「あらあ、みかさん。そんなに怒って。先生なにか、したかしらあ?」
「先生、私思い出しました」
「ふふふ、『なんだっけ』は、なしよ?」
「きちんと覚えてます。ひと月前。先生は相原ちゃんをはじき飛ばして、私にかみついて、おおかみにしたんです! 祭の時、私は肉を食べなかったから」
「あらあら、よく覚えてるわねえ。みかさんらしくないわ」
「それからずっと、私に思い出さないようにした!」
「……それで……みかさんはどうしたいのかしら」
「相原ちゃんに言います。それで、先生をやっつけてもらいます」
「あらあ、残念だけどゆうくんじゃあ私に勝てないわ。……それに、そういうの」
とん、と先生はみかとの十メートルを、いっしゅんでつめた。
「なんていうか知ってる?」
「あ」
「身の程を弁えない……っていうの」
どかっ……と、笑顔のまま、あゆみ先生はみかを信じられない速度で蹴り上げた。ばきばき、肋骨が折れる音がみかの中で響く。みかは叫ぶこともままならないまま、高く飛ばされた。でもみかにも満月のモノの血が流れている。必死で下を向いてあゆみ先生を捕捉しようとした。が。
「あら、こんにちは」
信じられないことに、下にいたはずのあゆみ先生は、みかの目の高さで浮いている。
どがっ。そして、頭を思いっきりひじで、打った。
ぎゃんっとみかは地面に叩きつけられたあと、またもや瞬間的に移動したあゆみ先生にお腹を蹴られ、三十メートル先の社務所に激突した。
「ゆうくーん? そこにいるんでしょう?」
そういいながら、あゆみ先生は息も切らさず悠然と歩いている。
「早くしないと大事なお友達がなぶり殺しよ?」
たった三撃だったが、もうみかは虫の息だ。辛うじて立とうと脚を動かすが、もう立ち上がることもできない。
……
『だめだ、愛しいきみ。行くな。これはワナだ』
「でも、すぐそこでみかがっ」
『二度も惨敗を喫してもまだわからないのかっ! 行けば殺されるだけだ。お母さんも二度と帰らない』
「くそっ、くそっ!」
ゆうは社務所の床を叩いた。何度も。
……
どかっ……どかっ……
始祖は殺さない程度に、おおかみを蹴り続けた。
「あ……いはら……ちゃ……」
「あらあら、可哀想に。みかさんが大好きだった、ゆうくん。……来ないみたいね?」
あゆみ先生は両手を広げて笑った。
「あっははははは。バレンタインで毎年一度もチョコを渡せなくて。それも家に忘れてきちゃったせいで! いつの間に沙羅さんに盗られちゃって! そんなになっても助けにも来てくれない」
残酷な笑みを浮かべながら、瀕死のみかを覗き込んだ。
「『忘れちゃってる』のかもね。大好きな相原ちゃんも。みかさんのこと」
「ちがう……もん……」
みかは、身体中血まみれになりながら、それでも立ち上がろうとした。
「あい……はら……ちゃんは……忘れない……」
ごほっ。ごほっごほっ。口から黒い血を吐きながら……立った。
「いつも……いつだって……私のこと……見て……くれてた……もんっ!」
そう。あゆみ先生は優しい笑顔で、言った。
「じゃあ、死んじゃうところも、見ててもらおっか?」
どしゃっ……先生の腕が、みかを貫いた。
……
始祖の気配が消えてから、ゆうは社務所を出た。
真っ黒なおおかみが、浅く息をしている。もうすぐ、それも止まるだろう。
しゅうう……黒い前足は手に、筋肉質な脚は、みかの足に。鼻は縮んで、知っているみかの顔になった。でも、身体中血まみれで、元気でおっちょこちょいの面影はもうない。
それでも、何かしゃべろうとしている。ゆうは必死で呼びかけた。
「え……へへ。やっ……ぱり……相原ちゃん……覚えてて……くれた」
「わすれるもんか! みかは、いつも一生懸命、伝えようとしてくれていた!」
嬉しいなあ。彼女は血まみれの顔でゆうを見た。
「ねえ……相原ちゃん……私を……たべて……私の全部をあげるから……わすれないで……わたしの……こと……」
そして、忘れ物クイーンは、幸せそうに笑った。
「ね……だいすき……だから……ね……わすれない……で」
数秒後、みかは息を引き取った。ゆうは、泣きながらみかを食べ尽くした。
ゆうは社務所のおじいちゃんの部屋で膝を抱えている。外は雨だ。秋雨の冷たい雨粒が窓ガラスに当たって音を立てている。部屋は暗い。それは外の天気の所為もあるけれど、蛍光灯を消して息をひそめているからというのが大きい。ここは安全な結界の内側だけれど、ゆうはじいっと窓に背を向けて動かない。大丈夫かい。愛しい母が頭の中で呼ぶ。けれど、ゆうは動かない。まるで手負いの獣が巣穴に篭ってじっと傷が癒えるのを待っているかのように。
