ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

「ベルベッチカ!」

 呼ばれた少女は振り返る。

「この村はもうダメだ、逃げよう!」
「でもアレク……どこへ? もう逃げきれないよ……それに」

 ベルベッチカは目を伏せた。

「おおかみなら、私でも相手できるよ」
「だめだ、君は身重なんだぞ。それに、『オリジン』がいる。僕らでは勝てないっ!」

 もうすぐ母になる少女は大きくなったお腹をさする。

「大丈夫だよ。私が必ず、守ってあげる」
「あおおおぉぉぉん──!」
「くそ、居場所がバレた! こっちだ!」
「あ、まってくれ」

 赤い服のぼろぼろのぬいぐるみをベッドの枕元から手に取った。

「……うん、大丈夫。ベルは、大丈夫……」
「……ベルベッチカ……」
「オリジンだ! すぐ近くまで来てるっ。早くっ! こっちだ! 裏口から逃げよう!」

 地を這うような低い声を聞いて、彼は焦る。
「今度は……どこまで逃げるの?」
「トーキョーだ! ジャパンの。ウラジオストクからホッカイドー行きの船が出てるはずだ。とにかく、裏に止めてあるクルマまで走れ!」

 アレクに手を引かれ、雪道を走る。ベルベッチカは自分の居た場所を振り返る。雪の積もった、白い家。ようやく手にしたはずだった、暖炉のある暖かい我が家。
 ぱりん、ぱりんぱりん。
 おおかみの手に落ちた我が家の、ガラスが割れる音がする。

(ああ……今度こそ大丈夫だと思ったのに……)

 彼女の目に涙が浮かぶ。パートナーが開けてくれた黒のSUVのドアに滑り込んだ。

「ほら、乗って!」
「駅まで百キロある。……無理だよ」
「ガソリンはある。大丈夫だ!」

 がんっ、SUVが大きく揺れる。

「きゃあっ」
「くそ、おおかみだっ!」

 彼は必死にキーを回す。が、寒さで中々エンジンに点火しない。
 がんっ、がんがんっ。

「……ベルベッチカ……見ツケタゾ……」
「ええい、かかれ、かかれ!」
 きゅるきゅるきゅる。
 きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん!

「かかったっ!」

 アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。
 もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。
 その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。

 ……

 令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。

「なあ、なんでいつも帽子なの?」

 翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。

「なんでって……別にいいじゃん」
「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」
「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」
「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」

 ……
「やめろって!」

 ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。

「あー! おれのなけなしのアイスがー!」
「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」
「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」
「あー、それボクも気になるー!」

 ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。

「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」

 そんなあ、と翔が情けない声を出す。

「いこ!」

 ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。

「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」
「ボクも! 綺麗だよね」

 ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。

「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」

 えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。

「じゃあね」

 ……
 がらがらっ。ゆうは、家の扉を開けた。

「おかえり。あら、翔くんは?」
「来ない」

 そう言って、とんとんと階段を登って自分の部屋に入った。帽子を取って、机の上に置く。
 細身の姿見がある。前に立つがゆうの姿が映ることはない。

『そしたら、聞こえたの。泣き声が』
『本殿の脇、洞窟の入り口の赤い柵の下に、オレンジのダウンの上着に包まれた、まだへその緒も付いている小さな赤ちゃんが、冷たい石畳の上に置かれていたんだ』
『まさか……それって……』
『ああ、そうだ。ゆう、お前だ』

 はあ。今日はため息ばかりだ。
 何も映らない鏡の前でほっぺたを触る……とても柔らかい。沙羅のみたいだ。嫌だった、翔みたいになりたかった。やんちゃで、元気いっぱいで。男の子らしくて。

「……はあ」

 もう深く一度ため息をつきながら、青い瞳のゆうは長い金髪を帽子に仕舞った。
 ベルベッチカが、小さく悲鳴をあげる。
 大丈夫か、とアレクセイが気遣う。

「う……ん……ちょっと、お腹が、張ってね……」

 冷たい冷たい、貨物船のコンテナの中。ウラジオストクで持っていたお金を出せるだけ出して、サビだらけの空きコンテナに乗せてもらった。冬の日本海は寒い。低気圧が近付いていて、雪が吹雪いて海は大しけだ。それに海という「水」に囲まれていて、吐き気が止まらない。狭いコンテナの中で必死にアレクが支えてくれているが、臨月の妊婦には過酷すぎる旅だった。

