『オリジンの追撃がくるぞっ! 立て、立つんだ愛しいきみ! 立って!』
「がっ……は……ごほっ」
夕暮れの遅い時間。真っ暗なスギ林の中で、ゆうは倒れている。
ささくれ立ったスギの木に、上半身裸で打ち付けられたのだ。一センチくらいの太さの枝が三本、弓矢で射られたかのように、胴体を貫通している。
「ごほっ、ごほっ」
それを認識するや否や、激痛がゆうの未発達な脳を焼き尽くした。
「うあああああっ……」
『大丈夫だ、二本は急所を外している。一本は……うん、なんとかしばらくはまだ生存出来そうだ。新月の力が目覚めている。痛みを意識から外すんだ』
十一年間ただの子供として生きてきたゆうには、とても出来そうにない。
「はあっ、はあっ……うああっ……」
『刺さったままでいい、立って、歩くんだ。二十秒以内にオリジンが来るぞ』
ゆうは到底出来る訳のない指示を受けて、気が遠くなりそうになる。
「いっ……いいいっ……たたた……」
悲鳴にならない声で痛みを必死で耐えながら、立ち上がる。
「う、うえぇぇえっ」
しかし、立ち上がった瞬間、せり上ってきた血を吐いた。
『来るぞ、急いで』
「……エレオノーラ……」
「はあっ、はあっ!」
こんなに強いなんて。様はない、と心の中で悪態をつきながら、なんとか急斜面をよじ登る。
『言っただろ。オリジンには絶対勝てないって』
(痛い痛い痛い痛い……)
むせながら、血を吐きながら、なんとか道路まで出た。アスファルトにはいつくばっていると、ベルが急かす。
『三十メートル後ろにいる。いそげ、大祇神社まで走れ!』
「ぜえっ……ぜえっ……ごほっごほっ!」
ベルが無茶を言う。立ち上がるのですら困難を極めるというのに。
ずるっ、ずるっ……裸足でスギ林を歩いたから、切り傷だらけだ。でも、そんなの気にならないくらい、激痛が嵐のように身体の中をむさぼる。
上半身が裸で木の枝の刺さった女の子を見たら、みんなどう思うのかな。そんなどうでもいい考えが頭をよぎる。というか、そんなことでも考えてないと痛みでどうにかなりそうだ。
『二十メートル。急げ、きみ』
「……エレオノーラ……」
(さっきは流暢にしゃべってたのに、なんで離れるとエレオノーラしか言わないんだよ)
『あれはね、本当はなにも声を発してないんだ。オリジンの私たちを捕捉する気配が、私たちにはそう聞こえているだけなんだ。君が見たのもね、あゆみ先生とは限らない。見た記憶を改ざんされている可能性がある。本当はこどもかもしれないし、おじいさんかもしれない』
もはや人知すら超えた敵の万能さに、痛い以上に言葉が出ない。
『可能なんだよ、オリジンなら……って、おい、大丈夫かっ』
ゆうはばったりと倒れた。角田屋を過ぎた、田んぼの真ん中だ。
『きみ、愛しいきみ、オリジンが接近している。がんばれ』
(もう……一歩も……動けない……)
ちりんちりん。
「そこの子、どうした……ゆうかっ? どうした? ゆうっ」
ああ……ゆうは心の底から安堵した。だって、学校の先生が来てくれたから。だって、その先生は、お父さんだったから。
いつの間にかオリジンの気配は消えていた。
ゆうの意識も、泥の中に沈んでいった。
「しずか……」
ゆうを背負ったお父さんが、そう言ったように聞こえた。
沙羅の泣きそうな声だ。
「おじいちゃん、助かるのっ」
「わからん。始祖と交戦したようだ」
「角田屋のところで倒れているのを保護したんです」
沙羅のおじいちゃんとお父さんが話している声がする。ゆうはもう満身創痍で動けない。
『愛しいきみ。身体を借りるよ。話した内容は後で教えてあげる』
大好きなベルの声が聞こえたあと……ぷつり、意識が途絶えた。
「ベルベッチカだよ。身体を借りている」
ゆうの目がぱちりと開いて、三人に名乗った。
綺麗に整えられた和室。心地よいお香の香り。どうやら、沙羅のおじいちゃんの部屋のようだ。
「ベルベッチカちゃん! ゆうちゃんは助かるのっ?」
「私が表に出られる位には弱っている。刺さった枝の二本は内臓を傷つけていないが、一本が肺を貫通している。ヒトなら、助からない」
そんな、と沙羅が悲鳴を上げて口を押える。
「待て。ヒトなら、と言ったぞ」
おじいちゃんが制する。
「そうだ。ゆうくんには新月の始祖の力がある。再生能力もただの新月とは違う。今から『再生』させるので、一、二分待って欲しい」
そう言うと、ふっ、と息を吸い込んで、顔をしかめる。苦しそうな顔をした後、しゅうしゅうと、傷口から白い煙があがり始めた。
「んっ……」
ばきん、と刺さった枝が折れた。そしてみるみる傷口が塞がっていく。
沙羅が見入る。九十秒程で傷は塞がった。
「ふう、なんとか治めたよ」
よかったあ……幼なじみの少女は吐息を漏らした。
「お父さん、ゆうくんにあとで栄養のあるモノをたくさん食べさせてあげておくれ。傷は治ったけれど、体力が最低限にまで落ちている」
「あ、ああ、わかった。……それより、体の中に残った枝はどうした?」
「問題ないよ。『消化』している」
ベルベッチカは、にこりと笑った。
「さて……ゆうくんと見たオリジンについて、話そうか」
……
私が見たのは、蒼太くんだったおおかみを誘い出して、新月の虜にして、拳銃でトドメをさそうとしたその時だった。
