小河内翔は最近ずっと、調子が狂いっぱなしだ。一週間とちょっと前、いちばんの友達のゆうが保健室に運ばれたっきり、学校に来なくなってしまった。おまけに沙羅まで来ない。
あの二人、実は付き合ってて、かけおちしたんじゃないかっていうへんなウワサまで立ち始めた。
翔はウワサ話は嫌いじゃない。ゆうがなにかウワサになってたら、いじったりして楽しいし。
さすがに金髪のことは──本気でキレるので──いじる気にはならないけれど……ここ一週間来ない件に関して立つウワサは、がまんできなかった。昼休み、給食の後。
「おい、やめろや、そんなウワサ!」
ウワサしてたのはみかと結花だ。聞いてるフリして、離れていった。どうせまたどこかでウワサするに違いない。
(まったく、女子ってやつはほんといけ好かねえんだもんな。でも、ゆう、どこ行っちまったんだよ……)
……
あの日。ゆうが保健室に運ばれた、あの日だ。夜、ものすごい叫び声……みたいなのが聞こえたと思ったらたくさんのガラスが、がしゃんと割れる音がした。
「え、なに、爆発?」
翔はご飯中に席を立ったが、かあちゃんととうちゃんには聞こえてないみたいで、ぽかんとするだけ。
翌日、美玲と登校途中にゆうの家に見に行ったらガラスが全部割れていた。ゆうも、ゆうのとうちゃんもかあちゃんも居ないみたいだった。
「何が起きたか、わかるか?」
美玲にそう聞いたけど、ううん、と答えるだけ。彼女も顔色が悪かった。
そして、昨日から。美玲まで来なくなった。
でも、あゆみ先生は「あら、またおやすみ?」とつぶやくだけで、気にも留めない。クラスの皆も九人中三人……つまり三分の一もいなくなったのに、呑気にウワサ話なんかで笑ってる。
なんだよ、なんなんだよ。翔はいらいらした気持ちでいっぱいだった。
……
その日の放課後。
「しょーちゃんさ。一緒にさ、帰ら……ない?」
渡辺茜だ。茜は……昔から翔のライバルだった。かけっこは、女の子のくせして翔と同じくらい速いし、身長も同じくらい。テストの点も──最下位という意味で──同じくらい。女の子のくせに胸もないし短髪だから男にしか見えない。そんな彼女が一緒に帰ろうと言う。
確かに茜も上町だ。翔の家を過ぎて沙羅の家じゃない方の道を登っていくと、茜の家がある。とうちゃんと同じ、林業をやってるじいちゃんと一緒に住んでいるはずだ。だけど先述のライバル感情があって、今まで一緒に帰ったことはほとんど無い。
「あ、ああ。いいけどよ? べつに……」
ほんのり色付いた田んぼの道を歩く。二人の間は一メートル離れている。下を向いて歩いた。別に翔はそれで構わなかった。こいつと仲良くしたって、いいことなんてない。すぐ喧嘩になるからだ。
でも、今日はとなりの女の子もずっとうつむいてる。なんだろう……ちょっと、気になった。ちらり……向こうも、ちらり。目が合った。
ぼんっ。
(あれ、なんで俺、赤くなってるんだろ)
でも、赤くなってるのはその子もだった。下を向いてなんだかむずむずしている。
あのさ。呼びかけが被った翔は、また下を向いた。でも彼女は翔を見ていた。そして、顔を赤くしながら言った。
「ベルベッチカって子。覚えてる?」
予想すらしていなかった名前に、声がひっくり返る。完全に忘れていた。
「普通忘れないでしょ、あんな目立つ子」
また小言が始まると思って耳をふさごうと思っていると……茜は、怒ってはいないようだ。むしろ顔色は悪くて、そしてこう言った。
「アタシさ……見たんだよね。一昨日。美玲の家から出ていく、ベルベッチカのこと」
茜は青い顔をして、つぶやくようにそう言った。
「へ、見たって……美玲の家から? え? ……どゆこと?」
んもう!
