「でもほんと、ベルベッチカちゃん、綺麗だよね」
脱衣所を出て、沙羅は興奮気味に憧れの女の子に素直な気持ちを口にする。
「そうかい。あまり言われないから、実感が湧かないな」
そんなことはぜったいにない。沙羅はベルベッチカに伝えながら。
「ゆうちゃんにそっくり! もしかして、生き別れた双子のお姉さん、とかだったりして!」
あはは、と冗談交じりに言ってみたら。
「母親、だよ」
へ? ははおや。今そう聞こえたような気がした。
「私はゆうくんの、母親だ。十一年前、貨車の上で出産した」
沙羅は自分の開いた口がうまく閉じないのを感じる。
「私は七百八歳だからね。十一歳の沙羅ちゃんとは、違うんだよ」
「……えええええっ!」
沙羅は思考が追いつかない。転校してきたクラスメイトが、大好きな子のお母さんで。その子が自分と同い年の子を産んでて。その赤ちゃんが女の子だけど、中身は男の子で。今はその赤ちゃんと入れ替わってしまっている。……考えるだけで頭がパンクしそうになる。
「はは。ややこしいよね。ごめんね」
沙羅と同じように笑うその姿を見ていると、七百年も生きていたなんて、とても思えない。ふつうの、綺麗な女の子だ。幼稚園の頃、ずっとずっと欲しくてお母さんにねだっていた、「リサちゃん人形」に似ている。
こんなこと、前にも考えたことなかったっけ。沙羅は頭をひねった。
……
「リサちゃんにんぎょうのこがいる!」
村にひとつしかない幼稚園の入園式。三歳の沙羅は金髪がとても綺麗な女の子にかけよった。
まだ集団行動の取れない歳の頃。興味が引かれたら、そっちにつられて行ってしまう。なれない幼稚園の体育館。小学生になってから行ったことがあるけれど、本当に小さな体育館だった。でも、三歳の沙羅にはとても広く感じた。その体育館に、ちっちゃな椅子がきれいに並んでいて、どぎまぎした三歳のこどもたちがちょこんと座っている。
樫田沙羅はそう叫んで、お人形さんのそばに駆け寄った。公園で何回か見たことがある。でもお砂場でも滑り台でも、その子はお母さんと見てるだけ。あんまり綺麗だから、勝手に「リサちゃん人形の子」と呼んでいた。その憧れの子が、何人か前に座った。沙羅は、リサちゃん人形の子の所まで走って、そのかみのけをさわった。
「かみのけきれー!」
リサちゃん人形の子は、かみのけをさわられるをいやがった。でも沙羅をみる瞳をみて、もっと夢中になった。あおい、おそらの色をしていたから、思わずきれいとさけんだ。
「やだ! ぼくはおとこのこだよう」
え? こんなきれいなおとこのこは沙羅はみたことない。
このしゅんかん。沙羅のちっちゃな心臓に、あついあついひがついた。
年中さんに上がった。年少さんからおなじせんせいだったひとみせんせいが、その日から、「ゆうちゃん」から「ゆうくん」と呼ぶようになった。幼稚園のバッヂも、ピンクから青になった。みんな、当然みたいにゆうくんって呼ぶ。
でも。沙羅はずっと「ゆうちゃん」だ。おんなのこでも、おとこのこでも、どっちだって良かったから。男子にも張り合う沙羅を、みんな「ガサツ女」「おとこおんな」って呼ぶけど、ゆうちゃんはそんなこと一度も言わない。一緒に遊んで、転ぶと手を貸してくれた。一緒に遊んで、仲間はずれの子がいると助けてあげていた。翔や蒼太がたんけんに行く時も、いつも沙羅に声をかけてくれた。
ちっちゃい心臓に付いた火は、いつの間にか恋心に変わっていた。
小学校に上がった。ゆうちゃんは、青いキャップの帽子を被るようになった。髪の毛の話題になるとムキになって怒るから、誰も触れなくなった。でも青い瞳は、いつも沙羅を見てくれていた。
だから沙羅は、どんなにライバルがいても安心なのだ。
……
結花がゆうちゃんを女の子として見ているの、実は知ってる。手にカメラを隠して、撮りまくってる。こっそり撮ってるつもりだろうけど、沙羅から見たらバレバレだ。この前放課後に忘れ物取りに行ったら、デジカメみながら自分のスカートに手を突っ込んでた。……なにしてんだか。
……
美玲もゆうちゃんが好きだ。昔からマンガが大好きだった。沙羅は知っている。マンガの主人公はいっつもゆうちゃんで、ヒロインは美玲なのだ。金髪の主人公──たとえば、ヤイバとか──を見せては。
『ゆーくんに似てるよねえ! じゃあ、ボクはこの子かなあ』
なんて妄想を、ずーっと聞かされてきたのだから。
……
みかは、実は沙羅の最大のライバルだ。忘れ物クイーンとして有名で、普段はおどけてばかりだけど、だからこそゆうちゃんが放っておかない。たんけんするときは、沙羅といっつもみかはいっしょだけど、二人同時に転ぶと、かならずみかの方を先に助ける。
