ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 年中さんに上がった。年少さんからおなじせんせいだったひとみせんせいが、その日から、「ゆうちゃん」から「ゆうくん」と呼ぶようになった。幼稚園のバッヂも、ピンクから青になった。みんな、当然みたいにゆうくんって呼ぶ。
 でも。沙羅はずっと「ゆうちゃん」だ。おんなのこでも、おとこのこでも、どっちだって良かったから。男子にも張り合う沙羅を、みんな「ガサツ女」「おとこおんな」って呼ぶけど、ゆうちゃんはそんなこと一度も言わない。一緒に遊んで、転ぶと手を貸してくれた。一緒に遊んで、仲間はずれの子がいると助けてあげていた。翔や蒼太がたんけんに行く時も、いつも沙羅に声をかけてくれた。
 ちっちゃい心臓に付いた火は、いつの間にか恋心に変わっていた。

 小学校に上がった。ゆうちゃんは、青いキャップの帽子を被るようになった。髪の毛の話題になるとムキになって怒るから、誰も触れなくなった。でも青い瞳は、いつも沙羅を見てくれていた。
 だから沙羅は、どんなにライバルがいても安心なのだ。

 ……
 結花がゆうちゃんを女の子として見ているの、実は知ってる。手にカメラを隠して、撮りまくってる。こっそり撮ってるつもりだろうけど、沙羅から見たらバレバレだ。この前放課後に忘れ物取りに行ったら、デジカメみながら自分のスカートに手を突っ込んでた。……なにしてんだか。

 ……

 美玲もゆうちゃんが好きだ。昔からマンガが大好きだった。沙羅は知っている。マンガの主人公はいっつもゆうちゃんで、ヒロインは美玲なのだ。金髪の主人公──たとえば、ヤイバとか──を見せては。

『ゆーくんに似てるよねえ! じゃあ、ボクはこの子かなあ』

 なんて妄想を、ずーっと聞かされてきたのだから。

 ……

 みかは、実は沙羅の最大のライバルだ。忘れ物クイーンとして有名で、普段はおどけてばかりだけど、だからこそゆうちゃんが放っておかない。たんけんするときは、沙羅といっつもみかはいっしょだけど、二人同時に転ぶと、かならずみかの方を先に助ける。
 すごく悔しいけど、本人も無自覚にやっていて責められないのがよけいに悔しい。

 ……
 みんな。みんな。みんな死んでしまった。おおかみになって。ベルベッチカちゃんを助けるため。お母さんを助けるため。ゆうちゃんが、みんなを殺して、食べた。そしてその結果。
 ゆうちゃんはベルベッチカちゃんに「上書き」されて、居なくなってしまった。
 沙羅は、ひとりぼっちになってしまった。ひとりぼっちになった沙羅は、神社の階段のいちばん下にひとり、座っていた。

「お昼ご飯が出来たそうだよ」

 ベルベッチカちゃんは、そう言うと社務所に戻った。沙羅はぼーっとしていて、うんと答えたけどまだ座っていた。だから、そのモノが来た時、社務所という結界の外に居た。

「寂しい?」

 うん。
 何度も何度も聞いたことのある声だったから、なんの違和感もなく答えた。前を向いた沙羅に、そのヒトはもう一度聞いた。

「寂しい?」

 そのヒトの輪郭は、黒く歪んで見えなかった。
 新月の耳が悲鳴を捉えた。沙羅ちゃんの声をほんの僅かだがたしかに聞きとった。たしかに、境内に続く階段のいちばん下に座っていた。ベルベッチカ・リリヰがそこに駆けつけるまで、三秒もかかっていないはずだ。さすがのオリジンも、痕跡を消しきれていない。においが、残っている。

(新月の目起動……追跡開始)

 沙羅ちゃんが声を掛けられている。

「さ……しい……」
(寂しい? か……)

 オリジンがヒトをおおかみに引き込む時、よく使う言葉だ。実際にそう言っているわけではない。孤独で惹き付けられやすいヒトには、都合のいい言葉に変換されてそう聞こえるのだ。

(一秒後、みぞおちに打撃……肋骨が一本骨折。五メートルの高さへ飛ばされる。同時に跳躍。上空で沙羅ちゃんの首筋を掴む)

 ベルベッチカは隣の太いケヤキを見る。

(首を掴むと同時にケヤキの幹を蹴る。そのまま、階段を全て飛ばして階段上の道へ着地……追跡ロスト。新月の目、起動終了)

 間に合わない訳だ。声をかけてから、神社の外に行くまで二秒しかかかっていない。三秒後に駆けつけた時には、一キロは離れていただろう。でも、においをたどれば、追跡できる。オリジンが本当にあゆみ先生なら……学校だろう。
 社務所に神速で戻った。
 おじいさんがツテで用意した拳銃を取り、銀の弾丸を装填して、残りの五発に銀メッキの弾丸を装填した。銀の弾丸が、一発目に来るように弾の順序を整えた。
 いつもの白ワンピースにはポケットがないことに気づく。おじいちゃんの部屋を見渡すと、沙羅ちゃんの学校の制服がある。それに袖を通した。やや大きいけれど、問題ない。グレーのジャンパースカートの制服。着るのは何ヶ月ぶりだろう。ほんの数週間しか着ていないはずなのに、とても懐かしい。スカートのウエストベルトに、拳銃を差し込んだ。
 社務所の事務室に居た沙羅ちゃんのおじいさんを呼び、孫娘がさらわれたと伝える。とても驚いて声を大きくするが、冷静に努めた。

