ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 沙羅は自分を呼ぶ声に、目が覚める。
 目の前には、ふわりとした腰まであるブロンドヘア。青空みたいな青い目。沙羅の大好きなゆうちゃんが目の前にいる。

「ゆう……ちゃん……?」

 ここはどこだろうか。……教室みたいに見えるが……

「ええっ! なにがあったのっ?」

 机とイスはぐちゃぐちゃに乱れていて、教室の後ろと廊下側、それに天井には二メートルはある大きさの大穴が空いている。

「えへへ。ちょっとね。親子喧嘩」

 そういうと彼は照れくさそうに笑った。なにがあったかなんてわかりっこないけど、このヒトの笑顔を見ていたら、なんだか全部が上手くいったように思えて、ホッとした。
 どぎまぎしながら手を伸ばしてきた。沙羅が気付かずにいると、顔を赤くして、言った。

「帰ろう。沙羅のおじいちゃんのところに」

 あ、と沙羅が大きな声をあげたから、ゆうちゃんはびっくりした。

「もしかして……あたしを助けに来てくれたの?」

 がくっ、ゆうちゃんは下を向いた。

「気づくの、おせえー……」
「えへへ、ごめんごめん! ゆうちゃん?」
「ん? ……ん!」

 沙羅は愛しい彼の唇にキスをした。
 それから二人は、顔を真っ赤にしながら、お互いそっぽを向いて、手を繋いで帰った。

 ……
 おじいちゃんの家に、ゆうちゃんのお父さんも呼んだ。
 始祖の討伐。ゆうちゃんの口からそれを聞いたおじいちゃんは歓喜の声をあげた。
 でも、始祖がゆうちゃんのお母さんだったことを知ると、みな色を失った。

「そうか……静が……ああ、そうか、思い出した。あの日、階段から落ちた時。もう静は死んでいたんだな」
「静さんが……そうか。ゆうくん。つらい思いを強いたね。まことに、申し訳ない」

 それから十分間くらい。沙羅も入れてみんな口を閉じて頭を下げたままだった。
 そして、彼は思いもよらないことを言った。

「沙羅、おじいちゃん。お父さん。伝えたいことがあるんだ」

 ……

「そんな……」

 沙羅は涙を零した。

「それが、君が出した答えか……」
「ゆう。そうお前が決めたなら……」

 ゆうちゃんはうなずいた。

「うん。もう決めたんだ。お母さんとベルも、賛成してくれてるはずだよ」
「そんな、あたしはいやだよ! ゆうちゃんから離れないといけないなんて!」

 沙羅は涙を散らした。
「大丈夫さ。僕はここに残って、沙羅たちは隣の市に引っ越す。それだけだよ」
「でも! 滅多に会えなくなるんでしょ? そんなのやだよ!」
「沙羅。もうゆう君はヒトから遠く離れてしまった。これがいちばんなのだよ」

 おじいちゃんは懸命に孫娘をさとす。

「ゆう、後悔は、ないんだな?」

 彼のお父さんはメガネをくいっとした。とても、優しい目に感じた。

「うん、ない」

 やだよう、やだよう。沙羅は最後まで泣いていたが、結局、おじいちゃんに言いくるめられた。

 おじいちゃんのトヨタのミニバンに乗り込んだ。
 沙羅、おじいちゃん、ゆうちゃんのお父さん。
 この村に残っているヒトは、もうこの三人だけだ。

「それじゃ、ゆう君」
「ゆう、元気でな」

「沙羅」

 ゆうちゃんが呼んでいる。でも、沙羅は後部座席に顔をうずめたまま、返事をしない。

「元気でね、沙羅」

 涙が、後から後から出てきて止まらない。だからこのまま出して、とおじいちゃんに言った。
 クルマが動き出した。それでもまだ未練があって、こっそりリアガラスから覗いた。
 あ。
 手を振るゆうちゃんの後ろに。
 ベルベッチカ・リリヰと、ゆうちゃんのお母さんが、立っているのが見えた。

