ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 新しい家の可愛いドアを開けるなり、アレクが駆け寄り、聞いてきた。

「お医者さん、なんだって?」
「ふふふ。聞きたいかい? 私、今日そらを飛べるかもしれない」
「新月でもないのに?」
「ふふふ。三ヶ月、だって」

 アレクは、しばらく何も言わずにぼうっとしている。そんな彼に、ベルベッチカは耳打ちする。

「赤ちゃんだよ。ふたりの」
「……ええっ!」

 間の抜けた声を出す新しく父親になる彼に、少女ははにかんで、言った。

「ねえ、キスしておくれよ」

 ふたりは唇を重ねた。
 新しいお家に、暖かい暖炉。優しい恋人に、お腹に新しく宿った命。六百九十七年生きてきて、初めて感じる心の底からの、安堵。
 それから、約半年の間。
 赤ちゃんの靴下を編んだ。手袋を編んだ。ベビーベッドを、彼が作った。
 お腹が大きくても、彼は変わらず愛してくれた。綺麗だよと髪を撫でてくれた。
 幸せに……時間は過ぎていった。
 六百九十七年の中で、いちばん長い──そしていちばん一瞬の──半年だった。

 ……
 令和六年九月六日、金曜日。日本、岩手県、大祇村。

「こうさか亭にいこうか」

 今日はお父さんが早く帰ってきた。お母さんも、晩ごはんは何も作っていない。今日は大切な日だから。……二人の、けっこん記念日。毎年九月六日はこうさか亭にディナーを食べに行く。ゆうの家は決して裕福な家では無い。そしてこうさか亭は、比較的高めのお店だ。だから、けっこん記念日やゆうのお誕生日に行くのだ。

「ゆう、行くぞ」

 姿見を見ながら、ゆうは髪を帽子に入れて、目深に被った。

「うん。……よし。今行くー」

 ゆうはとんとんと、階段を降りていった。

 ……

 こうさか亭は下町にあるから、少し歩く。学校までは、山道を下って田んぼに出て、角田屋を通った先。ふだん遊ぶ神社にはそのまま真っ直ぐだけど、下町は学校前の丁字路を左に曲がって、田んぼと小川に沿って十五分ほど下った先にある。上町と下町の境界付近に立つ数少ない信号を過ぎると、下町だ。こうさか亭のようなレストラン、郵便局、銭湯、そして村役場。下町の方が人口が多く、航や結花は、ここから大祇小学校に通っている。
 こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……
 からんからん。

「いらっしゃいませ、相原くん」

 ……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。クラスの女子の中ではでいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。
 ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると……

「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」

 お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。

「ありがとうございます!」
「お待ちしてました。ささ、ご案内します」
 結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。

「まあ、きれいなマリーゴールド」

 んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。

「お待たせいたしました」

 あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。
 お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。
 ……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。

「お腹減っちゃって」

 そう言ってペロリと食べてしまった。
 食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。

(はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)

 そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。
 と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。
 こんこん。
 結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。

「あれ。相原くん、食べてくれた?」
「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」

 ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。

「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」

 そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。

「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」

 結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。

「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」
「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」
「静、なんだ、ニュースって」
「ふふ」

 お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。

「赤ちゃんがね、出来たの」
「ベルベッチカ!」

 呼ばれた少女は振り返る。

「この村はもうダメだ、逃げよう!」
「でもアレク……どこへ? もう逃げきれないよ……それに」

 ベルベッチカは目を伏せた。

「おおかみなら、私でも相手できるよ」
「だめだ、君は身重なんだぞ。それに、『オリジン』がいる。僕らでは勝てないっ!」

 もうすぐ母になる少女は大きくなったお腹をさする。

「大丈夫だよ。私が必ず、守ってあげる」
「あおおおぉぉぉん──!」
「くそ、居場所がバレた! こっちだ!」
「あ、まってくれ」

 赤い服のぼろぼろのぬいぐるみをベッドの枕元から手に取った。

「……うん、大丈夫。ベルは、大丈夫……」
「……ベルベッチカ……」
「オリジンだ! すぐ近くまで来てるっ。早くっ! こっちだ! 裏口から逃げよう!」

 地を這うような低い声を聞いて、彼は焦る。
「今度は……どこまで逃げるの?」
「トーキョーだ! ジャパンの。ウラジオストクからホッカイドー行きの船が出てるはずだ。とにかく、裏に止めてあるクルマまで走れ!」

 アレクに手を引かれ、雪道を走る。ベルベッチカは自分の居た場所を振り返る。雪の積もった、白い家。ようやく手にしたはずだった、暖炉のある暖かい我が家。
 ぱりん、ぱりんぱりん。
 おおかみの手に落ちた我が家の、ガラスが割れる音がする。

(ああ……今度こそ大丈夫だと思ったのに……)

 彼女の目に涙が浮かぶ。パートナーが開けてくれた黒のSUVのドアに滑り込んだ。

「ほら、乗って!」
「駅まで百キロある。……無理だよ」
「ガソリンはある。大丈夫だ!」

 がんっ、SUVが大きく揺れる。

「きゃあっ」
「くそ、おおかみだっ!」

 彼は必死にキーを回す。が、寒さで中々エンジンに点火しない。
 がんっ、がんがんっ。

「……ベルベッチカ……見ツケタゾ……」
「ええい、かかれ、かかれ!」
 きゅるきゅるきゅる。
 きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん!

「かかったっ!」

 アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。
 もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。
 その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。

 ……

 令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。

「なあ、なんでいつも帽子なの?」

 翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。

「なんでって……別にいいじゃん」
「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」
「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」
「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」

 ……
「やめろって!」

 ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。

「あー! おれのなけなしのアイスがー!」
「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」
「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」
「あー、それボクも気になるー!」

 ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。

「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」

 そんなあ、と翔が情けない声を出す。

「いこ!」

 ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。

「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」
「ボクも! 綺麗だよね」

 ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。

「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」

 えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。

「じゃあね」

 ……