お母さんはききょう先生におじぎをして、ゆうの手を取った。校門入ってすぐのところに、お母さんのクルマが停めてある。スズキのクロスオーバーSUVの軽自動車。お母さんの好きな緑色だ。丸いヘッドライトがくりくりした目みたいで可愛くて、ゆうも好きだった。はい、とお母さんが助手席のドアを開けた。
「……シート、汚れちゃう」
「気にしないわ。いいのよ」
「僕、いやだ」
そう言うと、お母さんは後部ハッチを開けて、世界的に有名なネズミのキャラクターのタオルケットを持ってきた。そして、助手席にしいた。
「はい、どうぞ、ゆうちゃん」
ゆうが乗ったのをしっかり確認して、ドアを閉めた。ゆうは、ドアにもたれて、目をつぶった。
「そうしてるといいわ」
お母さんはエンジンをかけると、そう言った。
……
「アレク、アレク!」
ジャパンのトーホク地方の、どこか。シンカンセンの中で見つかって、モリオカで降りて、それから何日も、何日も逃げ回った、どこかの山奥。雪が降っている。
目の前では、大好きなアレクがお腹に大穴を空けて、口から滝のように血を流している。真白な道路に、真っ赤な血が広がる。ベルベッチカは、泣き叫んでいる。腕の中にエレオノーラを抱きながら。
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「ベル……ベッチカ……にげ……ろ」
「いやだ! きみを置いて逃げるなんてっ」
「……ベルベッチカ……」
きっ。二十メートル先にいる満月のオリジンをにらみつけた。
けれどどんなににらんでも、真っ黒な輪郭以外その姿をうかがい知ることは出来ない。
「にげろ……君では……勝てない……エレオノーラを……守るんだ……」
ごほっ……
そう言うと、アレクは動かなくなった。
「よくも……よくもアレクをっ!」
ベルベッチカの目が赤く光らせ、目に角を立ててオリジンをにらむ。
アレクのオレンジのダウンにくるまれたエレオノーラを、アレクの隣に置いた。
「おぎゃあ。おぎゃあ」
ばきん、と右手の新月の爪を思いっきり立てた。肉食動物の爪だ。
……とん。
そして二十メートルの距離を目にも留まらぬ早さで縮めると、オリジンの首目掛けて振るった。
ざんっ。
手応えがあった。
(やったかっ?)
けれど、ベルベッチカは後ろから信じられないくらいの力でなぎ払われた。
ゆうに三十メートルは飛ばされて、道の脇の木に背中を強打した。
「がはっ」
たったの一撃。何年も逃げ続けて来た逃亡生活は、たったの一撃で終了した。オリジンが息も上手くできないベルベッチカの髪をつかんで、言った。心を凍りつかせる程の、低く抑揚のない声で。
「会エテ嬉シイヨ。私ノベルベッチカ」
……
「わあっ!」
ゆうは飛び起きた。
「着いたわよ」
「あ……寝てた、僕?」
「ええ、ぐっすり」
そういって、お母さんは笑う。ゆうは体を起こして、お母さんを見る。
「僕のこと、なんとも思わないの? こんな、男でも女でもない、僕のこと……」
「なーに言ってんの。あんたが子供でよかったわよ、ゆうちゃん」
お化粧をしてなくて左目の火傷のあとが目立つお母さんは、笑って言った。
涙が、また溢れた。運転席のお母さんの左腕にすがって、泣いた。
「あらあら、今日は泣き虫さんね」
「……いいじゃんか……」
「会えて嬉しいよ。私のエレオノーラ」
びくっ。
「どした?」
夢に見たオリジンの声が、聞こえた気がした。
「オリジン、ねえ」
家に帰るなりお母さんはお湯を沸かし、コーヒーをマグカップに入れた。お母さんが好きな色の緑のマグカップだ。ゆうには、青い空と雲のいつものマグカップに、やっぱりトマトジュースを注いでくれた。ずず……コーヒーをすすりながら、お母さんは言った。
「始祖のことよね……ベルベッチカちゃんは、そう呼んでたのね」
「……うん。ずっと長い間追いかけられてたみたい」
ごくん……痛むお腹をトマトジュースが和らげてくれる。お母さんはゆうをまっすぐ見た。
「……で、ゆうちゃんは倒したいの? 村の人みんなを殺すことになっても?」
「……ううん、みんなじゃない。沙羅はまだヒトだよ。おじいちゃんも」
「それでも、翔くんや美玲ちゃん、みかちゃんに、こうさか亭の結花ちゃんも、みんな殺すの?」
「ちょっとまって」
ゆうはお母さんを遮った。言葉の中に何か、とてもとても大きな違和感を感じたからだ。
「……どうしたの?」
お母さんは目を丸くしている。
けれども……なぜかそれがなんなのかは……わからなかった。
「……とにかく。……お母さんは反対よ」
え。
ゆうは予期していない言葉に耳をうたがう。
「そんな危ない相手だったら、倒したりしないで、そっとしておくのがいいんじゃないかしら」
「……何言ってるの? 村の人たちがおおかみにすり替えられてるんだよ? こうしている間にも、また誰かが襲われるかもしれないんだ」
「あなたがやらなくていいって、言ってるのよ。そういうのは沙羅ちゃんのおじい様とか、そういう訓練された人がやるの」
お母さんは何を言っているのだろう。おじいちゃんの言っていたことを忘れてしまったかのよう。
「でも……僕はベルを取り戻したくて……」
「死んでしまった女の子をひとり生き返らすのに、村の人みんなを殺すの? よく考えて。ゆうちゃん。いのちの価値を考えて。死んだ子ひとりと、村のたくさんのいのちを……」
「死んだ子ひとりじゃない! 僕の、僕の全てなんだ! ベルは」
『きみ。愛しいきみ』
突然、ベルの声がした。
『オリジンだ。気をつけろ、すぐ近くだぞ』
ふっ、と窓から差し込む太陽の光が弱くなり、部屋が暗くなる。かたかたかたかた……テーブルの上のマグカップが小刻みに揺れる。
「あら、地震かしら」
何も知らないお母さんが自分のマグカップを見る。がたっ、とゆうは席を立った。
(守らなくちゃ。みかのようにはさせるもんかっ!)
