「ねえ、大丈夫? もう二週間ないよ?」
田ちゃんの不安そうな声掛けに、ユウをチラッと見る。
ユウはこちらを見ることなく床から立ち上がって、首からかけたタオルで大して汗をかいていない顔を無言のまま拭った。
「――大丈夫だとは思うけど、今日はいったん終わりにしてもいい? ここのところ連続でやってるから正直ちょっと疲れもたまってるんだと思う」
俺の言葉に、田ちゃんが「まあ確かに、二人だけみんなの倍やってるようなもんだもんね……。うん、今日は終わりにしとこっか。休憩も必要だよね」と答える。
「ありがと。向こうの劇の段取りがもっとちゃんと頭に入れば、こっちにも集中できると思うんだけど、なんか落ち着かなくて」
「急に順序が入れ替わったりしたからね。ユウくんはとくに大変よね」
田ちゃんがため息をつく。
先週、三年生の部員の一人が風呂場ですべって足を捻った。
もともとギリギリの人数でやっていたうえ、キーパーソン的な役で台詞も多かったため、抜けると劇が成り立たない。台詞を振り分けるか、という話にもなったが、そうなると一緒の場面で出る予定の二人の負担が大きすぎる。しかもそのうちの一人がユウだったので、雨衣役の稽古もある中、それもというのは、ちょっと無理だろうと判断された。
演劇祭までには普通に歩けるようになっている可能性が高いという話だったが、どちらにしろ練習には松葉づえで参加することになるし、本番に絶対に治っているという保証はない。
それなら、松葉杖で出ることを前提に進めたほうがいいだろうと、話の流れができるだけ不自然ではなく、かつ移動に無理がないようにと脚本担当と演出担当が全体のストーリーを組み替えたのが今週の頭。
もちろん、台詞もまったくそのままではおかしなことになるため、微妙に変わっている。その中でも、やはり一番大変なのは、ユウたちのグループだろうと思われた。
「まあ、『水仙の花束』はもう台詞は完璧だから、あとは諸々のタイミングだけって感じだしね。そこは、ゆーとまの絆に期待してるわ」
「了解」
「ユウくんも今日はゆっくり休んで」
「はい」
素直に頷いたユウは「お疲れさまでした」と頭を下げ、部屋の隅からペットボトルを拾い上げると、稽古場から出ていった。
田ちゃんと二人で残ったところで「……で、何があったの?」と聞かれる。
「なんも」
「なんもないわけないじゃん。確かにあっちの稽古も大変だけど、二人ともあれしきの変更でここまで影響を受けるような役者じゃないって分かってるよ、私」
「信用されてるなー」
「そりゃそうでしょ。しかも、二人とも普段の様子があまり変わらないから、演技してるときの噛み合わなさ加減が目立つのよ」
「そう言われてもな……ほんと、何もないとしか言えない」
ユウとプライベートで一緒に過ごさなくなってから十日以上経った。数か月前と同じ状態に戻っただけで、それ以外に何も変わったことはない。
一緒にご飯を食べに行くこともない。どっちかの家に行くこともない。部活に来て必要なことは話す、それだけ。本当に、何もないのだ。
「あぁ、でも一つ思い当たると言えば」
「うん」
「ちょっと前に、ミスターコンの活動でカットモデルしにいったじゃん。あのとき、演技中に俺の、というか成瀬の色気にその気になったりしないのかって聞かれて、それがすごい嫌だったみたいでさ」
「あー……」
俺はユウの出て言ったドアを眺めながら続ける。
「だから、特にラブシーンになるとその言葉が頭をよぎるんじゃないかな。前だったらもっとぐっと来てたのが少し引いてるっていうか。だから俺が今まで通りやろうとすると、微妙にずれる」
「なるほどね」
「あと、正直俺のほうも、色気を出して演じることに少しためらいがある。もっとユウが引いちゃうんじゃないかって不安で。その結果の、あれ」
「そっか」
田ちゃんが、ふーっと長いため息をつく。
「SNSでもそうだけどさ、男同士ってだけでそういうことを平気で言えちゃう人ってけっこういるよね」
