ベルベッチカ・リリヰの舌の味 おおかみ村と不思議な転校生の真実

 坂を登りきって、神社の下り階段が遠くに見えてきた頃。

「相原ちゃん」

 みかが下を向いたまま、つぶやくように口を開いた。

「大祇祭。どうだった?」

 ぎくり。ゆうは心臓を針でちくりと刺されたようだった。

「どうって……どういう意味……?」
「……本殿着いたら、話すね」

 長い階段を下りて、境内に着いた。川の音が聞こえる以外とても静かで、洞窟が近くにあるからか少しだけひんやりしている。仮の本殿も何事もなかったかのように洞窟の入り口に立っている。相変わらず嫌な雰囲気だと思って見ていると、みかが覗き込んで、何か見せてきた。

「相原ちゃん。これ」

 小さなジップロックに、黒い何かの毛みたいなのが束になって入っている。

「……これって。まさか……」

 こくり、とメガネの少女は頷いた。

「こっちが、私たちがお屋敷で最初に遭ったおおかみ。で、これが、祭りの日に現れたおおかみのもの。比べてみて」

 そう言って、もうひとつ、ジップロックを出した。……同じに、見える。

「だよね?」
 ここでゆうはハッとする。
 あの日、神社にいたヒトはみな噛まれおおかみになったか、食い殺されてしまっている。祭りのことを覚えているヒトは、ゆうとお父さんとお母さん、沙羅とおじいちゃんだけのはずだ。

「私、お祭りが始まるほんとすぐ前に、おなか痛くなっちゃってトイレに行ってたの。そしたら、本殿はもう閉まってるし、変なヒトたちがいっぱいいるしで入れなくて。仕方ないから外で待ってたら……」
「おおかみが本殿からあふれた……」
「うん。だから私、またトイレに駆け込んで、必死にドアを押さえたんだよ」

 みかは真っ青だ……あの日のことを思い出しているようだ。

「ばきばき、くちゃくちゃ。おおかみがヒトを食べる音がずっと、ずうっとして、怖くて怖くて。何時間かして、ドアを開けると、おおかみは居なくなっていたの。でも……」

 涙を浮かべて、ゆうの目を見た。

「パパもママも居なくて……たくさんの血があちこちに飛び散ってて。それでこの毛を、見つけたの」
 ゆうはお父さんとお母さんのことを、おそるおそる泣きそうな少女に聞いた。

「それが……怖くなって家に帰ると普通に居たんだ、おかえりって。……おかしいよね、一緒に行ってたんだよ、でも祭りのことを何も覚えてなくて……私、忘れ物クイーンだから、忘れっぽいよ? でも、こんなの変だよ、私でも覚えてるのに……それとも私が、変になっちゃったのかな……」

 そう言うと、ゆうの前で泣き始めた。

「言ってくれてありがとう。みかは……ヒトなんだね。この村で数少ない……」

 こくり、とみかはうなずいた。いつもの天然おとぼけキャラからは想像もつかない、この村の呪いを恐れるふつうの女の子、だった。ゆうはみかの肩を抱いてあげた。とても柔らかだった。

『きみ。愛しいきみ』

 ベルが唐突に告げる。

『気をつけて……奴の……オリジンの気配がする』
「えっ?」
『近い』

 ……
 気付くと、夕方遅い時間になっていた。一人で境内の仮本殿前で倒れている。ずきん、おなかが痛い。……みかがいない。

「みか? みかっ?」

 手にはおおかみの毛が入ったふたつのジップロック。それだけを残して、みかは消えた。
 ベルにも頭の中で呼びかけるが、彼女の気配もしない。

 夕焼けの田んぼ道を走った。下町のみかの家まで。なぜか今、新月の力が落ちていると感じる。いつものどんくさいゆうのスピードしかでないからだ。

(始祖が来て、ベルが戦って……負けたんだ。それでみかを連れていかれた。くそっ……くそっ! 僕はなんて……なんて無力なんだっ!)

