ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

「わあっ!」

 ゆうは飛び起きた。

「着いたわよ」
「あ……寝てた、僕?」
「ええ、ぐっすり」

 そういって、お母さんは笑う。ゆうは体を起こして、お母さんを見る。

「僕のこと、なんとも思わないの? こんな、男でも女でもない、僕のこと……」
「なーに言ってんの。あんたが子供でよかったわよ、ゆうちゃん」

 お化粧をしてなくて左目の火傷のあとが目立つお母さんは、笑って言った。
 涙が、また溢れた。運転席のお母さんの左腕にすがって、泣いた。

「あらあら、今日は泣き虫さんね」
「……いいじゃんか……」

「会えて嬉しいよ。私のエレオノーラ」

 びくっ。

「どした?」

 夢に見たオリジンの声が、聞こえた気がした。
「オリジン、ねえ」

 家に帰るなりお母さんはお湯を沸かし、コーヒーをマグカップに入れた。お母さんが好きな色の緑のマグカップだ。ゆうには、青い空と雲のいつものマグカップに、やっぱりトマトジュースを注いでくれた。ずず……コーヒーをすすりながら、お母さんは言った。

「始祖のことよね……ベルベッチカちゃんは、そう呼んでたのね」
「……うん。ずっと長い間追いかけられてたみたい」

 ごくん……痛むお腹をトマトジュースが和らげてくれる。お母さんはゆうをまっすぐ見た。

「……で、ゆうちゃんは倒したいの? 村の人みんなを殺すことになっても?」
「……ううん、みんなじゃない。沙羅はまだヒトだよ。おじいちゃんも」
「それでも、翔くんや美玲ちゃん、みかちゃんに、こうさか亭の結花ちゃんも、みんな殺すの?」

「ちょっとまって」

 ゆうはお母さんを遮った。言葉の中に何か、とてもとても大きな違和感を感じたからだ。

「……どうしたの?」

 お母さんは目を丸くしている。
 けれども……なぜかそれがなんなのかは……わからなかった。
「……とにかく。……お母さんは反対よ」

 え。
 ゆうは予期していない言葉に耳をうたがう。

「そんな危ない相手だったら、倒したりしないで、そっとしておくのがいいんじゃないかしら」
「……何言ってるの? 村の人たちがおおかみにすり替えられてるんだよ? こうしている間にも、また誰かが襲われるかもしれないんだ」
「あなたがやらなくていいって、言ってるのよ。そういうのは沙羅ちゃんのおじい様とか、そういう訓練された人がやるの」

 お母さんは何を言っているのだろう。おじいちゃんの言っていたことを忘れてしまったかのよう。

「でも……僕はベルを取り戻したくて……」
「死んでしまった女の子をひとり生き返らすのに、村の人みんなを殺すの? よく考えて。ゆうちゃん。いのちの価値を考えて。死んだ子ひとりと、村のたくさんのいのちを……」
「死んだ子ひとりじゃない! 僕の、僕の全てなんだ! ベルは」

『きみ。愛しいきみ』

 突然、ベルの声がした。

『オリジンだ。気をつけろ、すぐ近くだぞ』
 ふっ、と窓から差し込む太陽の光が弱くなり、部屋が暗くなる。かたかたかたかた……テーブルの上のマグカップが小刻みに揺れる。

「あら、地震かしら」

 何も知らないお母さんが自分のマグカップを見る。がたっ、とゆうは席を立った。

(守らなくちゃ。みかのようにはさせるもんかっ!)

『目を開けるんだ』
「? 開いてるよ?」
『あげたろ? 新月の目だよ。ヒトの目よりはうんと利くはずだよ』

 ベルにも見えなかった「敵」だ。正直怖い。でも。

『額にもうひとつ目があるつもりで、額に意識を集中しながらゆっくり、目を開くんだ』

 でもベルが教えてくれる。新月のモノの生き方を。闘い方を。

「額に……もうひとつ……開く……」

 ゆうはそう呟きながら、額に意識を集中する。じんわり、暖かくなる。ぱちり……赤い、真っ赤だ。視界が赤い。ちょうど、テレビで見た赤外線カメラで見ているような感じだ。

『後ろだっ』

 ベルの声に振り返ると「白く光る人型のナニカ」が、ゆうのお腹に打撃を与えた。

「おかあさ──」

 ゆうは数メートル飛びリビングと和室の間のふすまを破り仏壇に突っ込んで、意識を失った。

 ……
 雪が降っている。真っ白な雪道で。金髪の吸血鬼が倒れている。

「やめてくれ……お願いだ、私から、私からその子を取り上げないでくれ……」

 ベルベッチカは黒い影に向かって叫んだけれど、影はエレオノーラを抱くと、そのままどこかへと消えた。

「ごほっ、ごほっ……エレオノーラ、エレオノーラァっ!」

 オリジンに我が子を奪われた新月の少女は、雪の上で血を吐きながら絶叫した。

 ……

 ……大祇村。夕方。ゆうはむせると、血を吐いた。ずきんっ、胸に信じられない痛みを感じる。
 アバラが折れているのだが、ゆうは構わず倒れた仏壇からはい出た。
 家の中は暗い。窓の外も暗い。そして……リビングには誰もいない。

