ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 放課後。

「あいつんち、行くべ」

 翔が控えめの声で切り出した。

「さんせー!」

 蒼太が手を挙げた。友達思いの沙羅が口を開く。

「あたしも行く!」

 ゆうも、僕も、とうなずいた。
 そんなゆうの足を止めるかのように、窓際の逸瑠辺(へるべ)さんが、ゆうの袖を引いた。

「いっしょに、帰ろう」
「え? ……でも航が……」
「おいでよ」

 小さい子がひっぱるかのように不器用に手をぐいと掴むと、そのまま廊下までゆうをさらった。

「おい、ゆう!」
「ゆうちゃん!」

 翔や沙羅が呼んでいるのを背中で聞いた。

逸瑠辺(へるべ)さん? 逸瑠辺(へるべ)さんったら」
「なんだい?」
「どこ行くの?」
「私んち、だよ」

 予想外の返事に、鼓動が早くなる。ロシアからきた、女の子……あの「お屋敷」に住んでいるという、不思議な子。お父さんとお母さんはどんなひとなのかな、とゆうは想像しては頬を赤らめた。

 ……
 クルマも滅多に通らない、田んぼに囲まれた見慣れたふつうの道。校門前の丁字路を右に曲がった。……「お屋敷」の方向だ。げろっげろっ、カエルが可愛く鳴いている。そんな道を逸瑠辺(へるべ)さんが歩いていて、少し後ろをどきどきしながらゆうがつれ立つ。女の子なのに、黒のランドセル。おんなじだ、と思った。かっこいい、と思った。学校の制服もよく似合う。グレーのジャンバースカートから伸びる白いあしを見て、もっとどきどきした。腰まである髪が、ランドセルで別れて左右にゆるく広がって、風が吹くとふわり、といい匂いがした。

『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』

 二週間前の逸瑠辺さんの言葉がよみがえる。彼女こそいい匂いだと思った。
 ふたりは急坂道を上って森に入ってまだまだ歩いた。左側は山に続く斜面。右側は谷底まで崖になっていて、谷底からする渓流の音が心地よい。
 神社を過ぎた。

(あれえ、いつもの道とちがうのかな)
「神社を抜けるのは遠回りだよ」
(……え。考えがわかるの……?)
「うん。読める」

 黒いランドセルの不思議な転校生は、金髪をふわりとたなびかせた。話しかけづらいと思っていたけど、ちがう。ゆうは、すっと背筋を伸ばして歩く後ろ姿がきれいで、ずっと見とれてしまっているのだった。
 神社を過ぎて二十分以上、上り坂を歩いただろうか。学校を出てゆうに三十分以上は過ぎている。こんなとこまで大祇小学校の学区なのかなと、不思議に思っていると、山の頂上、峠付近で道が左に大きく曲がっている。そこを曲がると……右手の谷側に向かって伸びる小道の先に、大きな建物が姿を現す。「お屋敷」だ。昨日見た通りに埃とツタまみれで、人の気配はない。門も鎖で施錠されたまま。ゆうは門をがちゃがちゃとゆすった。

「よじ登ろっか?」
「よじ登る? ふふ。はずれ」

 そう言うと、逸瑠辺(へるべ)さんはひょいっとゆうをすくい上げてお姫様抱っこした。

「ちょっと、僕は女の子じゃない!」
「はは。そうだね、そうだったね」

 次のしゅんかん。ゆうは宙に浮いていた。彼女はゆうを抱いたまま、そのまま二階までジャンプした。

「ええ……っ?」

 目をつぶるひますらなかったが、確かに今、門の前からバルコニーまで飛んだのだ。そして、子猫でも置くかのように、ゆうを優しくそこに立たせた。
 今起きたことを呑み込めず戸惑っていると、おもむろに逸瑠辺さんがバルコニーに面したほこりまみれガラス窓を開けた。中の部屋は同じようにほこりとカビの臭いでいっぱいだった。天井のすみにも、吊り下げられたランプにも、クモの巣がドレスみたいに垂れ下がっている。見たことの無い草模様の壁紙は、所々めくれて壁材が見えてしまっている。何も無い、二十畳くらいの部屋だ。
 ……いや、ちがう。かんおけだ……細長くて六角形の。よく映画で見る、ふたをずらした真っ黒いかんおけが、部屋の真ん中で沈黙を守っている。そしてその子は窓に手をかけたまま、ゆうの方を見てマスクの下で笑った。