「まあね」
「これが男女の劇でさ、もし彼女役の人の前で彼氏役の人に対して『この子の色気にその気になったりしないの』って男の人が聞いたら明らかにセクハラだし、演技がしにくくなるなんて目に見えてるじゃん」
「確かにね」
「なんか……ごめんね」
「なんで。田ちゃんが謝ることなんて一個もないし。一回ユウとも話してみるよ」
そう言いながらも、どうしようかな、と俺は考えた。
ユウとの間に立った垣根は、おいそれと乗り越えられるようなものではなくなってしまった。胸くらいまでの高さで、プライバシーを守りつつも気軽に話せる程度の垣根をイメージしていたのが、実際は見上げるほど高くそびえたった茨の垣根に拒否されているような状況である。
散々甘えておいて、急にもう大丈夫だからと言い出したことに呆れられるかもしれないとは思ったけれど、さすがにここまであからさまに距離を取られるとは思わなかった。
でも、このまま演技が噛み合わない状態で本番を迎えてしまったら、失敗に終わることは目に見えている。そんな舞台を演劇部代表として、お客さんの前で見せることはできないわけで、なんとかしてユウと話してわだかまりを少しでも減らす必要があった。
――でも、今のユウは俺が話そうって誘ったとしても、断ってきそうだしな
あんまりユウを騙すことはしたくないけど、江古田さんの名前を使わせてもらうしかないか、と考えながら、俺は田ちゃんを促して帰り支度を始めた。
*
翌日の昼、ミス・ミスターコンのメンバーは食堂に集められた。
コンテストの投票は、青竜祭の一週間前から始まる。つまり五日後からだ。
ウェブ投票と学園祭で設置する投票箱への投票、両方の集計でミス・ミスター東雅が決まることになっていて、それに向けて、最後のアピール動画を投票初日にあげることになっている。
それに先んじてウェブ上の投票ページに出ているポートレートは、この前美容院でカットモデルをしたときの写真だった。学園祭でも投票箱にこの写真が貼られるらしい。
「編集の時間も必要だから、できれば明後日までには撮り終えたいと思ってまーす」
事前にどこで撮りたいのか場所を決めておいてくれと言われていたので、配られた紙に載っている時間帯から選んで第三希望まで記入したあと、下の枠の中に中庭、と書く。ミスターコンの最初の動画を撮った場所だ。
自己紹介動画なんてどんな顔すればいいか分からないって言っていたユウのために、わざと巻き込んだんだよなと思い出す。あのときあんな余計なことをしなければ、俺とユウはこの数か月をもっと平和に過ごせていたはずだ。
でも、逆に言えば、あのとき乱入したからこそ、いろんな意味で忘れられない数か月になったとも言える。こんな濃い日々はもうきっとない気がする。ユウにとっては迷惑だったかもしれないけど。
斜め前の席に座っているユウが少し考えながら紙に書き込んでいるのを見て、どこで撮るつもりなんだろうと気になるが、これ以上ダルい先輩だと思われたくないので聞くのはやめておく。
ユウと言葉を交わすこともなく解散したあと、次のコマが空いていた俺は、中庭へと向かった。
中庭は、まだ秋というよりは夏の気配のほうが色濃く残っていた。でも、まだ夏だななんて思っているうちに、気がついたら秋になっていて、冬になっていて、春になっていて、そして演劇部をやめる日がすぐに来る。
そうなったら、ユウとの縁も完全に切れるんだろうなと思いながら、空いているベンチに腰掛けてミス・ミスターコン実行委員会のSNSを開いた俺は、久しぶりに最初の自己紹介の動画までさかのぼって、自分の画面をタップする。
同じ中庭だけど、緑が今よりも明るい感じだ。俺の髪も今より短くて、三カ月という時の流れを実感する。そのうち俺が移動し、ユウが画面に映る。肩を組みにいった俺に促され、あからさますぎる作り笑いをしたユウの顔を見て笑っていると、画面の中の俺が『僕ら演劇部の先輩後輩なんですけど、うちの部みんな仲良くて見てのとおり垣根なんてない感じで』と言い出す。
