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ベルベッチカだったチリは、吹き消されて消滅した。
三十二歳。スレンダーで、黒髪のポニーテールに白のTシャツ、細身のジーパンが良く似合う。左目の火傷のあとは、遊郭に火を放った時のものだ。おかげで百年以上屋敷にこもることになった。
「姉」は……いや、相原静は深いため息をついた。
(やはり、私の望みなど、叶うことは無いのね。……永久に)
恐れていたことが現実になり、その事に深く絶望した。
それならばやることはひとつ。ぴきぴきぴきぴき……右手を、日本刀ですら切断する爪に変形させる。そして、催眠をかけられ虚ろな目をする沙羅の首筋に当てた。
「ごめんね、沙羅ちゃん。大好きだったのよ」
爪がくい込み、白い肌に一筋、赤い線が引かれる。
「あっちでも、ゆうちゃんと、仲良くね」
あとは、この爪を十五センチ横に引くだけ。それで噴水みたいに血を吹いて、この子は死ぬ。
それだけ。それだけなのに。
(なぜ。なぜ、出来ない? ……私はオリジン。おおかみたちを束ねる最強の始祖。私に成し遂げられないことなど、ないはず)
静は、逡巡していた。
数瞬後、夕暮れの教室の中で風が吹き始めた。窓を見る……きちんと閉まっている。
と、いうことは。静は、すぐにピンと来た。
ごおおおっ! 風はたちまち黒い竜巻になり、教室の壁に貼られた習字の紙がちぎれ飛ぶ。
静は、右手の衝撃波で、ベルベッチカの身体を原子レベルで消し飛ばした。文字通りチリに還したのだ。だがそれが今、チリから最大出力の再生が始まっている。そんな芸当が出来るのは、たった一人しかいない。
ベルベッチカの力を得た、静の息子、ただ一人である。
ごおおおおおおお──!
竜巻はやがてひとりのヒトの形を得て、ゆっくりと立ち上がる。
「そうよ……そうよゆうちゃん! それでこそ私が育てあげた、破壊と破滅のこどもだわっ!」
数万ボルトの稲妻のような、腰まであるブロンドヘア。深海を見てきたかのような、深い青い色の瞳。ベルベッチカがいつも着ていた、水色のリボンの白いワンピース。
その姿は、新たに生まれ変わったベルベッチカ・リリヰそのもの。
相原ゆうはベルベッチカの全てを受け継いで、チリから再生し、そして復活した。
「お母さん。今戻ったよ」
「うふふ。おかえり、ゆうちゃん」
静はまるで学校から帰ってきたこどもに声をかけるかのように、ごく穏やかに、ごく自然に声をかける。だが内心は、喜びに溢れていた。
(これから。これから私の願いは、叶うのね)
「お母さん。いや、お姉さんのオリジン。倒すよ。あなたを」
「いいわ。それでいいのよ。……さあ。さあ!」
静は両手を広げて叫んだ。
「最後の戦いよ。倒してみなさい。お母さんを」
とても、とても嬉しそうに、笑った。
(新月の目……全開。新月の爪……発動。新月の瞬足……駆動準備完了)
今こそ雌雄を決する時だ。ゆうはお母さんを見る。新月の目が、満月の目の気配を探知する。……お母さんが、こちらの動きをうかがっている。
(なら、こっちから!)
瞬きの百分の一の速度で、お母さんまでの五メートルを詰め、斜め上から飛行機のプロペラより速い速度で爪を振り下ろした。どすっ……鈍い音がする。いつもあゆみ先生が立つ教卓が、バターのように柔らかく切り取られた。刹那……妊娠しているとは思えない速さで身体を大きく逸らし爪を回避したお母さんのハイキックが、ゆうの頭を直撃する。ゆうは首の骨を折りながら、くるくるとまるでスクリューのように回転しながら、教室の机を弾き飛ばして反対側の壁に激突した。
シャッ。お母さんが短く息を吐く。
一秒後。しゅうう……こきっぱきっ……
へし折られた頚椎を修復しながら、ゆうが立ち上がる。
「原子レベルでバラバラにしないと、ゆうちゃんには勝てない……ってとこかしら?」
お母さんが笑う。
「さあ? 僕の中のベルが、勝手にやってくれるんだ」
ぴきぴき……と、お母さんの満月の爪が開放される。
「じゃあ、こういうのはどうかしら?」
お母さんが見えなくなる。一秒の千分の一より短い時間で、ゆうの周囲三百六十度全方位から、同時に爪をあらゆる方向から振り下ろす離れ業を演じた。それは、ゆうの知覚を大きく離れた超神速だったが、新月の目は五十四連撃全てを防ぎきった。
あまりの速さの攻撃に、五十四の衝突音は、常人には一回しか聞こえないだろう。
お母さんの左肩から噴水のような血が吹き出す。お母さんは不思議そうにそれを眺めた。