すごく悔しいけど、本人も無自覚にやっていて責められないのがよけいに悔しい。
……
みんな。みんな。みんな死んでしまった。おおかみになって。ベルベッチカちゃんを助けるため。お母さんを助けるため。ゆうちゃんが、みんなを殺して、食べた。そしてその結果。
ゆうちゃんはベルベッチカちゃんに「上書き」されて、居なくなってしまった。
沙羅は、ひとりぼっちになってしまった。ひとりぼっちになった沙羅は、神社の階段のいちばん下にひとり、座っていた。
「お昼ご飯が出来たそうだよ」
ベルベッチカちゃんは、そう言うと社務所に戻った。沙羅はぼーっとしていて、うんと答えたけどまだ座っていた。だから、そのモノが来た時、社務所という結界の外に居た。
「寂しい?」
うん。
何度も何度も聞いたことのある声だったから、なんの違和感もなく答えた。前を向いた沙羅に、そのヒトはもう一度聞いた。
「寂しい?」
そのヒトの輪郭は、黒く歪んで見えなかった。
新月の耳が悲鳴を捉えた。沙羅ちゃんの声をほんの僅かだがたしかに聞きとった。たしかに、境内に続く階段のいちばん下に座っていた。ベルベッチカ・リリヰがそこに駆けつけるまで、三秒もかかっていないはずだ。さすがのオリジンも、痕跡を消しきれていない。においが、残っている。
(新月の目起動……追跡開始)
沙羅ちゃんが声を掛けられている。
「さ……しい……」
(寂しい? か……)
オリジンがヒトをおおかみに引き込む時、よく使う言葉だ。実際にそう言っているわけではない。孤独で惹き付けられやすいヒトには、都合のいい言葉に変換されてそう聞こえるのだ。
(一秒後、みぞおちに打撃……肋骨が一本骨折。五メートルの高さへ飛ばされる。同時に跳躍。上空で沙羅ちゃんの首筋を掴む)
ベルベッチカは隣の太いケヤキを見る。
(首を掴むと同時にケヤキの幹を蹴る。そのまま、階段を全て飛ばして階段上の道へ着地……追跡ロスト。新月の目、起動終了)
間に合わない訳だ。声をかけてから、神社の外に行くまで二秒しかかかっていない。三秒後に駆けつけた時には、一キロは離れていただろう。でも、においをたどれば、追跡できる。オリジンが本当にあゆみ先生なら……学校だろう。
社務所に神速で戻った。
おじいさんがツテで用意した拳銃を取り、銀の弾丸を装填して、残りの五発に銀メッキの弾丸を装填した。銀の弾丸が、一発目に来るように弾の順序を整えた。
いつもの白ワンピースにはポケットがないことに気づく。おじいちゃんの部屋を見渡すと、沙羅ちゃんの学校の制服がある。それに袖を通した。やや大きいけれど、問題ない。グレーのジャンパースカートの制服。着るのは何ヶ月ぶりだろう。ほんの数週間しか着ていないはずなのに、とても懐かしい。スカートのウエストベルトに、拳銃を差し込んだ。
社務所の事務室に居た沙羅ちゃんのおじいさんを呼び、孫娘がさらわれたと伝える。とても驚いて声を大きくするが、冷静に努めた。
「私が、取り戻してくる。……大丈夫。この村の大半のおおかみを食べてきた。私の目算が正しければ、五分以上に立ち回れるはずだ。銀の弾丸も持った。どうかご安心を」
「あ、ああ……どうか、どうか……沙羅をよろしくお願いするよ」
「すまないね……私の因縁に、お孫さんを巻き込んでしまって。……沙羅ちゃんは死を賭してでも必ず取り戻す。最善を尽くすよ。おじいさんは、どうか、この結界の中で、待っていて欲しい」
そう告げると、ベルベッチカは社務所を出た。
(新月の目、再起動……わかるぞ、オリジン。お前が残したにおいが……)
「待っていろ、今日こそケリをつけてやる」
そうつぶやくと一歩で三十メートル先の階段まで飛び、次の一歩で階段を全て飛び越え、神社前の道に着地した。そして、百メートルを二秒で駆け抜ける脚で、学校を目指した。
新月の始祖、ベルベッチカ・リリヰは敗れた。
「大丈夫かい? 沙羅ちゃん」
五年生の教室。沙羅ちゃんは、生気のない目をしたまま、ベルベッチカの後ろに立っている。その前で、ベルベッチカ・リリヰは身体を起こす。自身の下半身を見る。
身体は横一文字に切断され、下半身とは五十センチほど離れていた。
二頭の──蒼太と航の──おおかみは倒した。
あゆみ先生も首を落とし滅した。
勝った、はずだった。何年も十数年続いた因縁に、ケリをつけたはずだった。
しかし。目の前に、オリジンがもう一人いる。
くっ。まさかこんなことが。ベルベッチカは頭の中で悪態をついた。突然の乱入に対応できないまま、一閃をもろに受けてしまったのだ。切り札の拳銃は、二メートル程後方に落ちている。とても届かないし、銀の弾丸は使ってしまった。