そのまま下手くそな宣伝をしてユウにツッコまれ、わちゃわちゃしている楽しそうな自分は、本当に垣根なんてないと思っているように見える。でも実際の自分は、周囲に垣根を張りめぐらせ、誰に対してもちょうどいい距離感を保つように心がけている人間だった。それが、自分にとっても周りの人にとっても最善だろうと思っていたから。
それなのに、ユウに対してだけ調子にのって垣根を取り除いて、その結果、ちょうどいい距離を保てなくなって、気まずくなってしまった。
自分には、やっぱり無理なのだろう。垣根を取り除かずに、誰かと付き合っていくことなど。
『俺もユウのほうが年下なのにけっこう影響を受けてる気がします』
『ラブシーンもユウとなら不安ゼロだし』
続けて、いい距離感であったからこそ屈託なくユウへの好意を口にする自分と、それを特に困った様子もなく受け入れてくれているユウを見ているうちに泣きたいような気持ちになり、俺はその動画を停止すると、代わりに昨日の自分の投稿を見にいくことにした。
昨日は、稽古の休憩中の自撮りを載せている。
「学園祭と演劇祭、両方の稽古が大詰めです」としか書いていないし、とくに面白い投稿でもないけど、有難いことにたくさんの人が見てくれていて、応援の言葉もたくさん書かれていた。
その中には『ゆーとまの写真をお恵みください』『ゆーとま不足』というコメントもあった。ここのところ、ユウがあんな感じなのでツーショットをあげられていない。カットモデルをしたときの「あまなる」風の写真が最後だ。
俺も「ゆーとま」の写真撮りたいんだけどね、と思いつつ一つ一つのコメントに「いいね」を押してスクロールしていくと、一つのコメントが目に留まる。
『そろそろミスターコンテストも終わるし、ゆーとまの絡みも少なくしていってるんだろうなー。もともと宣伝のためのカプ売りだし、本人たちもそういう目で見られて負担だったよね』
そんなことないけど、と心の中で反論しながら、そのコメントについている返信にも目を通す。
『分かりますー。ゆーとまはどう見てもただの仲のいい先輩後輩なのに、どうにかして恋愛に結び付けようとする人たちが気持ち悪い』
『本人たちの気持ちも考えなよって私も思います! 付き合ってるのはあまなるであって、ゆーとまじゃない! 夢見るのもいい加減にしろって感じ』
俺たちのことを考えてくれているのであろうコメントに、逆に傷つく自分はきっとどうかしている。
でも、どうしても「いいね」をそれらに押すことができないまま、俺はそっとコメント欄を閉じ、真夏よりも少し高くなったように見える空をぼんやりと眺めた。
*
『江古田さんが今日の稽古を見て、ちょっと話したいって。うち来れる?』
夜、ユウにLIMEを送ると、すぐに既読になった。
もし断られたらなんて言おうかと考える間もなく、画面にはすぐに『今から行きます』というメッセージが届いた。
ほっとしつつ、なんだか落ち着かない気分で部屋の中をウロウロとする。
今日の稽古に江古田さんが来ていたのは事実だ。
ただ、江古田さんが入るシーンでは俺ら二人が絡むことはないので、問題なく演じられたと思う。
ユウの演じる雨衣が江古田さんの演じる愛人に負けることも、もうない。対等に、もしかすると対等以上の存在感を無言のままでも出せるユウは、本当にいい役者になりつつある。
中学のとき陸上を怪我で辞めざるを得なくなり、なら演劇部で感情を覚えろと友達に勧誘されたのが、演劇を始めたきっかけだったとユウは言っていた。
『実際、普段はけっこう動かない感情を動かすっていうのが、思ったよりも気持ちよかったんですよね。筋トレをして筋肉を実感するみたいに、演技をすることで自分の感情を実感していったというか』
