ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 だが、明治政府の人外の駆逐は進んでいた。新月のモノの国内での捜索は月日が経つ事に困難になっていった。

 ……

 十六年前。隣国にてようやく新月のモノを見つけたとの報告に愁眉を開いた。そして姉はその写真を見て、ひと目で心を奪われる。

(こんなに、こんなに綺麗な女の子が、新月のモノ?)

 七百年近く生きているという新月のモノ。それも自分たちと同じ、始祖だと言う。自分より長く生きてきたモノに出会うのは初めてだ。その日から姉は、その新月に尋常ならざる執着をした。
 おおかみ何人かを引き連れて、海を渡った。飛行機を降り、空港を出て、クルマで何時間も走らせた。そして見つける。大国ロシアの奥地。辺境の村の、古い教会に住んでいた。雪に覆われたその建物のドアをノックした。

「ベルベッチカ・リリヰさんかしら?」

 ドアを開けた少女はこくりとうなずいた。
 さすがに七百年近く生きた新月の始祖は手強かった。祭りまで時間がまだあるとはいえ、日本まで追い込むのに五年かかった。
 ウラジオストクで足跡が途絶えた。だが最後に襲撃した際に赤ん坊のにおいがした。妊娠しているようだ。ならば捕獲は近い。港湾関係者をしらみつぶしに当たり、貨物船に密航していることを聞き出した。

(小樽……北海道か)

 急いで飛行機に乗り込み、港で待ち構えた。運ばれるのは荷物満載のコンテナばかり。

(私のベルベッチカ。逃がさないよ。満月の目、起動……索敵……発見)

 港湾に隣接する貨車に乗り込んだようだ。愛しいベルベッチカは、大きなお腹を抱え、苦悶の表情で足を進めていた。歩くのもやっとに見える。特急電車に乗り込み、新青森発の東北新幹線に先回りした。パートナーのオレンジのダウンは目立った。貨車で出産したのか、裸の赤ん坊も抱えている。追跡は容易だった。そして、盛岡に着くころを見計らって行動を開始した。
 相手も新月の目を持っている。満月の目で索敵すれば気付かれるだろう。「だからこそ」満月の目で三人を捕捉した。
 慌てて盛岡で降りる親子。けれども可哀想に。ベルベッチカは満身創痍だ。必死に気配を消してローカル線に乗り込んだが、見え見えだ。少しづつ自分の大祇村に近づいていることに、興奮を抑えられない。

 そして、雪の降る山道。大祇村まで五キロの所で確保した。
 付き添いの新月のモノは、一撃で葬った。始祖ベルベッチカも戦闘不能だ。後はこの新月のモノを捕獲するだけ。その時。
「おぎゃあ。おぎゃあ」

 赤ん坊の鳴き声が聞こえた。遠い、遠い昔。狼の母様達と過ごした記憶が唐突によみがえる。姉は、その赤ん坊を抱いた。なぜだかはわからない。

「この子は今日から私たちの子供よ」
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「……エレオノーラを、返せ……」
「何言ってるの。絶対、絶対嫌よ。この子は、この子はもう私の。絶対に手放すもんですか」
「エレオノーラぁぁ!」

 背中で愛しいベルベッチカの声を聞きながら、姉は愛しい愛しい赤ん坊を抱いて村へ戻った。
 ちょうどその頃、流産で赤ん坊を失ったヒトの父親が居たのを、知っていた。

「誰か? そこに誰かいるのか?」

 素顔は出さなかった。夕闇に溶け込み、男の心を、誘う。

「欲しい? 子供が欲しい?」

 あくまで淡々と、心を殺して心の隙を突く。

「明日、大祇神社の本殿に、礼拝なさいな。子供を授けてあげる……その代わり、対価をもらうわ」

 村の男はすべて姉妹のしもべ。与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。

 ……
 翌日。大祇神社仮本殿。二人のヒトが礼拝している。

「おぎゃあ。おぎゃあ」

 姉が置いた赤ん坊に、男の妻はさっそく反応を示した。

「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」

 男は赤ん坊を拾うことに躊躇している。

「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」

 しまいには警察に届けるなどと言う。この村には警察なんて在りはしないのに。

「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」
「でも、対価が……」

 そして赤ん坊を抱く女の方のヒトに、神社の階段を上りきるタイミングで、やぶの中から石つぶてを知覚できない速度でくるぶしに当てた。女は百段近くある階段から七十七段目まで落ちた。狙った通り、赤ん坊を必死で守って、最後に後頭部を打ち付けてくれた。

「静、しっかりしろ、静!」
「あなた……この子を……」

 ああ、可哀そうに。女の方は脳挫傷で助からない。でも、大丈夫。

「取り戻したい? 対価を? それなら」

 姉は、相原静の姿に成って、相原毅の前に現れた。そしてやさしく微笑んだ。

「今日からその子の母親は、私ね」

 与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。

 ……
 全ては計画通りに進んだ。手中に収めた赤ん坊はすくすくと育った。
 捕らえたベルベッチカは十一年後に切り刻んで、みんなに分け与える。
 村は、このまま繁栄することだろう。