と隣の女の子はじれったそうにいらいらとする。
「いい? 美玲が昨日から来なくなったんだよ? その前の一昨日に、美玲の家から出てきた人がいた。それが、あのベルベッチカだったってわけ!」
と、いうことは。ようやく翔にも話が見えてきた。
「わかった、美玲になんかあったってわけだ」
彼女がいうには、こうだ。
……
その日は美玲に会いに行く約束をしていた。「チェーンソー・ヤイバ」の第二部をずっと借りっぱなしで、ゆうが読むからそろそろ返して、と美玲から学校で言われていたそうだ。それすらも忘れていて夕方遅くにやっと思い出したそうだ。それで、山道を歩いて美玲の家に向かったらしい。
返し忘れてたのも、それを返しに行くことも忘れてたのも、茜らしいなあと翔はほっこりしながら聞いていた。けれども彼女の顔色は、どんどん悪くなるだけだった。
「もうあたりは暗くて、着いた時は真っ暗だった。で美玲んちも、真っ暗だったんだよ。晩ごはん時なのに、さ。美玲のお父さんもお母さんも自宅で働いてる人だから夜も居るはずだし、平日だったから夜出かけるのも変だなあって思ったんだ。それで、電柱の影から様子を見てたんだ。そしたらなんかさ……」
少女の目に涙が浮かぶ。
「血……みたいな嫌な臭いがしてさ。……アタシなんでか、最近すごく鼻がいいんだよね。だからすぐ血の臭いだってわかった」
あれ……
と翔も思い当たるフシがあった。最近、鼻がよく利くのだ。かあちゃんが作る料理は家に入る前からわかっちゃったし、クラスメイトが校庭で転ぶと、やけに血の臭いが鼻についた。
「怖かったけど、なんとか逃げないで、美玲んちを見てたんだ。そしたら……出てきたんだ。がちゃりってドアを開けて」
「ベルベッチカが……?」
うん、とうなづくその子の顔色はほんとに悪い。にぶい翔でもわかるくらい。
「だれかと電話してるみたいに、ぶつぶつ、話しながら」
「なんて言ってた?」
「覚えてないよ……えと、確か……『なるべく苦しませたくなかったんだ』とか『おおかみになった』とか……そんなこと言ってた」
……
角田屋の前に着いた。
「ばあちゃん、ソーダ二本! ……ほら、おごってやるからさ。食えよ」
ぺりぺりと、セロハンをはがした。翔の、精一杯の友達を気遣う気持ちの表明だった。
「大丈夫だよ、茜」
そう声をかけると、茜はアイスを受け取った。
「おれ、茜の味方だからさ。怖くなったらまたアイス、おごってやるからさ……だから……泣くなよ……」
彼女は、泣いていることに気がついていなかった。
「しょーちゃん……しょーちゃん……! アタシ……アタシ……」
えええん……翔にすがりついてアイスを持ちながら、茜は大粒の涙をこぼした。溶けたアイスが翔のTシャツに付いた。でもどうしてか、そんなこと気にならなかった。
翔は、泣いてる女の子の肩を寄せる。とても暖かで、柔らかくて。いい、匂いがした。
夜、臭いがした。翔はすぐにわかった。……血の臭いだ。
かあちゃんがおさしみを切っている。今日はブリが安かったのよ。そんな事をいいながら。でも、おさしみの臭い……魚の血の臭いじゃない。おおかみの、血の臭いだ。
この家じゃない。もっと遠くで、する。
「どこいくのさ、もうお刺身切っちゃったよ」
「茜んとこ。ごめん、すぐ戻っから」
どうしてその名前が出たのか、わからない。でも、そうであって欲しくなかった。だから確認しに行くだけ。違うって、言って欲しかった。大丈夫だよって、言って欲しかった。
翔が生まれて初めて大好きになった、茜という女の子に。
からから、と玄関の引き戸を閉める。血の臭いは、二又に別れた道の……上に登っていく方から。……その子の家の方からした。
気がついたら走っていた。徒歩だと十分はかかる。だから、走った。素晴らしい速度が出た。ふたつの脚だけで走るのは非効率だ。手も使おう。鼻をもっと良くしなくては。鼻が伸びた。彼女が誰かに襲われてたら、助けなきゃ。牙がバキバキと伸びた。
そうして彼女の家に着いた。夜だったけど、昼間みたいに明るく見えた。だから、家の中までよく見えた。だから、玄関の土間で倒れていて。
金髪のあのベルベッチカが、大好きな大好きな茜の腸を引きずり出して食べているのが。
よく、見えた。
「てめえっ!」
翔はベルベッチカに襲いかかった。けれど、ベルベッチカは後ろにも目があるみたいに、即座に「食事」を止めて飛びのいた。目が赤く光っている。
翔は大好きなその子のそばにかけよった。茜は、口から血を流して、喉元を食いちぎられて、お腹から腸を出して。
……もう、冷たくなっていた。
「うわああああっ!」
翔の中の怒りに火がついた。
ぐおおおおお──っ!
まるでおおかみみたいな地を揺るがす叫び声をあげた。
(許せない。許せない、ベルベッチカ! おれの初恋のひとを……返せっ!)
ベルベッチカとの戦いの火蓋が切って落とされた。ベルベッチカは右手の爪を立てて、瞬間的に近づいて首をかき切った。翔は避けようとするも、身体が大きくて、うまく避けれない。
ざんっ……致命傷こそ避けたものの、首に深手を負った。
ぐおおおおっ!
それでも、攻撃はやめない。がぶり、と肩にかみついた。そして振り回して放り投げた。ベルベッチカは頭を打った。チャンスだと思った。このまま、心臓をひとかみしてやる。
ベルベッチカの動きが止まった。
(今だ! 茜のカタキ! 思い知れ!)
翔は、口を大きく広げていた。ベルベッチカの心臓をえぐりとるつもりで。だから、新月の目はそれを見逃さなかった。すかさず出したコルトSAAを口の中につっこんで、そして間髪入れずトリガーを引いた。
だーん!
銀メッキがされた弾丸は、喉を貫き、翔の小脳と脳幹を引き裂いた。
……
翔は……倒れた。おおかみの身体を手放して、もとの十一歳の小河内翔の姿で。
ゆうの放った弾丸は、翔の脳幹を貫いた。即死だった。そのはずだ。
……なのに今、どうして茜の手を、握っているんだろう……
ゆうは涙が、涙が止まらない。
『きみ、二体立て続けでも、冷静さを欠かなかった。よくやったね、愛しいきみ』
今日ばかりは、ゆうにベルの声は届かなかった。
ゆうは二人を抱いて、何時間も泣いた。
おかげで二人を食べ切るころには、日付を跨いでいた。