だから、あんまり感情がないように見えても、意外と内側ではいろんな感情が渦巻いてるんですよ、と淡々と言っていたけど、今はあのポーカーフェイスの下でどんな感情を抱えているんだろう。
そこを引き出せないことには、話し合ったとしてもうまくいかない気がした。
二十分ほどでチャイムが鳴り、ドアを開けにいく。
「いらっしゃい」
「ども」
久々に向かい合った気がするなと思う。もちろん演技中は向かい合ってるけど、それ以外ではこんな風に一対一で話すことは最近ない。
「入って」
「お邪魔します」
律儀に言って靴を脱ごうとしたユウが、動きを止める。
「……靴、透真さんのしかないですけど、江古田さんもう帰ったんですか」
「ごめん、本当のこと言えば、江古田さんは最初から来てないし、今日の演技についても特に何も言われてない」
「……」
「ただ、俺が話したいって言っても、ユウは来てくれないだろうって思ったから。悪い。騙すようなことして」
「あの、すみません、やっぱ俺」
「帰るのはなし」
ユウの腕をつかむとびくっとされた。
そこまで警戒しなくても、と胸が痛くなりながら続ける。
「分かってるだろ。このままじゃ舞台は確実に失敗する。ちゃんと一回話そう」
腕をつかまれたまま立ち尽くしていたユウが、諦めたように息を吐き、のろのろと靴を脱いだのを確認して、俺もようやく手を離す。
座卓の前の定位置にユウが座り、俺はその向かいに腰を下ろした。
コーラのペットボトルとチップスを用意しておいたが、いつもなら遠慮なく手を伸ばすそれらに目をくれることもなく、あぐらをかいている自分の足ばかりを見ているユウに話しかける。
「さっき、今日の演技について江古田さんから何も言われてないって言ったけど、あれ、間違い。帰るとき、雨衣がすごく良くなってるって褒めてた。俺もそう思う」
「ありがとうございます」
「だからこそ、俺と二人でやる部分もこんなもんじゃないって俺は思ってる」
返事を待つが、ユウは無言のままだった。取りつく島がないとはこのことだ。
最初からあまり核心に触れないほうがいいかと、俺は「あと、レコードの演出もいいって江古田さん言ってた」と続ける。
最後に愛人が花屋にくるシーンでも、雨衣は動揺を隠すようにレコードをかけにいく。
流れるのはジャズで、曲名は「All the things YOU ARE」。愛する人を称えあげ、いつの日かそのすべてが自分のものとなる奇跡を願う曲だ。
ユウが持っている中からタイトルだけで選んだ曲だったが、歌詞までもが雨衣の心情にマッチしていて、これが流れる中での二人の攻防はより劇的なものとなっているように見える。
観ている人には伝わらなくても、こういうこだわりを入れることで舞台というのはより命が吹き込まれていくのだ。
「レコードかけるのも、だいぶ手慣れたよな」
「ですね」
「あと、俺、今までジャズとか聞いたことなかったけどさ、いいよな。スマホでも舞台で使う曲いくつかダウンロードしたもん。でも、やっぱりレコードで聞いたほうが味わいが出る感じがする」
「それは分かります」
ようやくユウが視線をあげる。
「温かみがあるっていうか。俺もストリーミングで聞いたんですけど、ちょっと物足りないんですよね」
「だよな。なんなら、レコードが回り始めて針を落として音楽が始まるまでのあの数秒間すら音楽の一部って感じがする」
「始まるタイミングが分からないこその期待感みたいなのはありますね」
「そうそう」
ちゃんと会話ができていることに、自分でもそんなに?と思うほど嬉しい気持ちが湧いてくる。
「今度、生でジャズバンドの演奏聞きたいとも思ったな。探したら意外とコンサートもあるみたいだし」
「喫茶店とかそういうところでやったりすることもあるみたいですよね」
「あ、マジで? なんかそれいいな。コーヒーとか飲みながら聞けるとか最高じゃん。じゃあ」
今度一緒に、と言いかけて、口を閉じる。今誘ったところで、ユウが頷いてくれるとは思えないし、そんなことで無駄に傷つくもの嫌だ。