「お母さん……お母さん!」

 その呼びかけに、優しい笑顔で答える大好きなお母さんは、もう居ない。

『赤ちゃんがね、出来たの』

「うわああぁぁぁぁ──!」

 始祖に母を奪われた新月の少女は、家のガラスを全部割って絶叫した。
「ゆうっ、ゆうっ! これはなんだ、何があったっ? ゆう、ゆう! こっちを見なさい。母さんは、母さんはどうした? ……ゆうっ! くそ……一体何が……」
「……」
「あ、お夕飯時に失礼します、相原です。……はい、はい。静が。はい、居なくて……ゆうだけが……はい。では、はい、クルマで。はい、今からまいります」
「……」
「ゆう、今から樫田さんの所へ行く。こっちを見なさい。いいか、もう安全だからな。もう大丈夫だから。……だから。……すまない」

『すまない』

 十一年前、初夏、夜。大祇村に隣接する岩手県Y市総合病院。
 一階、ロビー。ばたばたばたと駆け込んできた毅を、総合案内の医療事務の女性が見る。

「あの、はあ、はあ。……相原です、妻が緊急搬送されたと聞きまして」
「奥様のお名前よろしいですか? ……少々お待ちください」

 婦人科の看護師らしい女性が、毅を呼んでいる。

「相原……静さんですね。流産の手術のため緊急入院されています」
「流産……手術……?」
「申し訳ございませんが妊娠十三週での子宮内胎児死亡ですので、四、五日の入院が必要になります」
「胎児死亡……? もう、それは決まってるんですか?」
「……はい、そうですね。胎児は亡くなられています」

 毅は口を押さえた。

「お悔やみ申し上げます。病棟は、C棟の六階、六〇三です」
「静っ!」
「ごめんなさい。ごめんなさいあなた。赤ちゃん……もう……死んじゃってるみたいなの……」
「俺の方こそすまない。かけつけるのが遅くなった」
「ごめんなさい……」
「すまない……静……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、自宅、夫婦の寝室、朝。

「静。今日も起きれなさそうか」
「……ごめんなさい」
「もう三ヶ月だ。そろそろ立ち直らないと……」
「もう……ですってっ? まだ、まだ三ヶ月しか経ってないのよっ?」
「すまない……」
「本当なら今頃お腹が大きくなって、お腹の中で私をけってるはずだったのよっ!」
「すまない」
「あなたはいいわよ、学校に行けば子供たちに囲まれて全部忘れて仕事ができる。暗い部屋にいる私の気持ちなんて、わかるはずがないじゃないっ!」
「……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、冬、帰宅中、夕方。
 がさっ、がさがさっ。

「誰か? そこに誰かいるのか?」
「……欲シイカ……子供ガ……欲シイカ……」
「何を言ってる?」
「明日 大祇神社ニ 礼拝セヨ……子供ヲ授ケヨウゾ……ソノ代ワリ、対価ヲ モラウ」
「何だって? おい! おい!」
 翌日。大祇神社仮本殿横。

「おぎゃあ。おぎゃあ」
「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」
「でも静……この子の本当の持ち主が……すまないだろう」
「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「……よそう。警察に届けよう」
「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」
「でも、対価が……」
「……? なんですって?」

『すまない』

「静、しっかりしろ、静!」
「あなた……この子を……」
「取リ戻シタイカ? ……対価ヲ……? ナラバ」

『すまない』

「ゆう、しっかりしろ、ゆう!」
「お父さん……?」

 樫田のおじい様の家。娘は、いや、息子は目を覚ました。

「……すまない」
「お父さん、いつも謝ってるね」

 そう言って、息子は男の目に浮かぶ涙をぬぐった。
 丸い形の蛍光灯が大小二重に光っている。上質な木材であしらわれた天井。
 和室に寝ているが、ゆうの家ではない。

「お母さん……お母さんはっ? いたたたた……」

 身体を起こすと、左胸にずきんっと鋭い痛みが走る。

「アバラが折れとる、病院に行かねば。横になってなさい」

 沙羅のおじいちゃんが言った。ここで初めておじいちゃんの家だとわかった。

「どうだっていいです、お母さんはどこ?」

 クセのあるブロンドヘアは、身体を起こしてもなお布団に接するほど長い。青い瞳は、まっすぐ、沙羅のおじいちゃんを見ている。全部、ほんとのお母さんからもらったものだ。

「お父さんが見た時はもう、お前しかいなかった」
「そうなんだよ。あの場にいたのはゆうくんだけ。私らにはわからんのだ」

 ゆうくん。この姿を見てもそう呼んでくれるおじいちゃんの心遣いが嬉しかった。