いや、動けないのだ。ちょっとでも窓のそばに寄ると聞こえてしまう。食べた命の、囁きが。
……
今日は航を食べに行くと決めていた。ベルともそう話した。でも一日曇りと報じた予報は外れて、下町に向かう途中で雨に降られた。思えばここ最近。特にベルに始祖に目覚めさせてもらってから。まとまった雨は降っていなかった。いつも晴れていて、九月の終わりまで暑い日もあった。
だから、気付かなかった。雨にすら反応するほど新月の力が先鋭化していることに。
ちょうど角田屋を出た辺りだ。鼻の頭にぽつりと当たった。
「ゆーくん、読んでくれた?」
美玲だ。すぐ耳元で呟いた。思わず振り返るが、誰もいない。ぽつり。耳たぶに当たる。
「ゆう、おごってやるよ」
翔が、いつもの帰り道でするように声をかける。ぽつり。頬に当たる。
「ゆーちゃん、宿題見せて」
茜だ。そうやって、いつも、宿題を写させてあげていた。ぽつり。旋毛にあたる。
「相原くん、美味しかった?」
結花が聞いてくる。……ああ。美味しかったよ。結花も、美玲も、翔も、茜も、みかも。
ぽつり。ゆーくん。ぽつり。ゆう。ぽつり。ゆーちゃん……
ざあっ。雨が本降りになった。
「じゃあさ、ゆうも食べてやるよ」
「そだね、ゆーちゃんにも味わってもらおう」
「うん、ボク、食べてもらえてすっごく幸せだったから」
「ね、相原ちゃん」
ざくっ。雨粒がお腹を裂く。腸が垂れ下がる。
ぎああっ!
思わず悲鳴をあげる。
「いつも腸から食べてくれてたよね」
「次は舌ね」
声のする度、身体中を雨粒が引き裂く。
「ぎゃああ、止めて、止めてぇ」
雨の降りしきる田舎の道で。ゆうは原型を留めなくなるまで切り刻まれ、アスファルトの上のただの赤い染みになった。
……
「うわあっ!」
おじいちゃんの社務所でゆうは気が付く。おなかを触る。内臓も出ていないし、舌もちゃんとある。首には掛けた覚えのないタオルがある。薄暗い部屋の中で、ベルが語り掛けてきた。
『気を失ったから借りたよ。……水に、吸ったいのちの声を聴いたんだね。最初にいうべきだった』
ゆうは慌てて窓から離れて、膝を抱いた。
大丈夫かい。愛しい母が頭の中で呼ぶ。けれど、ゆうは動かない。まるで手負いの獣が巣穴に篭ってじっと傷が癒えるのを待っているかのように。
ゆうの心は、手負いそのものだった。
それから。ゆうは村人を、おおかみになった村人を食べ続けた。
翔のお父さんにお母さん。美玲のお父さんにお母さん。茜のおじいさん。結花のお父さん。みかのお父さんにお母さん。航のお父さんにお母さん。蒼太のお父さんにお母さん。
角田屋のおばあちゃん。村でたったひとつの郵便局の職員さんに局長さん。村でたったひとつのブティックのおばさん。村でたったひとつの中華料理屋さんの老夫婦。
食べた……食べた。一心不乱に食べまくった。食べれば食べるほど。ベルの声ははっきり、大きく、他の人に聞こえるようになった。新月の目の精度は、どんどんあがっていった。相手の首を切り落とす爪は、どんどんするどくなっていった。
……
ある日、村役場を襲撃した。もう冬になっていて、雪が降っていた。小さな役場だったけれど、それでも三十人はいた。皆殺しにした。右手を新月の爪にして。全員残らず切り刻んだ。そして、二十七人目を食べ終わった時。
爪が、戻せなくなった。
あれ、おかしいな。そう思ってまばたきをしたら。
相原ゆうとベルベッチカが入れ替わった。
「? きみ、愛しいきみ」
声は聞こえない。両の手を見る。骨ばって、ごつごつしている。相原ゆうの手じゃない。すぐわかった。割れたガラスに顔を映す。金髪の色が薄い。瞳の色も青ではなく水色だ。ゆうには無かったそばかすがある。
(『私』だ……『ベルベッチカ』だ……)
ゆうくん。血まみれで誰もいない庁舎の中を、ベルベッチカは娘の名前を呼び、走り回った。
けれど、愛しい愛しいわが子が、返事をすることはなかった。
……
おじいちゃんの家に帰るなり、沙羅が叫ぶ。
「えっ、ベルベッチカちゃん? ゆうちゃんは? ゆうちゃんはどこへ行ったの?」
すまない。ベルベッチカは、心からの詫びを口にしてうつむく。
「願いを叶えてしまった。私を取り戻すという。……ゆうと言う男の子は……もうこの世のどこにも居なくなってしまった」