ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 橋立美玲は、マンガが大好きだ。クラスメイトの女子たちが読んでいる、少女マンガではない。少年マンガだ。男の子が巨大な悪に立ち向かう、友情や戦いを描いたマンガが大好きなのだ。
 今はその中でも「チェーンソー・ヤイバ」が大のお気に入りだ。主人公は心優しい少年、ヤイバだ。ある日、お父さんとお母さんの研究所が襲われ、両親を惨殺されてしまう。たったひとり残された心優しい妹・ミネも、悪の組織・デルタ結社にさらわれて、生物兵器に改造されてしまう。そんな妹を守り人間に戻すため、チェーンソーを持ってデルタ結社からの刺客に立ち向かう。
 美玲はいつもミネになったつもりでページをめくる。カッコイイお兄ちゃんがボクを守ってくれる……一人っ子の美玲には、これ以上ないくらいの憧れだ。一人称が「ボク」なのも、ミネのまねっこだ。沙羅はある日突然ボクと名乗り始めた美玲を見て爆笑したけど、そんなの気にしない。

(いいもん。ボクはミネなんだもん。ミネがボクなら、ヤイバは……ゆーくんかな。なーんて! きゃー!)
 美玲は、ゆーくんが好きだ。幼稚園に転入したとき、いちばん初めに話しかけてきてくれたのはゆーくんだった。金髪を肩まで伸ばして、はじめはゆー「ちゃん」かと思ったけど──それは今のクラスのみんながそう思っていたはず──、どうやら男の子でそんなミステリアスなところも大好きだった。
 なにより。毎週日曜日朝の女児向けアニメ・セラプリの話を熱心にしても、嫌な顔しないで聞いてくれたから。

(沙羅より先にボクが好きだったんだもん)

 その事が美玲には、じまんなのだった。

 ……

 そんなゆーくんが一週間、学校を休んでいる。沙羅も休んでる。登校途中の二人の家の呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。ゆーくんの家はガラスが割れていた。何かあったのかと美玲は怖くなった。

(……まさか……おおかみが?)
 ……おおかみ。この村に居る、こわいケモノ。ヒトをむしゃむしゃ食べてしまう。だから沙羅のおじいちゃんからもらったお守りは、ランドセルにいつもしまっていて、いつでも取り出せるようにしてる。沙羅と言えば……

(お祭り、キレイだったなあ……)

 確かあの時は、まっずいお肉が出てきて……食べた人みんなが……おおかみになって……

(あれ? それから? ボク、どうしたんだっけ)

 気がついたら家に居たんだった。大好きなオムライスをお母さんが出してくれて、おいしいなあ、あんな変なお肉とはちがうなあ。そんなことを考えながら食べたんだった。でもなんでか……なにか大切なことを忘れている気がして、胸に穴が空いているみたいに感じるのだった。

(会いたいなあ、ゆーくん。どこいっちゃったんだよ。第一部貸したじゃん。感想、聞かせてよぉ)

 ねえ、ゆーくん。二十巻の表紙のヤイバくんにそう話しかけた時。
 ぴんぽーん、玄関の呼び鈴が鳴った。
 いつもの帽子を目深に被って、いつもの不機嫌そうな目をして、美玲の大好きな青い瞳をして。
 大好きなゆーくんが、そこに立っていた。

「ゆーくん! 学校来ないで……どったの? ……あ! チェーンソー・ヤイバ!」

 心配そうに見る美玲に、紙袋を渡してきたゆーくんはにっこりと笑った。でもどこか、表情が暗い……ように見える?

「入って入って! 感想聞かせてよ!」

 でも、大好きなひとが来てくれてはしゃいだ美玲は、上機嫌に手招きした。

「……わかった……うん……弾は持ってる……大丈夫……」
「……ゆーくん?」
「ああ、ごめん、今行く」

 階段をとんとんと登って、突き当たり正面が美玲の部屋だ。デザイナーのお母さんが作ってくれた「みれいの部屋」というネームプレートがかかっている。白いバラのモチーフがとってもおしゃれなそれは、五歳のときこの家が建ってからずっとこの部屋と美玲を見てきてくれた。
 入って、と美玲は自室のドアを開けた。
 美玲の部屋はチェーンソー・ヤイバグッズとセラプリのグッズで溢れている。壁にはポスターにカレンダー。カレンダーは月が変わる事に破いて、それをポスターにして、壁に貼る。だから壁も天井も、ポスターで埋め尽くされている。お父さんに組み立ててもらったラックにも、ヤイバやミネ、敵の親玉ドクター・デルタのフィギュアがぎっしり。ゆーくんをこの部屋に入れたのは初めてだ。
 さあ、美玲には大博打だ。愛しい男の子に、自分のアイデンティティを認めてもらう為の。そして、ゆーくんは……引いたりしてない……ように見える。

(……よしっ! まずは第一関門突破! まあ、ボクと仲良くなるには、こんなところでつまづいてほしくないもんねー)

