彼女はぴたりと、沙羅をおんぶしたまま立ち止まった。
「マスクのこと?」
「……うん」
触れちゃいけないことのような気がして。でも、知りたくて。
「見たい?」
水色のきれいな目が、くるりと振り返る。
「ゆうくんになら、見せてもいいかな。私の、マスクの下」
だれもいないお屋敷の庭の、湿った落ち葉のじゅうたんの上で。沙羅をおんぶした逸瑠辺さんはゆうにそうとだけ言うと、背を向けた。
「待って、なんで僕にだけ……」
でも逸瑠辺さんは後ろを向いたまま、答えてはくれない。
「ねえ、なんで」
信じられないことにマスクのその子は、沙羅をおんぶしたまま鎖で繋がれた、二メートルはある高さの門を、ぴょんと飛び越えた。あっ。声を上げた時には、もういない。
追いかけようと一歩踏み出すと。何かをふんだ。きらきらしてて、見たことがある。大祇村のマークのバッジだ。たしか……社会の時間に習ったけれど、議員のえらい人がつけてるんじゃなかったっけ。
身近な議員の人といえば……航だ。お父さんが市議会議員だった……はず……ポスターで見たことある。茶化して遊んだから、間違いない。けれどなぜそれがここにあるのか。さっきの百円玉も、このバッヂも。なにもかもがちぐはぐで、違和感だけがふくれあがる。
がさっ……がさがさっ……
また、お屋敷の庭の奥から音がする。まだ何かを隠しているかのように。
びくんと、ゆうは身体を強ばらせた。
何かに見られてるような、そんないやな気配がべったりとまとわりついてはなれない。
がさっ……
音が近づいてくる。気味が悪くなったゆうは、制服のハーフパンツのポケットに議員バッジをしまって、駆け足で山道を神社の方へ逃げ帰った。
……
翌日、令和六年六月五日、水曜日。
「あれ、休み?」
「わかんねえし。おれ、しらねえもん」
航が学校をやすんだ。昨日のことで肝を冷やした翔も顔色が悪い。
「はいはーい。おしゃべりはおしまい。移動しますよー」
一時間目は理科だ。あゆみ先生が、残りの九人に教室移動を呼びかけた。逸瑠辺さんは、校庭を見たままそっぽを向いている。
「……いこ?」
沙羅が声をかけた。けれども彼女は気にもかけない。「行こうよ」ゆうの言葉に、ようやく顔を向けた。
「うん、行こっか」
「……なによ、それ」
無視された沙羅はぼそっと言葉を吐くと、つんとして廊下に出て行った。
二階の渡り廊下。午前中の眩しい光がきらきらと窓から差し込む。前を行く七人はがやがや喋っていて、古くて広い廊下によく響く。後ろを歩く二人──ゆうと不思議な転校生──は、ひそひそと話した。
「ねえ、なんで仲良くしないの?」
「むだだから」
「むだって……友達じゃんか」
「ううん」
「え?」
聞き返すゆうに、彼女はぐいと腰をかがめて覗きこむ。
「友達なのは私達だけ」
ふふ……二人だけの秘密だよ。水色の目は優しくそう笑うと、先を歩いていった。
一時間目、気だるい水曜日の午前中が始まった。
「なあ、なんであいつ、いつもマスクなんだろな」
「なんでって……そういえば、なんでだろ」
「な、なぞだべ?」
翔が理科室の窓際に座る転校生を見ながら不思議そうにひそひそ聞いてきた。翔も昨日のことからは、だいぶ落ち着いてきたみたいだ。当の本人は、授業に興味が無いのか相変わらず校庭を見ている。
何を見てるんだろうと気になった。
……もしかしたら何も見てないのかもしれない。なぜだか、そう思った。
……
それから、何日も、ゆうは逸瑠辺さんを観察した。授業中はもちろん、体育の時間もマスクをしている。プールは見学、やっぱりマスクをしている。
そして給食の時間でも。
「いっただっきまーす!」
翔がバカみたいに大きな声でそういうと、カレーを夢中で口に運んだ。ゆうも好きだし、みんなで席をくっつけて食べるのはかくべつなのだ。
沙羅が、後ろの席の逸瑠辺さんに言った。
「くっつけなさいよ」
「いいよ、私は」
「給食の時間はくっつけるの!」