『目を開けるんだ』
「? 開いてるよ?」
『あげたろ? 新月の目だよ。ヒトの目よりはうんと利くはずだよ』
ベルにも見えなかった「敵」だ。正直怖い。でも。
『額にもうひとつ目があるつもりで、額に意識を集中しながらゆっくり、目を開くんだ』
でもベルが教えてくれる。新月のモノの生き方を。闘い方を。
「額に……もうひとつ……開く……」
ゆうはそう呟きながら、額に意識を集中する。じんわり、暖かくなる。ぱちり……赤い、真っ赤だ。視界が赤い。ちょうど、テレビで見た赤外線カメラで見ているような感じだ。
『後ろだっ』
ベルの声に振り返ると「白く光る人型のナニカ」が、ゆうのお腹に打撃を与えた。
「おかあさ──」
ゆうは数メートル飛びリビングと和室の間のふすまを破り仏壇に突っ込んで、意識を失った。
……
雪が降っている。真っ白な雪道で。金髪の吸血鬼が倒れている。
「やめてくれ……お願いだ、私から、私からその子を取り上げないでくれ……」
ベルベッチカは黒い影に向かって叫んだけれど、影はエレオノーラを抱くと、そのままどこかへと消えた。
「ごほっ、ごほっ……エレオノーラ、エレオノーラァっ!」
オリジンに我が子を奪われた新月の少女は、雪の上で血を吐きながら絶叫した。
……
……大祇村。夕方。ゆうはむせると、血を吐いた。ずきんっ、胸に信じられない痛みを感じる。
アバラが折れているのだが、ゆうは構わず倒れた仏壇からはい出た。
家の中は暗い。窓の外も暗い。そして……リビングには誰もいない。
「お母さん……お母さん!」
その呼びかけに、優しい笑顔で答える大好きなお母さんは、もう居ない。
『赤ちゃんがね、出来たの』
「うわああぁぁぁぁ──!」
始祖に母を奪われた新月の少女は、家のガラスを全部割って絶叫した。
「ゆうっ、ゆうっ! これはなんだ、何があったっ? ゆう、ゆう! こっちを見なさい。母さんは、母さんはどうした? ……ゆうっ! くそ……一体何が……」
「……」
「あ、お夕飯時に失礼します、相原です。……はい、はい。静が。はい、居なくて……ゆうだけが……はい。では、はい、クルマで。はい、今からまいります」
「……」
「ゆう、今から樫田さんの所へ行く。こっちを見なさい。いいか、もう安全だからな。もう大丈夫だから。……だから。……すまない」
『すまない』
十一年前、初夏、夜。大祇村に隣接する岩手県Y市総合病院。
一階、ロビー。ばたばたばたと駆け込んできた毅を、総合案内の医療事務の女性が見る。
「あの、はあ、はあ。……相原です、妻が緊急搬送されたと聞きまして」
「奥様のお名前よろしいですか? ……少々お待ちください」
婦人科の看護師らしい女性が、毅を呼んでいる。
「相原……静さんですね。流産の手術のため緊急入院されています」
「流産……手術……?」
「申し訳ございませんが妊娠十三週での子宮内胎児死亡ですので、四、五日の入院が必要になります」
「胎児死亡……? もう、それは決まってるんですか?」
「……はい、そうですね。胎児は亡くなられています」
毅は口を押さえた。
「お悔やみ申し上げます。病棟は、C棟の六階、六〇三です」