沙羅が絶叫した。そしてとっさにゆうは、沙羅を「見て」しまう。おおかみはゆうの肩をがつんとかみついて、店のふすまをなぎ倒して、ゆうの頭を柱に打ち付けた。
 がんっ。愛用の帽子が宙を舞う。意識はそこでぷつりと切れた。
「ゆーくん! ゆーくん! どうしよ、ボク、どうしよっ?」
「美玲! おばさん呼んできてっ!」
「沙羅ちゃんはっ?」
「お守り持ってきた! やってみる!」
「わ、わかった!」
「こっちだよ、こっちみて! お、おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ……おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ! おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ……っ! や、やった……行った……ゆうちゃん、ねえ、ゆうちゃん! 目、目開けてよお……ゆうちゃん……」

 ……

「おばさん連れてきたよ!」
「ぐすっ……みれい……ぐすっ……ゆうちゃんが……」
「ゆうちゃん! ゆうちゃん! ……沙羅ちゃん、かまれたのは? かまれたのはいつっ?」
「ぐすっ……ひっく……」
「沙羅ちゃん! 落ち着いて。教えて。そう。落ち着いて。……そう。いい子ね……いい? かまれたのはいつなの?」
「じゅ、十分くらい……まえ……」
「落ち着いて、落ち着くのよ私……まずい、まずいわ、新月の力が失われちゃう……百十九は……だめね、間に合わない……」
「……」
「あ、もしもし、上町の相原です。宮司の樫田さんを急ぎで……はい、お願いします」
「……」
「……樫田さんですかっ? ……ゆうが、息子がかまれて……あ、いえ、違うんです、息子は……はい、実は新月の力が……はい、その……その通りです……はい、はい……それは……はい、はい……それについては……それについては。あとで、あとでお話します……ですから」
「おばさん、おばさん! ゆーくんが!」
「……ゆうちゃんっ? ゆうちゃんなのっ? ……すいません、今のは……はい、意識を取り戻しました。……どうか、今のはどうか、ご内密に……はい……すいませんでした……はい、それでは……はい……」
「ゆうちゃん、わかる? お母さんだよ、わかる? ゆうちゃん」

 ……
 真っ暗だ。真っ暗な所で、ゆうは座っている。どうしてここに居るのかわからない。

(たしか……沙羅と美玲と帰っていて……そうだ、ベルだ。大好きなベルを見かけたんだ。それで……それで? たしか、おばあちゃんがおおかみになって……そうか、かまれたんだ。じゃあ……僕は……死んだの?)
「死んでないよ」
「ベルっ!」

 立ち上がって振り返って叫ぶ。ゆうが心の底から愛するその女の子は、背中を向けてそこに立っていた。でも、ベルは暗やみでも光る金の髪をたなびかせ、ゆうからはなれていってしまう。

「待って! 行かないで!」

 ぴたりと足を止めた。

「愛しいきみ。きみは死なないよ。私が守ってあげているからね」
「ねえ、ベル! 僕も、僕も連れて行ってよ!」

 すると、背中を向けたまま右手を真っ直ぐ横に伸ばし、指を指した。

「呼んでるよ、きみのこと」
「え?」
「ゆうちゃん、わかる? お母さんだよ、わかる?」

 ……