「……なんか、いい情報あったら教えて」
「分かりました」
会話が終わってしまい、また二人とも無言になる。相変わらずコーラもポテチも封を開かれることなくその場に置かれているだけだし、場をつなぐものが何もない。
もうこれ以上遠回りしていても仕方がないだろうと、俺は腹をくくってストレートに進めることにした。
「それでさ、舞台なんだけど」
少しだけゆるんでいたユウの雰囲気が、また固くなるのを感じる。
「俺と二人のシーン、とくにラブシーンのときがすごくやりにくそうじゃん」
「そんなことは」
「いや、さすがに分かるよ。まあ、原因も見当はついてる」
はっとしたようにユウが俺を見た。俺はその顔に頷いて見せる。
「男に対してその気になるんじゃないかとか言われたら、やりにくいよな。そういうイメージがつくんじゃないかって不安にもなるだろうし、抵抗感が出てくるのも分かるよ」
「ちが――」
「まあ、最後まで聞いて。正直なところ、俺もさ、ユウに無理させたくないし、あんまり色気を見せるような演技はしないほうがいいんじゃないかって思っちゃって、ちょっと演じ方が変わってる。その結果、お互いの演技があんだけ噛み合わないってことが起こってるんだと思う」
「……」
「だとすれば、解決方法としては、二つしかないよな。一つは、殺人犯を演じたからと言って、本当に殺人をしたとは思われないように、男同士の恋愛劇をしたからってそれが本気だとは思われないって割り切ること。実際SNSでも、俺らをそういう目で見るのはよくない、みたいな意見はあるし」
ユウが俺から目をそらし、また下を向く。簡単に割り切れるものではないということだろう。
「もう一つは、そういう色気みたいなものを徹底的に排除した状態で演技をするというもの。それはそれで、突き詰めれば固さのある美しさみたいなものを出せると思う。もちろん、演技のすり合わせはかなり気合をいれてやっていかないと間に合わないと思うけど、できないことはないし、一つの見せ方としてありなんじゃないかな」
黙ったままのユウに「もちろん、それでも男同士の恋愛劇を演じることには変わらないし、ユウにとっては不本意かもしれないけど、あと十日だけ、頑張ってもらえないかな」と話しかける。
「別に俺、不本意だとか、そんなこと思ってないです」
「そっか。それならいいけど。でも、まあ、二番目のやり方でいったほうがいいかな。俺の色気……って言えるほど色気なんてないと思うけど、ユウの演技の邪魔になるくらいならないほうがいいと思うし。まあ、男の色気なんて冷静になって見たら、引いちゃう気持ちは分かるよ」
ふと、幼稚園のときに、クラスの子に変だと言われたときのことが頭をよぎる。自分は最高だと思ってしていた行動が相手にとっては違和感のあるものだと気づけなかったあのときと、結局今も同じことをしているのかもしれない。
「もし、俺がやりすぎてて気持ち悪いって思ったら言ってくれてもいいよ。そんなんで嫌な気分にならないし。だからいい舞台になるように――」
「違います」
ユウが低い声で言う。
「気持ち悪いなんて思ったことないです。むしろ、気持ち悪いのは俺で」
「え?」
「すみません。そんな、透真さんが透真さん自身を落とすような、そんな必要はまったくなくて、本当に、俺の問題なんです」
ユウが、ゆっくりと自分の顔を両手で覆うのを、俺は意味が分からないまま見つめる。
「気持ち悪いのは、俺なんです」
「まってまって。なんで。何が気持ち悪いの」
俺の問いに、ユウはしばらく黙ったあと、顔を隠したまま話し出す。
「俺、経験がないんです」
「経験?」
「女の子とそういう経験をしたことが、ないんです。付き合った子にも、そうなる前に振られてるし」
「あぁ……」
「だから、経験がないから……透真さんの色気とか、そういうの意識しちゃってて」
思わぬ言葉に目を見開く。
拒否をしていたわけではなく、意識したせいでああなっていた?
