茜は青い顔をして、つぶやくようにそう言った。
「へ、見たって……美玲の家から? え? ……どゆこと?」
んもう!
と隣の女の子はじれったそうにいらいらとする。
「いい? 美玲が昨日から来なくなったんだよ? その前の一昨日に、美玲の家から出てきた人がいた。それが、あのベルベッチカだったってわけ!」
と、いうことは。ようやく翔にも話が見えてきた。
「わかった、美玲になんかあったってわけだ」
彼女がいうには、こうだ。
……
その日は美玲に会いに行く約束をしていた。「チェーンソー・ヤイバ」の第二部をずっと借りっぱなしで、ゆうが読むからそろそろ返して、と美玲から学校で言われていたそうだ。それすらも忘れていて夕方遅くにやっと思い出したそうだ。それで、山道を歩いて美玲の家に向かったらしい。
返し忘れてたのも、それを返しに行くことも忘れてたのも、茜らしいなあと翔はほっこりしながら聞いていた。けれども彼女の顔色は、どんどん悪くなるだけだった。
「もうあたりは暗くて、着いた時は真っ暗だった。で美玲んちも、真っ暗だったんだよ。晩ごはん時なのに、さ。美玲のお父さんもお母さんも自宅で働いてる人だから夜も居るはずだし、平日だったから夜出かけるのも変だなあって思ったんだ。それで、電柱の影から様子を見てたんだ。そしたらなんかさ……」
少女の目に涙が浮かぶ。
「血……みたいな嫌な臭いがしてさ。……アタシなんでか、最近すごく鼻がいいんだよね。だからすぐ血の臭いだってわかった」
あれ……
と翔も思い当たるフシがあった。最近、鼻がよく利くのだ。かあちゃんが作る料理は家に入る前からわかっちゃったし、クラスメイトが校庭で転ぶと、やけに血の臭いが鼻についた。
「怖かったけど、なんとか逃げないで、美玲んちを見てたんだ。そしたら……出てきたんだ。がちゃりってドアを開けて」
「ベルベッチカが……?」
うん、とうなづくその子の顔色はほんとに悪い。にぶい翔でもわかるくらい。
「だれかと電話してるみたいに、ぶつぶつ、話しながら」
「なんて言ってた?」
「覚えてないよ……えと、確か……『なるべく苦しませたくなかったんだ』とか『おおかみになった』とか……そんなこと言ってた」
……
角田屋の前に着いた。
「ばあちゃん、ソーダ二本! ……ほら、おごってやるからさ。食えよ」
ぺりぺりと、セロハンをはがした。翔の、精一杯の友達を気遣う気持ちの表明だった。
「大丈夫だよ、茜」
そう声をかけると、茜はアイスを受け取った。
「おれ、茜の味方だからさ。怖くなったらまたアイス、おごってやるからさ……だから……泣くなよ……」
彼女は、泣いていることに気がついていなかった。
「しょーちゃん……しょーちゃん……! アタシ……アタシ……」
えええん……翔にすがりついてアイスを持ちながら、茜は大粒の涙をこぼした。溶けたアイスが翔のTシャツに付いた。でもどうしてか、そんなこと気にならなかった。
翔は、泣いてる女の子の肩を寄せる。とても暖かで、柔らかくて。いい、匂いがした。
夜、臭いがした。翔はすぐにわかった。……血の臭いだ。
かあちゃんがおさしみを切っている。今日はブリが安かったのよ。そんな事をいいながら。でも、おさしみの臭い……魚の血の臭いじゃない。おおかみの、血の臭いだ。
この家じゃない。もっと遠くで、する。
「どこいくのさ、もうお刺身切っちゃったよ」
「茜んとこ。ごめん、すぐ戻っから」
どうしてその名前が出たのか、わからない。でも、そうであって欲しくなかった。だから確認しに行くだけ。違うって、言って欲しかった。大丈夫だよって、言って欲しかった。
翔が生まれて初めて大好きになった、茜という女の子に。
からから、と玄関の引き戸を閉める。血の臭いは、二又に別れた道の……上に登っていく方から。……その子の家の方からした。
気がついたら走っていた。徒歩だと十分はかかる。だから、走った。素晴らしい速度が出た。ふたつの脚だけで走るのは非効率だ。手も使おう。鼻をもっと良くしなくては。鼻が伸びた。彼女が誰かに襲われてたら、助けなきゃ。牙がバキバキと伸びた。
そうして彼女の家に着いた。夜だったけど、昼間みたいに明るく見えた。だから、家の中までよく見えた。だから、玄関の土間で倒れていて。
金髪のあのベルベッチカが、大好きな大好きな茜の腸を引きずり出して食べているのが。
よく、見えた。
「てめえっ!」
翔はベルベッチカに襲いかかった。けれど、ベルベッチカは後ろにも目があるみたいに、即座に「食事」を止めて飛びのいた。目が赤く光っている。
翔は大好きなその子のそばにかけよった。茜は、口から血を流して、喉元を食いちぎられて、お腹から腸を出して。
……もう、冷たくなっていた。
「うわああああっ!」
翔の中の怒りに火がついた。
ぐおおおおお──っ!