 ような気がした。
 それから、五十年が経った。
 六十一歳の岸井沙羅は走っている。あの村に続く、緩やかな山道を。
 間に合って。そう祈りながら。

 ……

 あの村を去ってから。隣の岩手県Y市に引っ越した沙羅はゆうちゃんの夢を何度も見た。
 夢の内容はいつも同じ。
 満月と新月のオリジンになったゆうちゃんが、子供をたくさん産んで沙羅に見せるのだ。
 また子供が産まれたよ。この子はベルベッチカによく似てる。あの子はお母さんによく似てる。
 村は今、とてもにぎやかです。ねえ、沙羅……遊びにおいでよ。
 でも、あの日。さよならを言えなかったことが後ろめたくて。
 どうしても行くことが出来なかった。

 あの村を去って、八年後。
 地元の大学で、岸井という大学生と恋に落ち、結婚した。学生婚だったけど、おじいちゃんはうんうん、と賛成してくれた。
 ただ、一言。

「いいのかい?」

 そうとだけ、言った。沙羅は、その問いかけに、答えられずにいた。その二年後、おじいちゃんは亡くなった。
 その翌年。子供が産まれた。毎日が飛ぶように過ぎていった。夢は時々見たけれど、彼女は徐々に忘れていった。

 あの村を去って、三十年が経ったころ。
 日本は隣の専制主義超大国と戦争になり、あっという間に負けた。首都や大都市は瞬く間に共産党の支配下になり、自由と多様性は失われた。そして、この国が明治の頃に行ったように、人外のモノに対する弾圧と絶滅が行われるようになった。

 あの村を去って、五十年後。戦争が終結して、二十年が経っていた。
 少数民族や人外のモノへの抑圧・弾圧の波は、こんな東北の山奥にまで迫っていた。
 このころからである。沙羅が望郷の念に駆られるようになったのは。

 ある寒い冬の朝、ポストを見に外に出ようとすると、やけにうるさい。なんだと思って扉を開けると、戦車や装甲車の列が、沙羅の家の前を通って行った。
 反射的に念頭に浮かんだのだ。あの村の景色と、あの幼なじみの笑顔が。
 気がつくと走り出していた。丁度最後の装甲車が通過した後だった。

 ……
 村までは二十キロはある。それに上り坂だ。でも、クルマは夫が仕事に使っていてなかった。
 けれど何より、今すぐに会いたかった。その一心で、走っていた。
 上空を、戦闘機が何機も通り過ぎて行った。
 がーん。がーん。
 山の向こうで何度も砲撃の音と、真っ黒な煙が何度も上がった。そして、何機目かの戦闘機が通った後。
 どどどどどど。
 この世のものとは思えないものすごい爆発音と何かが崩れる音がした。
 それでも、沙羅は走り続けた。「作戦」を終えた戦車の群れが、沙羅の前から後ろへ過ぎていった。
 もう沙羅は息をすることすらままならなかったけれど、なんとか、なんとかしてあの「大祇村」を目指した。
 そして。
 大祇村の入り口であるはずの場所まで辿り着いた。けれどもう沙羅には、そこが村かわからない。
 なぜなら、集落があった場所全体が山ごと崩されて、跡形もなくなっていたからだ。命がそこにある気配は、何一つ残らず破壊し尽くされていた。あまりの光景に、肺腑を抉られた。
 土砂の上をなんとか歩いて、しばらくだったころ。

「大祇村立大祇小学校」

 辛うじてそう読める石が、転がっていた。
「ゆうちゃん……」

『今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました』
『たんけんいくひとー!』
『ゆうちゃんにはなるべく美味しそうなやつあげるからさ……だから、いちばん最初に並んでよ。おねがい』
『なんも言わないで! めっちゃ恥ずかしいの! いま!』
『……がっかりしたろ。僕が……女で』
『それでもいい! それでも、いい。あたしは……』
『ゆうちゃんが、好き……』

 蓋をしていたあの頃の思い出が、洪水のように蘇る。そしてとめどなくまぶたから溢れて、涙になって零れつづけた。
 どうしてあの時、さよならと言わなかったんだろう。どうして夢に出るゆうちゃんに会いに行かなかったんだろう。どうして。どうして……

「ごめんなさい、ごめんなさいゆうちゃん」

「泣かないで」

 ハッと振り返る。
 金色に輝く腰まである長い髪。空の色を切り取った青い瞳。大好きなゆうちゃんが微笑んでいる。

「泣かないで、沙羅。僕は、ずっと君のそばにいる。ずっと」

 ある寒い冬の午後、崩れた土の上で。
 沙羅は確かに、あの日のゆうに。

 会ったはずなのだった。

【完】

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