「私が、取り戻してくる。……大丈夫。この村の大半のおおかみを食べてきた。私の目算が正しければ、五分以上に立ち回れるはずだ。銀の弾丸も持った。どうかご安心を」
「あ、ああ……どうか、どうか……沙羅をよろしくお願いするよ」
「すまないね……私の因縁に、お孫さんを巻き込んでしまって。……沙羅ちゃんは死を賭してでも必ず取り戻す。最善を尽くすよ。おじいさんは、どうか、この結界の中で、待っていて欲しい」

 そう告げると、ベルベッチカは社務所を出た。

(新月の目、再起動……わかるぞ、オリジン。お前が残したにおいが……)
「待っていろ、今日こそケリをつけてやる」

 そうつぶやくと一歩で三十メートル先の階段まで飛び、次の一歩で階段を全て飛び越え、神社前の道に着地した。そして、百メートルを二秒で駆け抜ける脚で、学校を目指した。
 新月の始祖、ベルベッチカ・リリヰは敗れた。

「大丈夫かい? 沙羅ちゃん」

 五年生の教室。沙羅ちゃんは、生気のない目をしたまま、ベルベッチカの後ろに立っている。その前で、ベルベッチカ・リリヰは身体を起こす。自身の下半身を見る。

 身体は横一文字に切断され、下半身とは五十センチほど離れていた。

 二頭の──蒼太と航の──おおかみは倒した。
 あゆみ先生も首を落とし滅した。
 勝った、はずだった。何年も十数年続いた因縁に、ケリをつけたはずだった。
 しかし。目の前に、オリジンがもう一人いる。
 くっ。まさかこんなことが。ベルベッチカは頭の中で悪態をついた。突然の乱入に対応できないまま、一閃をもろに受けてしまったのだ。切り札の拳銃は、二メートル程後方に落ちている。とても届かないし、銀の弾丸は使ってしまった。
「……ベルベッチカ……」

 それでも、負けない。負ける訳にはいかない。ばきんっ、と新月の爪を解放した。

(脚が無くったって! この爪さえあればっ)

 しかし、つぎの瞬間。オリジンは爪を縦に振るった。それは凄まじい衝撃波となり、ベルベッチカは守るべき少女の目の前で跡形もなくばらばらにされた。

 ……

「きみ、愛しいきみ」

 冬の夕方。芯まで冷える、薄明かりの空の下。ゆうはあのお屋敷のあの部屋の、かんおけの横に座っている。いつの間に、いつから座っていたのかはわからない。けれどたしかに今、ここにいる。
 そして、自分を呼ぶ声に初めて気がついた。

「ベル……?」

 ゆうは立ち上がった。

「良かった。きみの細胞は、私の中でまだ残ってくれていたんだね」

 ゆうは愛しい母なる少女の名前を呼び、探した。
 ここにいる、との声に振り返ると、愛しい愛しいベルベッチカが立っている。笑って……いるように見える。
「ねえ、僕はどうなったの?」
「しばらく身体を借りていてね。戦っていたんだ。けれど……オリジンに、負けた」

 ベルは寂しげに言った。ゆうは下を向いた。

「そっか……僕たち、死ぬの?」

 ベルベッチカは歩み寄り、ゆうの顔を覗いて首を横に振った。 

「ここにずっといることも出来るし、戦いを挑むことも出来る」

 ゆうもベルを見た。

「でもベル、君で勝てない相手に、僕なんかじゃ勝てないよ」
「ふふふ。大丈夫。勝算はまだあるよ」

 そういうと、ベルはゆうのおでこに触った。

「奴に接触してね。記憶を覗けたんだ。オリジンの真の姿と、奥に何か秘めていることがわかった」
「オリジンの真の姿?」

 ゆうはベルを見た……やさしく、微笑んだままだ。

「今から、それを君にたくす。そして、決めるんだ。このままここに留まるか。この村を縛り続けた呪いと愛を滅するか」

 そう言うとベルの手が暖かくなった。と同時に、知らない景色が洪水のように流れ込んできた。
 ぷつり、とゆうの意識は切れた。
 その姉妹は、狼に産み落とされた。
 母様の乳を飲み、父様が捕ってきたシカやイノシシの肉を食べた。東北の冬はとても寒かったけれど、母様の毛皮はとても暖かくて、父様はとても凛々しかった。ヒトの姿をしていたけれど、母様も父様も、他のきょうだいと変わらず愛してくれた。渓流に面した大きな洞窟を巣穴にしていた狼の家族。寒いけれど、暖かい日々。姉妹は愛に包まれて育った。
 姉妹が四歳になったころ。他のきょうだいと一緒に狩りに出ていた。シカを追っていた。大物でとても美味しそうで、だから気がついたら深追いしていた。いつの間にか母様が絶対に近寄ってはならないと言っていた、ヒトの里に近づき過ぎていた。
 妹が崖から落ちて気を失った。きょうだいは母様を呼ぶため遠吠えをした。
 しっ! と姉は制したが、遅かった。
 だーん、と聞いた事のない雷のような音がして、きょうだいは血を吹いて倒れた。