 全力で走った。泣きそうになりながら走った。二十分ほど走って、みかの家に着いた。辺りは日が落ちてもう暗い。
 みかの家はお父さんが電気屋だ。木造の古い家屋に、白い看板。でも、シャッターが降りてる。

「あっ 電気に困ったら 岩崎電気」

 シャッターに古臭いキャッチコピーが書いてある。その脇の家に続く門を入って、玄関の呼び鈴を鳴らした。きーんこーん。
 はい、と木の古いドアを開けてみかが出てきた。

「みか……? さっきの神社の事だけど……」
「神社ぁ? なんのこと? 私なんだかすんごく眠たくてさ」

 みかはそう言うとあくびをした。あの時の、美玲のように。
 ……ゆうは笑顔を作って、そして告げた。

「ううん。なんでもない。おやすみ、みか」

 ……

『すまない、愛しいきみ。きみを守るので、精一杯だった』

 帰り道。ゆうは帽子の下で泣きながら走った。
 新しい家の可愛いドアを開けるなり、アレクが駆け寄り、聞いてきた。

「お医者さん、なんだって?」
「ふふふ。聞きたいかい? 私、今日そらを飛べるかもしれない」
「新月でもないのに?」
「ふふふ。三ヶ月、だって」

 アレクは、しばらく何も言わずにぼうっとしている。そんな彼に、ベルベッチカは耳打ちする。

「赤ちゃんだよ。ふたりの」
「……ええっ!」

 間の抜けた声を出す新しく父親になる彼に、少女ははにかんで、言った。

「ねえ、キスしておくれよ」

 ふたりは唇を重ねた。
 新しいお家に、暖かい暖炉。優しい恋人に、お腹に新しく宿った命。六百九十七年生きてきて、初めて感じる心の底からの、安堵。
 それから、約半年の間。
 赤ちゃんの靴下を編んだ。手袋を編んだ。ベビーベッドを、彼が作った。
 お腹が大きくても、彼は変わらず愛してくれた。綺麗だよと髪を撫でてくれた。
 幸せに……時間は過ぎていった。
 六百九十七年の中で、いちばん長い──そしていちばん一瞬の──半年だった。

 ……
 令和六年九月六日、金曜日。日本、岩手県、大祇村。

「こうさか亭にいこうか」

 今日はお父さんが早く帰ってきた。お母さんも、晩ごはんは何も作っていない。今日は大切な日だから。……二人の、けっこん記念日。毎年九月六日はこうさか亭にディナーを食べに行く。ゆうの家は決して裕福な家では無い。そしてこうさか亭は、比較的高めのお店だ。だから、けっこん記念日やゆうのお誕生日に行くのだ。

「ゆう、行くぞ」

 姿見を見ながら、ゆうは髪を帽子に入れて、目深に被った。

「うん。……よし。今行くー」

 ゆうはとんとんと、階段を降りていった。

 ……

 こうさか亭は下町にあるから、少し歩く。学校までは、山道を下って田んぼに出て、角田屋を通った先。ふだん遊ぶ神社にはそのまま真っ直ぐだけど、下町は学校前の丁字路を左に曲がって、田んぼと小川に沿って十五分ほど下った先にある。上町と下町の境界付近に立つ数少ない信号を過ぎると、下町だ。こうさか亭のようなレストラン、郵便局、銭湯、そして村役場。下町の方が人口が多く、航や結花は、ここから大祇小学校に通っている。
 こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……
 からんからん。

「いらっしゃいませ、相原くん」

 ……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。クラスの女子の中ではでいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。
 ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると……

「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」

 お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。

「ありがとうございます!」
「お待ちしてました。ささ、ご案内します」
 結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。

「まあ、きれいなマリーゴールド」

 んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。

「お待たせいたしました」

 あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。
 お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。
 ……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。

「お腹減っちゃって」

 そう言ってペロリと食べてしまった。
 食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。

(はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)

 そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。
 と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。
 こんこん。
 結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。

「あれ。相原くん、食べてくれた?」
「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」

 ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。

「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」

 そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。

「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」

 結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。

「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」
「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」
「静、なんだ、ニュースって」
「ふふ」

 お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。

「赤ちゃんがね、出来たの」