こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……
からんからん。
「いらっしゃいませ、相原くん」
……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。クラスの女子の中ではでいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。
ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると……
「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」
お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。
「ありがとうございます!」
「お待ちしてました。ささ、ご案内します」
結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。
「まあ、きれいなマリーゴールド」
んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。
「お待たせいたしました」
あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。
お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。
……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。
「お腹減っちゃって」
そう言ってペロリと食べてしまった。
食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。
(はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)
そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。
と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。
こんこん。
結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。
「あれ。相原くん、食べてくれた?」
「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」
ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。
「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」
そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。
「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」
結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。
「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」
「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」
「静、なんだ、ニュースって」
「ふふ」
お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。
「赤ちゃんがね、出来たの」
「ベルベッチカ!」
呼ばれた少女は振り返る。
「この村はもうダメだ、逃げよう!」
「でもアレク……どこへ? もう逃げきれないよ……それに」
ベルベッチカは目を伏せた。
「おおかみなら、私でも相手できるよ」
「だめだ、君は身重なんだぞ。それに、『オリジン』がいる。僕らでは勝てないっ!」
もうすぐ母になる少女は大きくなったお腹をさする。
「大丈夫だよ。私が必ず、守ってあげる」
「あおおおぉぉぉん──!」
「くそ、居場所がバレた! こっちだ!」
「あ、まってくれ」
赤い服のぼろぼろのぬいぐるみをベッドの枕元から手に取った。
「……うん、大丈夫。ベルは、大丈夫……」
「……ベルベッチカ……」
「オリジンだ! すぐ近くまで来てるっ。早くっ! こっちだ! 裏口から逃げよう!」
地を這うような低い声を聞いて、彼は焦る。
「今度は……どこまで逃げるの?」
「トーキョーだ! ジャパンの。ウラジオストクからホッカイドー行きの船が出てるはずだ。とにかく、裏に止めてあるクルマまで走れ!」
アレクに手を引かれ、雪道を走る。ベルベッチカは自分の居た場所を振り返る。雪の積もった、白い家。ようやく手にしたはずだった、暖炉のある暖かい我が家。
ぱりん、ぱりんぱりん。
おおかみの手に落ちた我が家の、ガラスが割れる音がする。
(ああ……今度こそ大丈夫だと思ったのに……)
彼女の目に涙が浮かぶ。パートナーが開けてくれた黒のSUVのドアに滑り込んだ。
「ほら、乗って!」
「駅まで百キロある。……無理だよ」
「ガソリンはある。大丈夫だ!」
がんっ、SUVが大きく揺れる。
「きゃあっ」
「くそ、おおかみだっ!」
彼は必死にキーを回す。が、寒さで中々エンジンに点火しない。
がんっ、がんがんっ。
「……ベルベッチカ……見ツケタゾ……」
「ええい、かかれ、かかれ!」
きゅるきゅるきゅる。
きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん!
「かかったっ!」
アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。
もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。
その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。
……
令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。
「なあ、なんでいつも帽子なの?」
翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。
「なんでって……別にいいじゃん」
「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」
「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」
「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」
……
「やめろって!」
ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。
「あー! おれのなけなしのアイスがー!」
「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」
「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」
「あー、それボクも気になるー!」
ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。
「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」
そんなあ、と翔が情けない声を出す。
「いこ!」
ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。
「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」
「ボクも! 綺麗だよね」
ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。
「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」
えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。
「じゃあね」
……
がらがらっ。ゆうは、家の扉を開けた。
「おかえり。あら、翔くんは?」
「来ない」
そう言って、とんとんと階段を登って自分の部屋に入った。帽子を取って、机の上に置く。
細身の姿見がある。前に立つがゆうの姿が映ることはない。
『そしたら、聞こえたの。泣き声が』
『本殿の脇、洞窟の入り口の赤い柵の下に、オレンジのダウンの上着に包まれた、まだへその緒も付いている小さな赤ちゃんが、冷たい石畳の上に置かれていたんだ』
『まさか……それって……』
『ああ、そうだ。ゆう、お前だ』
はあ。今日はため息ばかりだ。
何も映らない鏡の前でほっぺたを触る……とても柔らかい。沙羅のみたいだ。嫌だった、翔みたいになりたかった。やんちゃで、元気いっぱいで。男の子らしくて。
「……はあ」
もう深く一度ため息をつきながら、青い瞳のゆうは長い金髪を帽子に仕舞った。
ベルベッチカが、小さく悲鳴をあげる。
大丈夫か、とアレクセイが気遣う。
「う……ん……ちょっと、お腹が、張ってね……」
冷たい冷たい、貨物船のコンテナの中。ウラジオストクで持っていたお金を出せるだけ出して、サビだらけの空きコンテナに乗せてもらった。冬の日本海は寒い。低気圧が近付いていて、雪が吹雪いて海は大しけだ。それに海という「水」に囲まれていて、吐き気が止まらない。狭いコンテナの中で必死にアレクが支えてくれているが、臨月の妊婦には過酷すぎる旅だった。
「オタルに着けば、そこでトーキョー行きの貨車を探そう。トーキョーまで行ければ、僕らは自由だ」
「はあ……はあ。と、トーキョーって、あとどれくらいだい?」
「……まだ、かかりそうだ」
ものすごく揺れるコンテナの中で。明日こそは、明日こそはおおかみから自由に。その一心で、船旅を乗り越えた。ロシアの奥地から船に密航して、貨車に忍び込んだ。石炭を詰んだ貨車だった。屋根すらなかった。
ベルベッチカの体力も、そこまでだった。がちゃん、と貨物列車がターミナルから動き出した頃。
「うああっ!」
雪の降る貨物列車の上で、少女は産気づいた。必死にアレクが手を握りしめはげます中……無事に出産した。
金髪に青い目……母親に瓜二つの女の子だった。
……