「あら。血ってこういう風に出て、これくらい痛いのね」
そして、ほっぺたを両手で押さえて笑った。
「ふふふ。あはははは! ……なんだ、ゆうちゃん、やれば出来るじゃない! お母さんすごく怖かったけど、ゆうちゃんここまでやってくれるなら、計画しなくてもよかったかもね!」
「それ、なに? お母さんが、最強のお姉さんが恐れていることって、なんなの?」
「しりたい?」
お母さんは瞬間移動で顔を五センチ前まで近付けた。
まるで、愛するこどものおでこにキスをするみたいに。
みぞおちを一トン以上の力で殴打されたゆうは、新幹線より速い速度で五年生の教室の壁に激突し、壁を破って、四年生の教室になだれ込んで机を巻き込みながら、床に叩きつけられた。左手が千切れたが、直後に瞬間的に再生した。
「知りたいことは人に聞かないで、自分で調べるの」
お母さんも壁を破ってゆうの目の前に接近し、ひざ蹴りで立ち上がったゆうをひとつ上の階の社会科室まで蹴り上げた。社会科室の天井に当たったゆうは、そのまままた落ちて、お母さんの目の前に這いつくばった。
「それが、おとなってものよ」
お母さんはにっこり笑った。
両者の戦闘力は、一見拮抗しているように見える。
攻撃回数、肉体へのダメージを与える回数。総合的にはお母さんの方が地力に勝っている。
しかしゆうには瞬間再生があり、どんな致命傷も回復してしまう。
そして、無尽蔵に見えるお母さんのスタミナにも限度がある。徐々に、本当にごく僅かづつ、攻撃の精度が落ちている。それでも、補ってあまりあるお母さんの手数の多さ。
攻撃力のお母さん。
再生力のゆう。
格闘家のプロが見ても、互角であると断ずるだろう。
……しかし。
「うれしいわ、ゆうちゃん。本当に何度でも立ち上がってくれるのね」
「嘘つき。ここまでボコボコにしておいて、手加減してるでしょ」
ゆうは口元の血をぬぐいながら、お母さん見て憎まれ口を叩く。
心外ね、とお母さんはにっこり笑う。
「さっきから、ずーっとお母さんは本気よ。これ以上ないくらい」
つつ……とお母さんの頭から血が流れ落ちた。
「親ってのはね」
流れ落ちたはずの血が、雫になって空中に静止する。ゆうの新月の目でも捉えきれない袈裟斬りが胴体を斜めに切り裂く。ベルベッチカの胴体も、これで分断した。ゆうは内蔵を撒き散らしながら後ろに倒れた。
「子供が挑んできたらね」
そこに「下から」追撃を与える。ぼきゃっと、今度こそ脊椎をへし折って、上半身を完全に引きちぎって廊下まで蹴り出した。
「体当たりで受け止めるものなのよ」
廊下でごおっと風が吹いた。次の瞬間、五体満足のゆうが満月の目より速く飛び込んできて、左腕に一閃を見舞う。お母さんはきゃっと悲鳴を上げると、左腕が肩より先からちぎれて、ぼーっと立つ沙羅の横に落ちた。
「じゃあ、受けてみて。僕の思いを」
その後も攻防は続いた。
ゆうは切り裂かれ、引きちぎられ、砕かれ、吹き飛ばされた。しかしその度に、何事も無かったようにゆうは立ち上がる。
立ち上がる度に、精度が落ちていくお母さんの攻撃。
そして、七十六度目の斬撃で、ようやく。ようやく両者の戦闘力は、完全に拮抗した。
しかし決定的に異なる点が、あった。
お母さんは、残った右腕でお腹をさする。少し、大きくなった、お母さんのお腹。
とても、とても幸せそうに。
「そんなに幸せそうなのに、なにが怖いの?」
「はっ、はっ……ふ、ふふふ。も少ししたら、はぁ、はぁ、教えてあげる」
お母さんは息を切らし始めた。けれどもゆうを見るあの笑顔は、いつものお母さんのものだ。
「もう少ししたら、ね」
お母さんから、飛びかかった。
それを、新月の目が初めて捕捉した。
決定的に異なる点とは。
お母さんが片腕がないことではない。妊娠していることでもない。
ゆうがベルベッチカを宿していることではない。瞬間再生できることでもない。
それは。
この戦いが始まって、初めてである。お母さんの攻撃の予兆を読み取ったのは。
だから、ゆうは知覚できた。十数年かけてもベルベッチカが成し得なかった、満月のオリジンの攻撃の知覚化を、今この瞬間、ゆうは成し遂げた。
それは。新月のモノだからではなく。満月のモノだからではなく。
無期限の寿命を持つ、「成長の止まった種族」ではなく。
それは。
「ゆうがヒトとして十一年生きてきたから」である。
「うわぁぁあああ──!」
ざんっ。お母さんの攻撃をかわしたゆうの爪が、お母さんの頭を、すとんと落とした。