「着いたよ。上がって」
 ほこりまみれでかんおけまで置いてある部屋の窓を開いた逸瑠辺(へるべ)さんは、ゆうの方を見て笑った。

「え……ここが」
「うん。ほら、おいでよ」

 とん、と軽やかに、彼女は自分の部屋に入って手を伸ばした。部屋の中は奥に行くほどひどくかび臭いし、床は腐っているのか歩くとたわんだ。そして……部屋の中には、かんおけ以外何も無かった。
 いや、眼を転じると一つだけ何がある。とんとん、足音を響かせながら部屋の主の女の子はくつのまま上がって、かんおけの上に置いてあったそれを取ってゆうに見せた。ぼろぼろの、赤い服を着た女の子のぬいぐるみは、ボタンで出来た左目が取れている。

「ヨウコソ ベルベッチカノ オウチヘ……ふふ。可愛いでしょ。宝物なんだ……どうかした?」
「その……お母さんとお父さんは?」
「ずっとずっと昔に死んじゃったよ。きみが、生まれるずっと前。今はいない」

 逸瑠辺(へるべ)さんはそう言うと、ぬいぐるみを元あったかんおけの上に置いた。
 ゆうは、矢継ぎ早に質問を浴びせる。

「ここで寝てるの? この中で?」
「寝ないんだ、私。これは私を納めるただの箱」
「ごはんとかは?」
「食べない。ニンゲンとはちがうんだ」
「……え?」
「違ったね、『まだ』ニンゲンだったね」

 ゆうは、言われてる事が理解できない。ニンゲンじゃないというその子は、部屋のいちばん奥、ドアの前で体育座りで扉にもたれた。真っ白のぱんつが見えてしまっているけれど、気にもしていない。部屋の中はとても暗くてきれいな瞳は水色に光っている。

「きみはみんなとは違うよ。私と同じ」
「……なにが、同じなの……?」
「新月を選んだ方。まだ『始祖の力』が完全には目覚めてないだけ」

 ぽつ、ぽつとバルコニーに雨がぱらつく音がし始めた。ゆうの中の不安と共に、雨音も大きくなっていく。

「みんなはもうすぐ満月を選ぶ。そしたら私、きみとは会えなくなるからね」
 ゆうは今度こそ訳がわからなくなり、がまんできなくなった。

逸瑠辺(へるべ)さん! さっきから新月とか満月とか、会えなくなるとか! 言ってることが全然……」

 すると、とん、三メートル離れたゆうのところまで、座った状態からいっしゅんで飛んだ。そして、マスクのままゆうの耳元でささやいた。

「マスクの下、見たい?」
「え」
「見たいでしょ。わかるんだ、私」
「う、うん……」
「七月六日の土曜日。新月の晩。きみの家にむかえに行くから。その時に、見せてあげる……待っててね。きみは私にのこされた、たったひとりの同胞(はらから)なのだから」

 そう耳打ちすると、二歩下がった。

 ……

 ゆうは、部屋を出た。雨は本降りになっている。とりあえず一階まで降りなくてはならない。バルコニーのツタにしがみついた。四時すぎだ。雨のせいか空は重たく薄暗くて、部屋の中は外から見ると真っ暗だ。不思議なその子はゆうの見えるところまで出て来てくれた。そして、青白い二つの光は、じいっと。ツタにつかまり下りるゆうを見ているのだった。

 ……
 それから、七月六日までの毎日、逸瑠辺(へるべ)さんと帰った。神社をすぎて、山道を上って、抱っこで宙を飛んで。
 機動戦士のモビルスーツのプラモを持って行った。薄暗いかんおけだけの部屋の中。ランドセルからそれを出すと、彼女は光る瞳をさらに輝かせた。赤い服のぬいぐるみといっしょに遊んだ。モビルスーツとぬいぐるみはダンスを踊った。ぬいぐるみがモビルスーツの悲劇のヒロインになることもあった。
 楽しかった。
 家に帰っても、お風呂の時も、おふとんに入った時も。翔と学校に通う時も、あゆみ先生の授業を聞いている時も。ずっとずっと、大好きな女の子のことを想った。お父さんもお母さんもいない、あの子の寂しさに思いをはせた。夜、眠らずに一人でかんおけに座る、彼女のことが脳裏にうかんだ。モビルスーツとぬいぐるみで遊ぶ、嬉しそうな目が頭からはなれない。
 そうして、長い長い日にちが過ぎて──もしかしたらあっという間だったのかもしれない──、七月六日がやってきた。

