ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 ふっ、と窓から差し込む太陽の光が弱くなり、部屋が暗くなる。かたかたかたかた……テーブルの上のマグカップが小刻みに揺れる。

「あら、地震かしら」

 何も知らないお母さんが自分のマグカップを見る。がたっ、とゆうは席を立った。

(守らなくちゃ。みかのようにはさせるもんかっ!)

『目を開けるんだ』
「? 開いてるよ?」
『あげたろ? 新月の目だよ。ヒトの目よりはうんと利くはずだよ』

 ベルにも見えなかった「敵」だ。正直怖い。でも。

『額にもうひとつ目があるつもりで、額に意識を集中しながらゆっくり、目を開くんだ』

 でもベルが教えてくれる。新月のモノの生き方を。闘い方を。

「額に……もうひとつ……開く……」

 ゆうはそう呟きながら、額に意識を集中する。じんわり、暖かくなる。ぱちり……赤い、真っ赤だ。視界が赤い。ちょうど、テレビで見た赤外線カメラで見ているような感じだ。

『後ろだっ』

 ベルの声に振り返ると「白く光る人型のナニカ」が、ゆうのお腹に打撃を与えた。

「おかあさ──」

 ゆうは数メートル飛びリビングと和室の間のふすまを破り仏壇に突っ込んで、意識を失った。

 ……
 雪が降っている。真っ白な雪道で。金髪の吸血鬼が倒れている。

「やめてくれ……お願いだ、私から、私からその子を取り上げないでくれ……」

 ベルベッチカは黒い影に向かって叫んだけれど、影はエレオノーラを抱くと、そのままどこかへと消えた。

「ごほっ、ごほっ……エレオノーラ、エレオノーラァっ!」

 オリジンに我が子を奪われた新月の少女は、雪の上で血を吐きながら絶叫した。

 ……

 ……大祇村。夕方。ゆうはむせると、血を吐いた。ずきんっ、胸に信じられない痛みを感じる。
 アバラが折れているのだが、ゆうは構わず倒れた仏壇からはい出た。
 家の中は暗い。窓の外も暗い。そして……リビングには誰もいない。

「お母さん……お母さん!」

 その呼びかけに、優しい笑顔で答える大好きなお母さんは、もう居ない。

『赤ちゃんがね、出来たの』

「うわああぁぁぁぁ──!」

 始祖に母を奪われた新月の少女は、家のガラスを全部割って絶叫した。
「ゆうっ、ゆうっ! これはなんだ、何があったっ? ゆう、ゆう! こっちを見なさい。母さんは、母さんはどうした? ……ゆうっ! くそ……一体何が……」
「……」
「あ、お夕飯時に失礼します、相原です。……はい、はい。静が。はい、居なくて……ゆうだけが……はい。では、はい、クルマで。はい、今からまいります」
「……」
「ゆう、今から樫田さんの所へ行く。こっちを見なさい。いいか、もう安全だからな。もう大丈夫だから。……だから。……すまない」

『すまない』

 十一年前、初夏、夜。大祇村に隣接する岩手県Y市総合病院。
 一階、ロビー。ばたばたばたと駆け込んできた毅を、総合案内の医療事務の女性が見る。

「あの、はあ、はあ。……相原です、妻が緊急搬送されたと聞きまして」
「奥様のお名前よろしいですか? ……少々お待ちください」

 婦人科の看護師らしい女性が、毅を呼んでいる。

「相原……静さんですね。流産の手術のため緊急入院されています」
「流産……手術……?」
「申し訳ございませんが妊娠十三週での子宮内胎児死亡ですので、四、五日の入院が必要になります」
「胎児死亡……? もう、それは決まってるんですか?」
「……はい、そうですね。胎児は亡くなられています」

 毅は口を押さえた。

「お悔やみ申し上げます。病棟は、C棟の六階、六〇三です」
「静っ!」
「ごめんなさい。ごめんなさいあなた。赤ちゃん……もう……死んじゃってるみたいなの……」
「俺の方こそすまない。かけつけるのが遅くなった」
「ごめんなさい……」
「すまない……静……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、自宅、夫婦の寝室、朝。

「静。今日も起きれなさそうか」
「……ごめんなさい」
「もう三ヶ月だ。そろそろ立ち直らないと……」
「もう……ですってっ? まだ、まだ三ヶ月しか経ってないのよっ?」
「すまない……」
「本当なら今頃お腹が大きくなって、お腹の中で私をけってるはずだったのよっ!」
「すまない」
「あなたはいいわよ、学校に行けば子供たちに囲まれて全部忘れて仕事ができる。暗い部屋にいる私の気持ちなんて、わかるはずがないじゃないっ!」
「……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、冬、帰宅中、夕方。
 がさっ、がさがさっ。

「誰か? そこに誰かいるのか?」
「……欲シイカ……子供ガ……欲シイカ……」
「何を言ってる?」
「明日 大祇神社ニ 礼拝セヨ……子供ヲ授ケヨウゾ……ソノ代ワリ、対価ヲ モラウ」
「何だって? おい! おい!」
 翌日。大祇神社仮本殿横。