オリジンの声がした。が、銀の弾丸を持っておらず戦力差も歴然。よって私はゆうくんに逃げるように説得したが、ゆうくんはオリジンの実体を見極めると言って聞かなかった。そして、現れたオリジンは……あゆみ先生だった。
「ええっ? 先生が始祖?」
そうだ。ゆうは新月の目で見ていた。ヒトの目よりはるかにまやかしに強いが、新月の目すらあざむかれていなければ、あゆみ先生その人だった。
「満月の始祖が新月の目をあざむいてあゆみ先生の姿を取っていた可能性はあるか?」
おじいさん。そうだ、その可能性はある。むしろ私は、当初よりそうではないかと思っている。大陸から私を追いかけ続けてきたオリジンは、最後まで新月の目でも実体が見定められなかったからね。ここでゆうくんだけが見破れた、と考えるのは都合が良すぎる気がする。
……ところでお父さん。私は気を失う直前に、あなたがつぶやいたことについて知りたいな。
「ああ、あれは……気のせいだ。気にしなくていい」
そうか。……あなたがそれについて話したくなったら、みなに話しておくれ。
「俺の考えが、読めるのか?」
ふふ。私も一応、新月のモノの始祖だからね。
残念ながら、拳銃はゆうくんが死線をさまよっている間に紛失してしまった。
「それについては……こちらでなんとかしてみよう」
おじいさん。大丈夫かい? あまり、無理はしないでおくれ。
……おっと、ゆうくんが目が覚める。意識をゆうくんに返さなくては。
なお、記憶は私が直接伝える。あなた方が説明する必要はない。……それでは、失礼。
「ゆうくん。愛しいきみ」
秋の夕暮れ空の下。あのお屋敷のかんおけの前。照明のつかない部屋は暗い。そんな暗くてかび臭い部屋で、ゆうはベルと窓に背を向けてひざを抱いて座っている。ぼろぼろの赤い服のぬいぐるみを、その手に持って。
「どうして、私の忠告を無視して逃げようとしなかったんだい? 痩せても枯れても私は新月のモノをきみより長くやってきた。……何年だと思う?」
ゆうはぬいぐるみをむにむにといじって、答えない。
「何年、生きてきたと思う?」
百年くらい? 旋毛を曲げていた。何年だってよかった。
「七百八年と十ヶ月だよ」
「……すごく、長生きだったんだね」
「その大半が、逃げ回る人生だった。ヒトの迫害から逃げる人生。おおかみから逃げる人生。十六年前からは、満月のオリジンからにげる人生。直近十一年は、封印されていたけどね」
ぎゅっ。ぬいぐるみをにぎる。いたいよう。そう言っているように見えた。
「……なにが、言いたいの?」
「愛しいきみ。きみより、恐怖をよく知っている」
「僕だって、僕だって二回オリジンと遭遇して、二回生きて帰ってる。今回、オリジンの正体も見破った。……いいじゃないか」
「一度目は仏壇に頭を突っ込んで失神。二度目は木の枝で剣山にされてお父さんに助けられた。運が良かっただけだ」
ゆうは背を向けたまま立ち上がって、怒鳴った。
「だからなんだってんだよ! 僕は男の子だ! 女の子のベルとは違う! 男の子は勇敢に戦って、好きな女の子を守って死ぬんだ!」
「きみは女の子だ」
そう言われる度、ゆうの中で何かが爆発しそうになる。
「違う、違う! 僕は、男だ! 男は命だって惜しくないんだ!」
「女の子だ」
ゆうはベルの方を向いて、涙をまきちらして喚いた。
「ベルまで、ベルまでなんだよ! 僕は男だって、信じてくれないの!」
「女の子なんだよ。小学五年生の」
「好きで生まれたんじゃない! 好きで女になったんじゃない! ベルがそう産んだんじゃないかっ! 全部ベルのせいだっ!」
言って、しまった。自分の産みの親に対して。いちばんぶつけてはいけない怒りを。
「……そうだね。私が産んだ。愛しい愛しいきみを、確かに産んだ。石炭を積んだ貨車の上で」
「どうして僕を男に産んでくれなかったの? どうして僕は女の子なのっ」
「……そうだね。妊娠期間中にストレスを感じすぎたのかもしれないし、私の身体の小ささからくる未発達のせいかもしれない。私のせいだね。愛しいきみ。本当にごめんよ」
そう言って、ゆうを優しく抱いて美しい金髪を撫でた。
「そして、問題なのは体の事だよ、愛しいきみ。新月のモノにもヒトと同じく性差はある。……私よりアレクの方が肉体の力は強かった」
「そんなの、勇気と努力で埋められるっ!」
「そのアレクも、再生能力が追いつかなくなるほどの身体に大穴を空け、オリジンの爪牙に掛かった」
「そう……だったの」
ゆうの怒りは少し治まり、下を向く。
「アレクの肉体の力だけ見れば、始祖の私より確実に上だった。それでも死んでしまう。……私だって愛しい愛しいきみに、寄り添いたい。……だが現実は違う。生きるか、死ぬかだ」
「そんなの……」
「もう一度言うけれど、きみが死んだら、身体を共有している私も、オリジンに連れ去られたきみのお母さんと赤ちゃんも助けられないぞ。私の忠告を、どうか聞いて欲しい。……愛しいきみより、少しだけ事情に通じている」
「……僕は……僕は……」
ベルの腕の中で、泣いた。大粒の涙をこぼしながら。
「守りたかったんだ。ベルのことも、お母さんのことも。……クラスの、みんなのことも……守りたかったんだ……」
ベルは、言葉をうまく出せない。目から悔しさと歯がゆさをこぼす、「息子」を前にして。
うわああん、うわああん。ゆうは、止めることなく泣き続けた。