 姉は気づかないうちに、二人の家族に情が移るようになっていた。娘は、自己認識に若干の不具合があるようだったが、周囲からの理解も得られた。幼稚園でも学校でも、居場所を見つけられたようだ。娘から息子に変わったが、それでも良いと思えた。
 夫の弾くピアノも、大好きだった。夫の引く伴奏に合わせて、翼をくださいという息子から教えてもらった曲を歌った。自由に焦がれ続けていた姉にはぴったりの歌だった。結婚記念日に三人でそれを歌った。歌うことがこんなに楽しくて幸せだとは思わなかった。
 息子とも、夫とも、幸せいっぱいの日々が続いた。
 夫との間に新しく赤ん坊まで授かった。姉は、ようやく妹と同じ、陽の光を得られる幸せを手に入れた。
 全ては。全ては計画通りに進んでいた。そのはずだった。

 ……だがある時、唐突に。
「姉」は恐れた。
「はい、私が持ってる分は全部見せたよ」

 冬の空。ベルの……姉のオリジンのお屋敷。かんおけの横。
 温度のない夕焼けの光が差し込む。
 ベルベッチカは、ゆうの額から手を離した。

「まさか……お母さんが……満月のオリジン……?」

 そうだね、と産みの母親は淡々と答えた。

「そんな……お母さんを助けるため、僕は……クラスメイト達を食べてきたのに」
「そこだ。問題は。……なぜ姉のオリジンは、村の崩壊をきみに行わせたのか」

 ベルでもわからないことに、ゆうは途方に暮れた。ゆうは俯いた。

「僕は、お母さんを殺さないといけないの?」

 涙を零しながら言ったゆうに、ベルは意外な言葉を告げた。

「好きにするといいよ」

 ベルは、笑顔のまま、ふうっとため息をついた。
「私はもう、死んだ。細胞の欠片も残さないほどに」

 ゆうは首を横に振った。そんな悲しいことを言ってほしくなかった。

「私の再生。それは夢と消えた。……だが、お母さんの救出。これは、姉のオリジンがお母さんだった、ということで、成功した……というか初めからその問題は存在しなかったと言える」

 ベルは手を広げた。

「ここは、彼岸だ。あの世の入口だ。このまま、私とここで永久に存在することも可能だ」

 愛するベルと永久にここで。……ゆうはつばを飲んだ。

「だがもし、マザーの隠していた最後の真実。それを知りたければ行くといい」
「でも、もうベルの体も僕の体も無いんでしょ? どうやって……」

「私を、今ここで食べるんだ」

 ベルはにこにこしたまま、信じられないことを言う。
「おおかみにやったのと同じだよ。私を、残さず食べるんだ。そうすれば、私の全てが愛しいきみ。きみに宿る。力も、心も」

 ゆうは恐る恐る、一番なってほしくないことを聞く。

「ベルとは、もう会えなくなるの?」
「完全に一体になるからね。愛しいきみが私を認識することは出来なくなるよ」

 そんな……ゆうは下を向いた。いやだ。ベルに会えなくなるなんて。

「沙羅ちゃんが、姉のオリジンに囚われている。奪還に失敗した」

 ハッとした。

『ゆうちゃん!』

 自分を愛してくれる女の子の顔が浮かんだ。

「マザーの真実の他に、沙羅ちゃんを助けたければ……行くんだ、愛しいきみ」

 ゆうは、ぎゅっと、こぶしを握りしめた。

「忘れない。ベルのこと。永遠に」
「そうさ。それでいい。私の愛しいゆうくん」

 ベルは近づいて、ゆうの肩に腕を絡めた。

「私を食べて? 大好きな、大好きな、きみ」

 そして、キスをした。何度も、何度も……舌を入れて。

(舌から、食べて。あの時みたいに)

 ベルの心が直接伝わる。ゆうは新月の牙をだして、その舌を噛んだ。
 ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。
 どんなものより優しくて。どんなものより、温かい……
 ……お母さんの、味だった。
 ベルベッチカだったチリは、吹き消されて消滅した。

 三十二歳。スレンダーで、黒髪のポニーテールに白のTシャツ、細身のジーパンが良く似合う。左目の火傷のあとは、遊郭に火を放った時のものだ。おかげで百年以上屋敷にこもることになった。
「姉」は……いや、相原静は深いため息をついた。

(やはり、私の望みなど、叶うことは無いのね。……永久に)

 恐れていたことが現実になり、その事に深く絶望した。
 それならばやることはひとつ。ぴきぴきぴきぴき……右手を、日本刀ですら切断する爪に変形させる。そして、催眠をかけられ虚ろな目をする沙羅の首筋に当てた。

「ごめんね、沙羅ちゃん。大好きだったのよ」

 爪がくい込み、白い肌に一筋、赤い線が引かれる。

「あっちでも、ゆうちゃんと、仲良くね」

 あとは、この爪を十五センチ横に引くだけ。それで噴水みたいに血を吹いて、この子は死ぬ。