まるでおおかみみたいな地を揺るがす叫び声をあげた。
(許せない。許せない、ベルベッチカ! おれの初恋のひとを……返せっ!)
ベルベッチカとの戦いの火蓋が切って落とされた。ベルベッチカは右手の爪を立てて、瞬間的に近づいて首をかき切った。翔は避けようとするも、身体が大きくて、うまく避けれない。
ざんっ……致命傷こそ避けたものの、首に深手を負った。
ぐおおおおっ!
それでも、攻撃はやめない。がぶり、と肩にかみついた。そして振り回して放り投げた。ベルベッチカは頭を打った。チャンスだと思った。このまま、心臓をひとかみしてやる。
ベルベッチカの動きが止まった。
(今だ! 茜のカタキ! 思い知れ!)
翔は、口を大きく広げていた。ベルベッチカの心臓をえぐりとるつもりで。だから、新月の目はそれを見逃さなかった。すかさず出したコルトSAAを口の中につっこんで、そして間髪入れずトリガーを引いた。
だーん!
銀メッキがされた弾丸は、喉を貫き、翔の小脳と脳幹を引き裂いた。
……
翔は……倒れた。おおかみの身体を手放して、もとの十一歳の小河内翔の姿で。
ゆうの放った弾丸は、翔の脳幹を貫いた。即死だった。そのはずだ。
……なのに今、どうして茜の手を、握っているんだろう……
ゆうは涙が、涙が止まらない。
『きみ、二体立て続けでも、冷静さを欠かなかった。よくやったね、愛しいきみ』
今日ばかりは、ゆうにベルの声は届かなかった。
ゆうは二人を抱いて、何時間も泣いた。
おかげで二人を食べ切るころには、日付を跨いでいた。
こうさか亭の看板娘、三つ編みの香坂結花は、相原くんが大好きだ。幼稚園から相原くんに接してるこどもはみな、暗黙の了解で相原くんを男の子として扱っている。体は女の子でも、心は男の子。そういう変わった子なのは、知っているし理解している。
けれど、結花は女の子でもいいと考えている。ううん、むしろ、女の子の方がいい。大人しい航はともかく、翔や蒼太はいかにもな男の子で、乱暴で声が大きくてガサツで、大っ嫌いだった。
結花は女の子だと知っているけれど、「相原くん」という呼び方にこだわった。自分が女の子が好きだと、分からせないためだ。
結花は、女の子しか好きになれない女の子だった。
……
村の中で恐らくいちばん裕福な家に住む結花は、一年生の頃にお父さんの仕事の組合への出席で、関西の神戸まで行った。そこで帰りに宝塚歌劇団を見せてもらった。その出会いが、人生を変えた。煌びやかな男役を見て彼らが女の人だと知って、とてつもない衝撃を受けた。
(女の子でも、かっこよくなれるんだ。相原くんみたいな、心が男の子の女の子がいていいんだ)
結花の中で、相原くんへの恋慕に、火がついた。
二年生の時、お母さんが病気で死んじゃったけど、寂しさは相原くんへの恋心で補えた。
三年生になってデジカメを買ってもらった。カメラオタクが持ってるみたいな凄いやつじゃない。わざと小さなカメラを買ってもらった。性能とか、よくわからないしどうでもいい。こっそり愛しの相原くんが写れば、後のことはどうだって良かった。
プリンターなんて要らない。印刷して壁にぺたぺたなんて、美玲じゃあるまいし。それに万が一相原くんが部屋に来るようなことがあれば、一巻の終わりだ。結花のデジカメは、撮った写真を直接タブレットに移せるのだ。お父さんのお下がりのタブレット。授業中に、体育の時間に、下校中に。プールの時間は……さすがに無理だったけれど。数千枚の相原くんの写真が保存してある。
それを見て、何度も画面にキスをした。ヨダレでべたべたになるまで舐めまわした。
ある時、下腹部が熱くなった。写真を見ながら指でいじったら、いい気持ちで頭がふわっとした。呼んでみた。「相原くん、相原くん」まるで相原くんがいじってくれてるみたいで。体に電撃が走って、気を失った。
相原くんの、長いブロンドヘアが、大好きだ。相原くんの、青い瞳が、大好きだ。相原くんの、低めの声が、大好きだ。相原くんの、不機嫌な顔が、大好きだ。相原くんが、大好きだ。
(大好き相原くん。大好き相原くん。大好き……)
からんからん、ドアのベルの音が鳴ってこうさか亭のドアが開いた。
「ごめんなさいお客さん、まだ準備中で……」
メイド服で出ていくと、愛しい愛しい相原くんが立っていた。