はあ、とため息をつくと、ぐいっと席をくっつけた。みんなも大好きなカレーだ、お腹も減ってるはず……けれど、マスクのその女の子は一口も食べないし、外すこともない。カレーを前に、じいっと静止したまま、スプーンすらにぎらない。おなかが減らないのか、不思議に思った。
「うん」
「……食べたくないの?」
「食べられないんだ」
「……じゃあ何なら食べれる?」
すると少食な少女は、ちゅうするみたいに顔を近づけてほっぺたをさわって、おでこの匂いをかいだ。
「……きみ。大好き。とってもあまいから」
ゆうは耳まで真っ赤になった。
忘れ物クイーンのメガネのみかと、クラスでいちばんおしゃれな三つ編みの結花が、目と目を合わせて恥ずかしそうに、きゃーとさけんだ。
令和六年六月二十一日、金曜日。一時間目、社会の授業。
おおかみに遭ってから二週間以上が経った。あれからずっと、航は学校を休んでいるけど、あゆみ先生に聞いても言葉を濁すだけ。航なんて子は初めからいなかったかのように。
「ひと月後は何がありますかー?」
「大祇祭ー!」
「そうですね。みなさんは初めてですねえ」
逸瑠辺さん以外、みんながおおきな声で答える。あゆみ先生はにっこり笑った。翔が目をきらきらさせて聞く。
「ごちそうが食べれるってほんと?」
「ふふ……ほんとです、みなさんがこの村の一員として認められる、だいじなだいじなお祭りです」
航のことで小首を傾げていたゆうも、これには顔色を変えてわくわくした。なんたって、十二年に一度っきり。生まれて初めてのイベントにごちそうだ、期待しない方が無理に決まってる。
と、その時、がたんと唐突な音を響かせて、不機嫌な転校生はおもむろに席を立ってしまった。
「ですから、今日はその大祇祭の歴史を勉強しましょう」
はい、うしろに回してね。プリントを配るあゆみ先生は、教室を去るその生徒のことが見えてないかのように授業を続けた。
……
放課後。
「あいつんち、行くべ」
翔が控えめの声で切り出した。
「さんせー!」
蒼太が手を挙げた。友達思いの沙羅が口を開く。
「あたしも行く!」
ゆうも、僕も、とうなずいた。
そんなゆうの足を止めるかのように、窓際の逸瑠辺さんが、ゆうの袖を引いた。
「いっしょに、帰ろう」
「え? ……でも航が……」
「おいでよ」
小さい子がひっぱるかのように不器用に手をぐいと掴むと、そのまま廊下までゆうをさらった。
「おい、ゆう!」
「ゆうちゃん!」
翔や沙羅が呼んでいるのを背中で聞いた。
「逸瑠辺さん? 逸瑠辺さんったら」
「なんだい?」
「どこ行くの?」
「私んち、だよ」
予想外の返事に、鼓動が早くなる。ロシアからきた、女の子……あの「お屋敷」に住んでいるという、不思議な子。お父さんとお母さんはどんなひとなのかな、とゆうは想像しては頬を赤らめた。
……
クルマも滅多に通らない、田んぼに囲まれた見慣れたふつうの道。校門前の丁字路を右に曲がった。……「お屋敷」の方向だ。げろっげろっ、カエルが可愛く鳴いている。そんな道を逸瑠辺さんが歩いていて、少し後ろをどきどきしながらゆうがつれ立つ。女の子なのに、黒のランドセル。おんなじだ、と思った。かっこいい、と思った。学校の制服もよく似合う。グレーのジャンバースカートから伸びる白いあしを見て、もっとどきどきした。腰まである髪が、ランドセルで別れて左右にゆるく広がって、風が吹くとふわり、といい匂いがした。
『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』
二週間前の逸瑠辺さんの言葉がよみがえる。彼女こそいい匂いだと思った。
ふたりは急坂道を上って森に入ってまだまだ歩いた。左側は山に続く斜面。右側は谷底まで崖になっていて、谷底からする渓流の音が心地よい。
神社を過ぎた。
(あれえ、いつもの道とちがうのかな)
「神社を抜けるのは遠回りだよ」
(……え。考えがわかるの……?)