 ……

「部屋、どこ? ……わかった、そこで待ってて」

 令和六年七月六日、土曜日。十一時に迎えに行く。そう言われたから、布団に入り目を見開いて暗い天井を見上げたまま。眠れるはずがなかった。大好きな逸瑠辺(へるべ)さんと、親も知らない深夜に、内緒で会うのだから。
 ベランダも下に屋根もない、鳴るはずの無いガラスをこんこんとノックする音がする。布団から飛び起きて、カーテンを開ける。水色の瞳を光らせる少女が、宙に浮かんでいる。

「待たせたね」
逸瑠辺(へるべ)さん!」
「おいで、ゆうくん」

 宙に浮いた愛するその子が、ベランダも手すりもない二階のゆうの部屋の窓からゆうの手をやさしくにぎる。あいかわらず白くてひんやりした手だけど、つかむ力はとてもやさしい。見つめる瞳は、新月の晩でも水色に輝いている。ひょい、とゆうを引っ張って、いつもみたいにお姫様だっこした。

「わっ、もう、言ってよ」
「ふふ。……走るよ」

 ぎゅん! 五十メートル走が十一秒もかかるどんくさいゆうと違って、風みたいにものすごいスピードで走った。徒歩で三十分はかかる大祇神社まで、二分とかからなかった。百段ある階段も、一足で飛び降りた。

「ははは。あははは」

 そして、とても楽しそうに笑う。とても。たのしそうに。
 谷底の大祇神社の境内に着いた。鳥居の横に、白い文字で書かれた赤いノボリが立てられている。

「大祇祭 令和六年七月二十一日(日)」

 月明かりはないけれど、星の明かりで洞窟の入り口の真っ赤な本殿がぼんやり浮かび上がる。それを守るかのように、おおかみの像が二体こちらを見ている。どんなに逃げても睨んできて、今にも動き出して食べられてしまいそうで……小さい頃から苦手だった。でもこの子となら、どうしてかこわくない。
 新月の夜、満点の星空。うすむらさきの夜空の下、やわらかくほほえんでいる。

「さ、約束だよ。見せてあげる」

 おおかみの像が見守る真夜中の神社で。逸瑠辺(へるべ)さんはそう言うと、マスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。
 谷底の大祇神社の境内。深夜十一時十分、新月の晩。逸瑠辺(へるべ)さんはマスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。そして、口を大きく開いてみせた。

「はじめまして、ゆうくん」

 あっ、ゆうは思わず叫んだ。そこにはニンゲンのそれの三倍は長い犬歯が二対、上下に生えていた。

「新月の始祖。吸血鬼ベルベッチカ・リリヰです……ふふふ、ねえお願い。ベルって、呼んでよ」
「ベル……」
「ふふふ、私、きれい? ふふふ」
「……ベル、ベル……きれいだよ。すごくきれいだ」
「ふふふ、あはははは」

 光る眼が、水色から赤に変わった。そして両手を頬にあて身体をよじって、うっとりと笑った。

「ごめんねえ、ゆうくん! 私もう、我慢できないっ」
「我慢?」
「うん、もう、いい?」
「……なにが、もういいの?」
「いい匂いなんだよ。……きみがっ! とってもっ!」

 三メートル先で笑っていたはずのベルが、とんっと瞬間移動してゆうのほっぺたを両手でつかんで、そして……ちゅっ、とキスをしてきた。しかも舌をからませて。甘い味が、口中に広がった。
 ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。

 今までの人生で味わった、全てのものより甘くて、とろけて、美味しかった。一生味わっていたい、その為ならなんでも出来る。時間が遅くなる。永遠に続いているかのような快楽。頭の中に、ベルの愛を直接流しこまれた。
 愛してる、ゆうくん……愛してる、ゆうくん……きみのたましいは、私のもの。愛してる……愛してる……
 ゆうのたましいは……今このしゅんかんから永遠にとりこになった。
 時間が戻り、舌の二か所にずきんとするどい痛みが走った。

(血を……吸われてる……?)

 痛いからはなそうとベルを押すけれど、はなしてくれない。ものすごい力で、ほっぺたをつかまれているみたいだった。でも……だんだん……いい気持ちになってきて……あたまがふわりと浮いた。ベルが口をはなす。

「ああ、美味しかった。これで私はもう、大丈夫。……きみの中で生きることにした」

 目の前が白んで、ものすごく眠くなって。

「ゆうくん。私、幸せだったよ。ゆうくん。大好きだった。ゆうくん……」

 意識が切れる直前。ベルが最後に、そう言ったような気がした。

 ……