 それから……次は、話すのだ。チェーンソー・ヤイバのことを、たくさん。たくさん。……そしてその次は言うのだ。今日こそ言うのだ。……好きです、と。
 ミネだって、ヤイバの戦友で幼なじみのセイバーに、告白していた。美玲だって……

 ……

 それから、二時間が経った。気がつくと美玲は、ずーっと、しゃべっていた。その事に気づいたのは、夕方五時の愛のチャイムが聞こえてきたから。
 ゆーくんは、ずっとにこにこしたまま。
(しまった! ボクったら、いつもこうなんだ。大好きなものの話になるといつもこうで……)
「楽しいね」

 あれ。いつもみたいにため息をつかない。

「美玲のチェーンソー・ヤイバのお話」

 本当にいいのだろうか。てっきり大失敗かと思っていたから、ゆーくんの笑顔は予想外だった。

「そ、そかな……えへへ……うん、大好きなんだ」
「僕も好きだったよ。美玲のお話が」
(……? だった? ってなんだろ?)

 ゆーくんはいつもの不機嫌な顔じゃない。とてもにこにこ、笑っている。

(ま、まあ、この際、細かいことは気にしない。今こそ言うんだ。今こそ……)

 ん? 目の前にゆーくんの顔がある。じいっと、美玲を見つめている。

(あれ? 近い、顔、近いよお……これって……これって。キス……ってやつ……?)
「んー」

 美玲は目をつぶった。

(ああ、ボクのファーストキス……まさか、今日なんて……思わなかったよお……でも……ああ、幸せだなあ。……幸せだなあ)

 ……

 ぴたり、と何か冷たい棒みたいなのが、おでこに当たった。

「ごめん、美玲」
「なあに?」

 がぅんっ。

 美玲が目を開けるのと、愛しい愛しいゆーくんが拳銃の引き金を引くのは、ほとんど同時だった。
 そこから先は、美玲はあまりよく覚えていない。「撃ち抜かれた」頭から、おおかみが出てきた。……ような気がする。右目を潰されたおおかみはとても怒っていて、ゆーくんに襲いかかった。でも、片目の見えないおおかみの牙は、ことごとく空振った。
 美玲は暴れた。大好きだったチェーンソー・ヤイバのフィギュアも、大好きだったセラプリのカレンダーも。全部壊しながら、六畳間の洋室で、暴れ狂った。
 がぶり、かんだ。

(やった、捕まえた!)

 ……けれどそれは、別の女の子の腕だった。名前、なんていったっけ。一学期の終わりにだけ居た。ベル……なんとかさんだ。

『今だ、愛しいきみ!』

 なんとかさんの声が響いた……隙が生まれた。

(ゆーくん、ボクとチェーンソー・ヤイバの話するの、好きって言ってくれたよね。ゆーくん、ボクのこと、好きって、言ってくれたよね。ボクね、幼稚園の頃からね、あのね)

 どぼっ!

「ぎゃぉぉおおんっ」
(あは。幼稚園の時とおんなじ。ゆーくんに心臓、射抜かれちゃった……)

 ……
 しゅううう……
 おおかみはどこかに行って、荒れ放題の部屋に、右目と胸に大穴の空いた美玲が残された。

「美玲! わかるか、美玲、僕だっ」
「……わかるよ……ボクのゆーちゃん」
「美玲! ごめん、ごめんよ美玲」
「……いいんだ。ボク……ほんとは祭りの日に……死んでたんでしょ。茜に食べられて」

 美玲は大好きなゆーくんから目を逸らした。

「ほんとは……ほんとは、全部知ってたんだ。でも、怖くて。ゆーくんに嫌われるのが怖くて」
「嫌ってなんかない!」

 ゆーくんは涙をこらえて叫んだ。

「美玲……君の話すチェーンソー・ヤイバが、好きだった! とても!」
「ほんと……?」

 美玲は、天にも昇るような想いだった。

「ゆーくん……泣いてる……ボクのため、泣いてくれてる……えへへ。うーれし……」

 そして、血まみれの唇で、お願いした。

「ね……キス……して……ね? お願い」
「美玲……あのね、僕は」
「……」
「美玲? 美玲! 美玲ーっ!」

 ……
 橋立美玲は。
 ファーストキスを貰う前に、旅立った。大好きだった、アニメやマンガに囲まれて。
 でも、最後まで幸せだったのだ。ゆーくんにはわからないかもしれないけれど。最後の最後まで、大好きなゆーくんと、チェーンソー・ヤイバのお話が出来たのだから。

 ……

『愛しいきみ、よくやったね。新月の目の使い方も、上手くなってきてる。的確に心臓を射抜いた』

 ゆうは黙って、答えない。

『……そうだね、辛いよね。代わりに、私がやろうか』
「いい。自分で決めたから。二人のお母さんを救うって」
『じゃあ、食べるといい。彼女の中の私を取り戻すんだ』

 ゆうは口の中の「新月の牙」をバキンと立て、美玲の首筋にかみついた。そして何時間もかけ。血のいってき、骨のひとかけらも残さずに。……残さず全て食べ尽くした。