「おぎゃあ。おぎゃあ」
赤ん坊の鳴き声が聞こえた。遠い、遠い昔。狼の母様達と過ごした記憶が唐突によみがえる。姉は、その赤ん坊を抱いた。なぜだかはわからない。
「この子は今日から私たちの子供よ」
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「……エレオノーラを、返せ……」
「何言ってるの。絶対、絶対嫌よ。この子は、この子はもう私の。絶対に手放すもんですか」
「エレオノーラぁぁ!」
背中で愛しいベルベッチカの声を聞きながら、姉は愛しい愛しい赤ん坊を抱いて村へ戻った。
ちょうどその頃、流産で赤ん坊を失ったヒトの父親が居たのを、知っていた。
「誰か? そこに誰かいるのか?」
素顔は出さなかった。夕闇に溶け込み、男の心を、誘う。
「欲しい? 子供が欲しい?」
あくまで淡々と、心を殺して心の隙を突く。
「明日、大祇神社の本殿に、礼拝なさいな。子供を授けてあげる……その代わり、対価をもらうわ」
村の男はすべて姉妹のしもべ。与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。
……
翌日。大祇神社仮本殿。二人のヒトが礼拝している。
「おぎゃあ。おぎゃあ」
姉が置いた赤ん坊に、男の妻はさっそく反応を示した。
「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」
男は赤ん坊を拾うことに躊躇している。
「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」
しまいには警察に届けるなどと言う。この村には警察なんて在りはしないのに。
「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」
「でも、対価が……」
そして赤ん坊を抱く女の方のヒトに、神社の階段を上りきるタイミングで、やぶの中から石つぶてを知覚できない速度でくるぶしに当てた。女は百段近くある階段から七十七段目まで落ちた。狙った通り、赤ん坊を必死で守って、最後に後頭部を打ち付けてくれた。
「静、しっかりしろ、静!」
「あなた……この子を……」
ああ、可哀そうに。女の方は脳挫傷で助からない。でも、大丈夫。
「取り戻したい? 対価を? それなら」
姉は、相原静の姿に成って、相原毅の前に現れた。そしてやさしく微笑んだ。
「今日からその子の母親は、私ね」
与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。
……
全ては計画通りに進んだ。手中に収めた赤ん坊はすくすくと育った。
捕らえたベルベッチカは十一年後に切り刻んで、みんなに分け与える。
村は、このまま繁栄することだろう。
姉は気づかないうちに、二人の家族に情が移るようになっていた。娘は、自己認識に若干の不具合があるようだったが、周囲からの理解も得られた。幼稚園でも学校でも、居場所を見つけられたようだ。娘から息子に変わったが、それでも良いと思えた。
夫の弾くピアノも、大好きだった。夫の引く伴奏に合わせて、翼をくださいという息子から教えてもらった曲を歌った。自由に焦がれ続けていた姉にはぴったりの歌だった。結婚記念日に三人でそれを歌った。歌うことがこんなに楽しくて幸せだとは思わなかった。
息子とも、夫とも、幸せいっぱいの日々が続いた。
夫との間に新しく赤ん坊まで授かった。姉は、ようやく妹と同じ、陽の光を得られる幸せを手に入れた。
全ては。全ては計画通りに進んでいた。そのはずだった。
……だがある時、唐突に。
「姉」は恐れた。
「はい、私が持ってる分は全部見せたよ」
冬の空。ベルの……姉のオリジンのお屋敷。かんおけの横。
温度のない夕焼けの光が差し込む。
ベルベッチカは、ゆうの額から手を離した。
「まさか……お母さんが……満月のオリジン……?」
そうだね、と産みの母親は淡々と答えた。
「そんな……お母さんを助けるため、僕は……クラスメイト達を食べてきたのに」
「そこだ。問題は。……なぜ姉のオリジンは、村の崩壊をきみに行わせたのか」
ベルでもわからないことに、ゆうは途方に暮れた。ゆうは俯いた。
「僕は、お母さんを殺さないといけないの?」
涙を零しながら言ったゆうに、ベルは意外な言葉を告げた。
「好きにするといいよ」
ベルは、笑顔のまま、ふうっとため息をついた。
「私はもう、死んだ。細胞の欠片も残さないほどに」
ゆうは首を横に振った。そんな悲しいことを言ってほしくなかった。
