きゅるきゅるきゅる。
きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん!
「かかったっ!」
アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。
もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。
その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。
……
令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。
「なあ、なんでいつも帽子なの?」
翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。
「なんでって……別にいいじゃん」
「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」
「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」
「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」
……
「やめろって!」
ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。
「あー! おれのなけなしのアイスがー!」
「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」
「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」
「あー、それボクも気になるー!」
ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。
「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」
そんなあ、と翔が情けない声を出す。
「いこ!」
ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。
「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」
「ボクも! 綺麗だよね」
ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。
「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」
えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。
「じゃあね」
……
がらがらっ。ゆうは、家の扉を開けた。
「おかえり。あら、翔くんは?」
「来ない」
そう言って、とんとんと階段を登って自分の部屋に入った。帽子を取って、机の上に置く。
細身の姿見がある。前に立つがゆうの姿が映ることはない。
『そしたら、聞こえたの。泣き声が』
『本殿の脇、洞窟の入り口の赤い柵の下に、オレンジのダウンの上着に包まれた、まだへその緒も付いている小さな赤ちゃんが、冷たい石畳の上に置かれていたんだ』
『まさか……それって……』
『ああ、そうだ。ゆう、お前だ』
はあ。今日はため息ばかりだ。
何も映らない鏡の前でほっぺたを触る……とても柔らかい。沙羅のみたいだ。嫌だった、翔みたいになりたかった。やんちゃで、元気いっぱいで。男の子らしくて。
「……はあ」
もう深く一度ため息をつきながら、青い瞳のゆうは長い金髪を帽子に仕舞った。
ベルベッチカが、小さく悲鳴をあげる。
大丈夫か、とアレクセイが気遣う。
「う……ん……ちょっと、お腹が、張ってね……」
冷たい冷たい、貨物船のコンテナの中。ウラジオストクで持っていたお金を出せるだけ出して、サビだらけの空きコンテナに乗せてもらった。冬の日本海は寒い。低気圧が近付いていて、雪が吹雪いて海は大しけだ。それに海という「水」に囲まれていて、吐き気が止まらない。狭いコンテナの中で必死にアレクが支えてくれているが、臨月の妊婦には過酷すぎる旅だった。
「オタルに着けば、そこでトーキョー行きの貨車を探そう。トーキョーまで行ければ、僕らは自由だ」
「はあ……はあ。と、トーキョーって、あとどれくらいだい?」
「……まだ、かかりそうだ」
ものすごく揺れるコンテナの中で。明日こそは、明日こそはおおかみから自由に。その一心で、船旅を乗り越えた。ロシアの奥地から船に密航して、貨車に忍び込んだ。石炭を詰んだ貨車だった。屋根すらなかった。
ベルベッチカの体力も、そこまでだった。がちゃん、と貨物列車がターミナルから動き出した頃。
「うああっ!」
雪の降る貨物列車の上で、少女は産気づいた。必死にアレクが手を握りしめはげます中……無事に出産した。
金髪に青い目……母親に瓜二つの女の子だった。
……
令和六年九月十日、火曜日。日本、岩手県、大祇村。
「おーい、大丈夫かー」
昼休み、蒼太が校庭のベンチに座るゆうを覗きこむ。航もやってきた。
「う、うん……ちょっと、お腹痛くて……」
「大丈夫大丈夫」
翔がやって来てゆうの代わりに勝手を言う。
「ゆうが腹痛いのはいつものことだって。なあ?」
「……そだね、うん、大丈夫」
「よっしゃあ、サッカー再開なー」
ゆうはよたよたと校庭に出ていった。沙羅が心配そうに駆け寄る。
「大丈夫?」
「大丈夫……最近多いんだ」
「おーい、そっち行ったぞー」
蒼太の蹴ったゴールキックが、ゆうの方へ飛んでくる。
ありがと。短くそう言うとボールめがけて駆け出した。
「ゆーちゃん、わるいねー、アタシがいただきっ!」
茜が素晴らしい脚力で、ボールを受けようとしたゆうからボールを奪った。
ゆうも走るが、いつものどんそく。茜にあっという間に引き離された。
そしてゴールキーパーの蒼太をいとも簡単に突破して一点入れた。
「おいー、しっかりしろよお」
「翔、ゆうじゃ茜に勝てないって」
沙羅がゆうの肩に手を当てて、覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だったら」
「さらー? 男子は敵チームでしょー」
茜が沙羅に釘を刺す。
「でも……調子悪そう……」
「ならチャンスじゃん! きょうはアタシらで男子をギャフンと言わせてやろうよ!」
また、試合が再開された。ボールは足の速い翔がキープする。そこに茜が張り合う。ふたりのボールの取り合いを見ると、中学生にも勝てるんじゃないかと思う。
「ゆう、頼む!」
茜に取られそうになった翔が、苦し紛れにゆうにパスを回した。ゆうをマークするのは超運動オンチのみかだけだ。美玲がゴールキーパーのゴールも近い。ドリブルを続けて、みかを引き離した。
「ごめん、美玲、おねがい!」
「ええっ? あわわわ」
ゆうを止められなかったみかが叫ぶ。ゴールキーパーなんてほとんどやったことの無い美玲は泡をくった。
(いまだ!)
