逸瑠辺(へるべ)さん!」
「おいで、ゆうくん」

 宙に浮いた愛するその子が、ベランダも手すりもない二階のゆうの部屋の窓からゆうの手をやさしくにぎる。あいかわらず白くてひんやりした手だけど、つかむ力はとてもやさしい。見つめる瞳は、新月の晩でも水色に輝いている。ひょい、とゆうを引っ張って、いつもみたいにお姫様だっこした。

「わっ、もう、言ってよ」
「ふふ。……走るよ」

 ぎゅん! 五十メートル走が十一秒もかかるどんくさいゆうと違って、風みたいにものすごいスピードで走った。徒歩で三十分はかかる大祇神社まで、二分とかからなかった。百段ある階段も、一足で飛び降りた。

「ははは。あははは」

 そして、とても楽しそうに笑う。とても。たのしそうに。
 谷底の大祇神社の境内に着いた。鳥居の横に、白い文字で書かれた赤いノボリが立てられている。

「大祇祭 令和六年七月二十一日(日)」

 月明かりはないけれど、星の明かりで洞窟の入り口の真っ赤な本殿がぼんやり浮かび上がる。それを守るかのように、おおかみの像が二体こちらを見ている。どんなに逃げても睨んできて、今にも動き出して食べられてしまいそうで……小さい頃から苦手だった。でもこの子となら、どうしてかこわくない。
 新月の夜、満点の星空。うすむらさきの夜空の下、やわらかくほほえんでいる。

「さ、約束だよ。見せてあげる」

 おおかみの像が見守る真夜中の神社で。逸瑠辺(へるべ)さんはそう言うと、マスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。