「私の再生。それは夢と消えた。……だが、お母さんの救出。これは、姉のオリジンがお母さんだった、ということで、成功した……というか初めからその問題は存在しなかったと言える」
ベルは手を広げた。
「ここは、彼岸だ。あの世の入口だ。このまま、私とここで永久に存在することも可能だ」
愛するベルと永久にここで。……ゆうはつばを飲んだ。
「だがもし、マザーの隠していた最後の真実。それを知りたければ行くといい」
「でも、もうベルの体も僕の体も無いんでしょ? どうやって……」
「私を、今ここで食べるんだ」
ベルはにこにこしたまま、信じられないことを言う。
「おおかみにやったのと同じだよ。私を、残さず食べるんだ。そうすれば、私の全てが愛しいきみ。きみに宿る。力も、心も」
ゆうは恐る恐る、一番なってほしくないことを聞く。
「ベルとは、もう会えなくなるの?」
「完全に一体になるからね。愛しいきみが私を認識することは出来なくなるよ」
そんな……ゆうは下を向いた。いやだ。ベルに会えなくなるなんて。
「沙羅ちゃんが、姉のオリジンに囚われている。奪還に失敗した」
ハッとした。
『ゆうちゃん!』
自分を愛してくれる女の子の顔が浮かんだ。
「マザーの真実の他に、沙羅ちゃんを助けたければ……行くんだ、愛しいきみ」
ゆうは、ぎゅっと、こぶしを握りしめた。
「忘れない。ベルのこと。永遠に」
「そうさ。それでいい。私の愛しいゆうくん」
ベルは近づいて、ゆうの肩に腕を絡めた。
「私を食べて? 大好きな、大好きな、きみ」
そして、キスをした。何度も、何度も……舌を入れて。
(舌から、食べて。あの時みたいに)
ベルの心が直接伝わる。ゆうは新月の牙をだして、その舌を噛んだ。
ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。
どんなものより優しくて。どんなものより、温かい……
……お母さんの、味だった。
ベルベッチカだったチリは、吹き消されて消滅した。
三十二歳。スレンダーで、黒髪のポニーテールに白のTシャツ、細身のジーパンが良く似合う。左目の火傷のあとは、遊郭に火を放った時のものだ。おかげで百年以上屋敷にこもることになった。
「姉」は……いや、相原静は深いため息をついた。
(やはり、私の望みなど、叶うことは無いのね。……永久に)
恐れていたことが現実になり、その事に深く絶望した。
それならばやることはひとつ。ぴきぴきぴきぴき……右手を、日本刀ですら切断する爪に変形させる。そして、催眠をかけられ虚ろな目をする沙羅の首筋に当てた。
「ごめんね、沙羅ちゃん。大好きだったのよ」
爪がくい込み、白い肌に一筋、赤い線が引かれる。
「あっちでも、ゆうちゃんと、仲良くね」
あとは、この爪を十五センチ横に引くだけ。それで噴水みたいに血を吹いて、この子は死ぬ。
それだけ。それだけなのに。
(なぜ。なぜ、出来ない? ……私はオリジン。おおかみたちを束ねる最強の始祖。私に成し遂げられないことなど、ないはず)
静は、逡巡していた。
数瞬後、夕暮れの教室の中で風が吹き始めた。窓を見る……きちんと閉まっている。
と、いうことは。静は、すぐにピンと来た。
ごおおおっ! 風はたちまち黒い竜巻になり、教室の壁に貼られた習字の紙がちぎれ飛ぶ。
静は、右手の衝撃波で、ベルベッチカの身体を原子レベルで消し飛ばした。文字通りチリに還したのだ。だがそれが今、チリから最大出力の再生が始まっている。そんな芸当が出来るのは、たった一人しかいない。
ベルベッチカの力を得た、静の息子、ただ一人である。
ごおおおおおおお──!
竜巻はやがてひとりのヒトの形を得て、ゆっくりと立ち上がる。
「そうよ……そうよゆうちゃん! それでこそ私が育てあげた、破壊と破滅のこどもだわっ!」
数万ボルトの稲妻のような、腰まであるブロンドヘア。深海を見てきたかのような、深い青い色の瞳。ベルベッチカがいつも着ていた、水色のリボンの白いワンピース。
その姿は、新たに生まれ変わったベルベッチカ・リリヰそのもの。
相原ゆうはベルベッチカの全てを受け継いで、チリから再生し、そして復活した。
「お母さん。今戻ったよ」
「うふふ。おかえり、ゆうちゃん」
静はまるで学校から帰ってきたこどもに声をかけるかのように、ごく穏やかに、ごく自然に声をかける。だが内心は、喜びに溢れていた。
(これから。これから私の願いは、叶うのね)
「お母さん。いや、お姉さんのオリジン。倒すよ。あなたを」
「いいわ。それでいいのよ。……さあ。さあ!」
静は両手を広げて叫んだ。
「最後の戦いよ。倒してみなさい。お母さんを」
とても、とても嬉しそうに、笑った。