「うん。読める」
黒いランドセルの不思議な転校生は、金髪をふわりとたなびかせた。話しかけづらいと思っていたけど、ちがう。ゆうは、すっと背筋を伸ばして歩く後ろ姿がきれいで、ずっと見とれてしまっているのだった。
神社を過ぎて二十分以上、上り坂を歩いただろうか。学校を出てゆうに三十分以上は過ぎている。こんなとこまで大祇小学校の学区なのかなと、不思議に思っていると、山の頂上、峠付近で道が左に大きく曲がっている。そこを曲がると……右手の谷側に向かって伸びる小道の先に、大きな建物が姿を現す。「お屋敷」だ。昨日見た通りに埃とツタまみれで、人の気配はない。門も鎖で施錠されたまま。ゆうは門をがちゃがちゃとゆすった。
「よじ登ろっか?」
「よじ登る? ふふ。はずれ」
そう言うと、逸瑠辺さんはひょいっとゆうをすくい上げてお姫様抱っこした。
「ちょっと、僕は女の子じゃない!」
「はは。そうだね、そうだったね」
次のしゅんかん。ゆうは宙に浮いていた。彼女はゆうを抱いたまま、そのまま二階までジャンプした。
「ええ……っ?」
目をつぶるひますらなかったが、確かに今、門の前からバルコニーまで飛んだのだ。そして、子猫でも置くかのように、ゆうを優しくそこに立たせた。
今起きたことを呑み込めず戸惑っていると、おもむろに逸瑠辺さんがバルコニーに面したほこりまみれガラス窓を開けた。中の部屋は同じようにほこりとカビの臭いでいっぱいだった。天井のすみにも、吊り下げられたランプにも、クモの巣がドレスみたいに垂れ下がっている。見たことの無い草模様の壁紙は、所々めくれて壁材が見えてしまっている。何も無い、二十畳くらいの部屋だ。
……いや、ちがう。かんおけだ……細長くて六角形の。よく映画で見る、ふたをずらした真っ黒いかんおけが、部屋の真ん中で沈黙を守っている。そしてその子は窓に手をかけたまま、ゆうの方を見てマスクの下で笑った。
「着いたよ。上がって」
ほこりまみれでかんおけまで置いてある部屋の窓を開いた逸瑠辺さんは、ゆうの方を見て笑った。
「え……ここが」
「うん。ほら、おいでよ」
とん、と軽やかに、彼女は自分の部屋に入って手を伸ばした。部屋の中は奥に行くほどひどくかび臭いし、床は腐っているのか歩くとたわんだ。そして……部屋の中には、かんおけ以外何も無かった。
いや、眼を転じると一つだけ何がある。とんとん、足音を響かせながら部屋の主の女の子はくつのまま上がって、かんおけの上に置いてあったそれを取ってゆうに見せた。ぼろぼろの、赤い服を着た女の子のぬいぐるみは、ボタンで出来た左目が取れている。
「ヨウコソ ベルベッチカノ オウチヘ……ふふ。可愛いでしょ。宝物なんだ……どうかした?」
「その……お母さんとお父さんは?」
「ずっとずっと昔に死んじゃったよ。きみが、生まれるずっと前。今はいない」
逸瑠辺さんはそう言うと、ぬいぐるみを元あったかんおけの上に置いた。
ゆうは、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「ここで寝てるの? この中で?」
「寝ないんだ、私。これは私を納めるただの箱」
「ごはんとかは?」
「食べない。ニンゲンとはちがうんだ」
「……え?」
「違ったね、『まだ』ニンゲンだったね」
ゆうは、言われてる事が理解できない。ニンゲンじゃないというその子は、部屋のいちばん奥、ドアの前で体育座りで扉にもたれた。真っ白のぱんつが見えてしまっているけれど、気にもしていない。部屋の中はとても暗くてきれいな瞳は水色に光っている。
「きみはみんなとは違うよ。私と同じ」
「……なにが、同じなの……?」
「新月を選んだ方。まだ『始祖の力』が完全には目覚めてないだけ」
ぽつ、ぽつとバルコニーに雨がぱらつく音がし始めた。ゆうの中の不安と共に、雨音も大きくなっていく。
「みんなはもうすぐ満月を選ぶ。そしたら私、きみとは会えなくなるからね」
ゆうは今度こそ訳がわからなくなり、がまんできなくなった。
「逸瑠辺さん! さっきから新月とか満月とか、会えなくなるとか! 言ってることが全然……」
すると、とん、三メートル離れたゆうのところまで、座った状態からいっしゅんで飛んだ。そして、マスクのままゆうの耳元でささやいた。
「マスクの下、見たい?」
「え」
「見たいでしょ。わかるんだ、私」
「う、うん……」
「七月六日の土曜日。新月の晩。きみの家にむかえに行くから。その時に、見せてあげる……待っててね。きみは私にのこされた、たったひとりの同胞なのだから」
そう耳打ちすると、二歩下がった。
……
ゆうは、部屋を出た。雨は本降りになっている。とりあえず一階まで降りなくてはならない。バルコニーのツタにしがみついた。四時すぎだ。雨のせいか空は重たく薄暗くて、部屋の中は外から見ると真っ暗だ。不思議なその子はゆうの見えるところまで出て来てくれた。そして、青白い二つの光は、じいっと。ツタにつかまり下りるゆうを見ているのだった。
……