「おぎゃあ。おぎゃあ」
「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」
「でも静……この子の本当の持ち主が……すまないだろう」
「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「……よそう。警察に届けよう」
「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」
「でも、対価が……」
「……? なんですって?」

『すまない』

「静、しっかりしろ、静!」
「あなた……この子を……」
「取リ戻シタイカ? ……対価ヲ……? ナラバ」

『すまない』

「ゆう、しっかりしろ、ゆう!」
「お父さん……?」

 樫田のおじい様の家。娘は、いや、息子は目を覚ました。

「……すまない」
「お父さん、いつも謝ってるね」

 そう言って、息子は男の目に浮かぶ涙をぬぐった。
 丸い形の蛍光灯が大小二重に光っている。上質な木材であしらわれた天井。
 和室に寝ているが、ゆうの家ではない。

「お母さん……お母さんはっ? いたたたた……」

 身体を起こすと、左胸にずきんっと鋭い痛みが走る。

「アバラが折れとる、病院に行かねば。横になってなさい」

 沙羅のおじいちゃんが言った。ここで初めておじいちゃんの家だとわかった。

「どうだっていいです、お母さんはどこ?」

 クセのあるブロンドヘアは、身体を起こしてもなお布団に接するほど長い。青い瞳は、まっすぐ、沙羅のおじいちゃんを見ている。全部、ほんとのお母さんからもらったものだ。

「お父さんが見た時はもう、お前しかいなかった」
「そうなんだよ。あの場にいたのはゆうくんだけ。私らにはわからんのだ」

 ゆうくん。この姿を見てもそう呼んでくれるおじいちゃんの心遣いが嬉しかった。
『私が話そう。愛しいきみ。みんなに伝えておくれ』
「あ……ベルが……ベルべッチカが、みんなに伝えたいそうです。えと……あの時、僕は始祖におそわれたみたいです。僕も新月の目を開いて戦ったけれど。えと、圧倒的な力の前に、何も出来ずに負けたみたいです。僕のお母さんとお腹の赤ちゃんは……始祖に、さらわれて、今はどこにいるか……わからないそうです」

 ベルの言葉を伝えながら、ゆうは、目に涙があふれてきた。
 おじいちゃんは嘆いた。そして何秒かして、聞いてきた。

「ベルベッチカに聞いて欲しいんだが、始祖が誰か見たのかい?」
「えと、新月の目でも見えなかったそうです」
「そうか……やはり始祖は『我々では認識できない』のだな」
「どうすれば母さんを……静を取り戻せるんです?」

 お父さんが食い気味におじいちゃんに聞いた。

「始祖を……倒すしか、ないだろう」
「だけど今のゆうちゃんじゃあ、倒せないんでしょ?」

 沙羅が素直に感じたことを言う。ゆうも、素直に認めた。

「……うん。今の僕じゃ、手も足も出なかった」
 ……おじいちゃんが重い口調で口を開いた。

「始祖を……弱めることが出来れば……そうすれば、倒せるかもしれん」

 どうやって、とみな口々におじいちゃんに聞いた。

「おおかみたちを殺すのだ。おおかみたちは、始祖の手先。それら全てを殺すことができればあるいは……それにゆうくんの願いも叶えられる。ベルベッチカの再生だ。……だから、君にしかできない。君が、クラスメイトや村人たちを、殺すんだ」

 ゆうは自分の両の手を見た。

「殺す……僕が。……もうそれしか、残ってないんですね」
「そうだ。君が、この村に終止符を打つんだ」

『やろう、愛しいきみ。私がついているよ』

 みなが、ゆうを見ている。
 ゆうは答えた。そしてそれが、この村の最初で最後のヒトの反撃ののろしだった。

「……わかりました。僕が、殺します。おおかみを。みな」
 橋立美玲は、マンガが大好きだ。クラスメイトの女子たちが読んでいる、少女マンガではない。少年マンガだ。男の子が巨大な悪に立ち向かう、友情や戦いを描いたマンガが大好きなのだ。
 今はその中でも「チェーンソー・ヤイバ」が大のお気に入りだ。主人公は心優しい少年、ヤイバだ。ある日、お父さんとお母さんの研究所が襲われ、両親を惨殺されてしまう。たったひとり残された心優しい妹・ミネも、悪の組織・デルタ結社にさらわれて、生物兵器に改造されてしまう。そんな妹を守り人間に戻すため、チェーンソーを持ってデルタ結社からの刺客に立ち向かう。
 美玲はいつもミネになったつもりでページをめくる。カッコイイお兄ちゃんがボクを守ってくれる……一人っ子の美玲には、これ以上ないくらいの憧れだ。一人称が「ボク」なのも、ミネのまねっこだ。沙羅はある日突然ボクと名乗り始めた美玲を見て爆笑したけど、そんなの気にしない。

(いいもん。ボクはミネなんだもん。ミネがボクなら、ヤイバは……ゆーくんかな。なーんて! きゃー!)