ずきんっ。
……シュートする直前。鋭い痛みがお腹に走って、転んだ。帽子が脱げて、長い金髪があらわになる。すかさず、美玲が転がるボールを取った。
翔がゆうの元に駆け寄る。
「おい、ゆう! 何やってんだよ、頼むよ、女子に負けちまうよ」
「ご、ごめん……今日はほんとにちょっと……お腹痛くて……」
そう言って彼の伸ばす手を取って立ち上がった時。
「ちょ、ちょっとちょっと! 相原ちゃん、大丈夫っ?」
みかが悲鳴を上げた。
「……気づいてないの?」
沙羅が駆け寄ってきた。
「ゆうちゃんっ! 保健室行こう」
ゆうはなぜそんなことを言われているか理解できていない。
「行こう、ね」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないよ! そんなに出血して」
(出血?)
お尻を触って初めて気がついた。
男子の制服のグレーのハーフパンツは、お尻が血でぐっしょり濡れていて、つたった血が足首の靴下まで真っ赤に染めていた。
……ぐらり、ゆうは貧血を起こしてその場で倒れた。
「ベル」
かなかなかなかな、ひぐらしのなく、初秋の山奥。あの、お屋敷のベルの部屋の中。愛しいベルの黒いかんおけの横で、ゆうは立っている。
腰まであるクセのあるブロンドヘア。青い瞳、少し膨らんだ胸。帽子で隠していないほんとのゆうの姿だ。さっきまでの学校の制服──グレーのハーフパンツ──を着ている。ハーフパンツは、血で汚れている。
どんどんどん、ゆうはかんおけに大好きなその子が閉じ込められていると思った。
「ベル、ベル、開けて。開けてよ」
「エレオノーラ」
とつぜん、耳元で声がした。ゆうが必死に呼んでいた女の子は、真後ろに立っていた。そして、懐かしいような聞いたことのあるような、そんな名前を口にした。
「エレオノーラ・リリヰ。きみのほんとの名前だよ。……私が付けた」
ゆうよりも色素の薄い金髪は、同じようにクセがあって腰まである。水色の瞳、ゆうより痩せていて、全体的に細い。転校してきた時の、青いリボンの白いワンピースを着ている。
「お母さん……なの……? ベルが……」
ベルはにっこり笑うだけ。
「十三日」
「えっ」
「私が愛しいきみをこの手で抱くことが出来た日数だよ」
ベルが崩れかけたガラス細工みたいな顔で、両の手を見た。
「二週間も居られなかった。お乳は最後まで出なかった」
小さな母親は哀感を込めて、息子にそう告白した。
ゆうは涙ぐんで叫んだ。
「どうして、どうして僕を手放したのっ? ずっと、ずっと、ベルと居たかったのに!」
ベルは広げた手のひらを握りしめ、目に涙を浮かべ、言った。
「負けたんだ……オリジンに。許しておくれ娘よ、私のこの世でいちばん大切な、エレオノーラ」
ぎゅっ、とベルが抱きしめてくれた。信じられないほど冷たい。声が震えている。