「オタルに着けば、そこでトーキョー行きの貨車を探そう。トーキョーまで行ければ、僕らは自由だ」
「はあ……はあ。と、トーキョーって、あとどれくらいだい?」
「……まだ、かかりそうだ」

 ものすごく揺れるコンテナの中で。明日こそは、明日こそはおおかみから自由に。その一心で、船旅を乗り越えた。ロシアの奥地から船に密航して、貨車に忍び込んだ。石炭を詰んだ貨車だった。屋根すらなかった。
 ベルベッチカの体力も、そこまでだった。がちゃん、と貨物列車がターミナルから動き出した頃。

「うああっ!」

 雪の降る貨物列車の上で、少女は産気づいた。必死にアレクが手を握りしめはげます中……無事に出産した。
 金髪に青い目……母親に瓜二つの女の子だった。

 ……
 令和六年九月十日、火曜日。日本、岩手県、大祇村。

「おーい、大丈夫かー」

 昼休み、蒼太が校庭のベンチに座るゆうを覗きこむ。航もやってきた。

「う、うん……ちょっと、お腹痛くて……」
「大丈夫大丈夫」

 翔がやって来てゆうの代わりに勝手を言う。

「ゆうが腹痛いのはいつものことだって。なあ?」
「……そだね、うん、大丈夫」
「よっしゃあ、サッカー再開なー」

 ゆうはよたよたと校庭に出ていった。沙羅が心配そうに駆け寄る。

「大丈夫?」
「大丈夫……最近多いんだ」
「おーい、そっち行ったぞー」

 蒼太の蹴ったゴールキックが、ゆうの方へ飛んでくる。
 ありがと。短くそう言うとボールめがけて駆け出した。

「ゆーちゃん、わるいねー、アタシがいただきっ!」

 茜が素晴らしい脚力で、ボールを受けようとしたゆうからボールを奪った。
 ゆうも走るが、いつものどんそく。茜にあっという間に引き離された。
 そしてゴールキーパーの蒼太をいとも簡単に突破して一点入れた。
「おいー、しっかりしろよお」
「翔、ゆうじゃ茜に勝てないって」

 沙羅がゆうの肩に手を当てて、覗き込む。

「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だったら」
「さらー? 男子は敵チームでしょー」

 茜が沙羅に釘を刺す。

「でも……調子悪そう……」
「ならチャンスじゃん! きょうはアタシらで男子をギャフンと言わせてやろうよ!」

 また、試合が再開された。ボールは足の速い翔がキープする。そこに茜が張り合う。ふたりのボールの取り合いを見ると、中学生にも勝てるんじゃないかと思う。

「ゆう、頼む!」

 茜に取られそうになった翔が、苦し紛れにゆうにパスを回した。ゆうをマークするのは超運動オンチのみかだけだ。美玲がゴールキーパーのゴールも近い。ドリブルを続けて、みかを引き離した。

「ごめん、美玲、おねがい!」
「ええっ? あわわわ」

 ゆうを止められなかったみかが叫ぶ。ゴールキーパーなんてほとんどやったことの無い美玲は泡をくった。

(いまだ!)

 ずきんっ。
 ……シュートする直前。鋭い痛みがお腹に走って、転んだ。帽子が脱げて、長い金髪があらわになる。すかさず、美玲が転がるボールを取った。
 翔がゆうの元に駆け寄る。

「おい、ゆう! 何やってんだよ、頼むよ、女子に負けちまうよ」
「ご、ごめん……今日はほんとにちょっと……お腹痛くて……」

 そう言って彼の伸ばす手を取って立ち上がった時。

「ちょ、ちょっとちょっと! 相原ちゃん、大丈夫っ?」

 みかが悲鳴を上げた。

「……気づいてないの?」

 沙羅が駆け寄ってきた。

「ゆうちゃんっ! 保健室行こう」

 ゆうはなぜそんなことを言われているか理解できていない。

「行こう、ね」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないよ! そんなに出血して」
(出血?)

 お尻を触って初めて気がついた。

 男子の制服のグレーのハーフパンツは、お尻が血でぐっしょり濡れていて、つたった血が足首の靴下まで真っ赤に染めていた。

 ……ぐらり、ゆうは貧血を起こしてその場で倒れた。