「その気にならないのかって聞かれて、動揺したせいで、きっとバレたって思いました。だから、その、透真さんもあの日、距離を置こうって言ってきたのかもしれないって。そしたら、なんか、うまくできなくなって」
ユウが懺悔をするかのようにぽつぽつと話すのを俺は黙って聞く。
「すみません、透真さんは演技でちゃんと割り切ってやってるのに、俺だけ、こんなすごい失礼と言うか、嫌でしょ。そんな目で見られるの。気持ち悪いって自分でも思うし」
「いや、全然気持ち悪くないし」
気持ち悪いどころか、胸の奥からじわじわと嬉しさがにじみ出てくるのを感じる。
「むしろ良かったって思ってる。それなら何も問題ないじゃん。俺はそんな目で見られようとして演技してるんだから別に気にしないし、それに」
「俺が、気にするんです」
ユウが絞り出すように言う。
「俺が、自分のことを許せないんです」
そのつらそうな姿に、胸の中を埋めつつあった嬉しさが堰き止められる。
何がそれほどに、ユウを追い詰めているのだろう。同性をそういう目で見てしまう自分への嫌悪感があるということだろうか。それとも演技中にそういうことを考えてしまう自分を情けないと思ってしまうということだろうか。
理由も分からないのに、適当なことを言うわけにもいかず、両手に顔を埋めたまま頑なにあげようとしないユウのつむじを見つめる。
「――すみません、帰ります」
数分して、突然ユウが立ち上がった。
「演技のことは、自分でなんとかします。迷惑かけてすみませんでした」
うつむいたまま早口で言ったユウが玄関に向かうのを、自分も立ち上がって慌てて追いかける。
「待てって。まだ話終わってないだろ」
答えずに靴に足を突っ込むユウの腕を「ユウ」とつかむと、ばっと思い切り振り払われる。
一瞬怯むが、このまま帰すわけにはいかないと、また靴を履こうとする前に回りこみ「ユウ」と両腕をつかんで少しだけ上にある顔をのぞきこむ。
「俺は別にユウにそういう目で見られたとしても気にならないし、失礼だとも思わない。本当に。そのくらい本気で役に入り込んでるんだなって嬉しく思うだけで」
「……それは、透真さんが何も、知らないから」
俺から目をそらし、斜め下を見て呟くように言ったユウに「何を」と訊ねる。
「何か隠してんの、俺に」
「言えません」
「言わないと帰さないけど」
「言ったら、絶対に俺のこと嫌いになります」
「ならない」
「なります」
「絶対ならない。死んでもならない。誓ってもいい」
俺がしつこく言い張ると、ユウが少しだけ黙ったあとに諦めたようにふっと笑った。
「俺が、透真さんが寝てる隙に、透真さんの身体にキスをして、寝顔を見ながら抜いたとしてもですか」
一瞬、意味が分からず考えたあと、一気に顔が熱くなる。
「ちょっと待って。いつの話」
「合宿の最後の夜です。あのビデオのあと」
「えぇ……」
「ね、嫌いになったでしょ。正直にちゃんと話したし、もう帰らせてください」
「待って待って待って」
「……もう、勘弁してください。マジで。これ以上話すことはなんもないですって」
ユウが疲れてしまったかのように、玄関にしゃがみこむ。
俺はその両腕を持ったまま、膝の間に顔をうずめたユウにそっと訊ねる。
「なあ、なんで、そんなこと」
「童貞の、好奇心です」
間髪入れずに返ってきた答えに、そうか、と思う。
それと同時にやけに落ち込む気持ちになり、透真さんのことが好きだから、という答えをどこかで期待していた自分に気付かされる。
あぁ。
俺、ユウのこと好きなんだな
後輩としてではなく。恋愛対象として。
自分の気持ちを今さらながらに自覚した俺が黙っていると、沈黙に耐えられないようにユウが続けた。
「そんなつもりは全然なかったんです。ほんとに。だけど、透真さんの首が俺の爪でついた傷で赤くなってて、キスマークってこんな感じなのかなって考えてたら、あの日、朝田さんが、キスをする場所によっていろんな意味があるって教えてくれたのを思い出して」
ユウが説明するのを俺はただ聞き続ける。
「劇中では口を当てることはないけど、実際にしてみたら何か変わるのかなって、その、首にキスしたら、なんか、止まらなくなって。でも、そこまで変なところにはしてないです」
「どこにしたの」
「……首と、右の手首と、右の腕と」
ユウの腕をつかんでいる自分の右手を見る。ここにユウがキスをしたのかと思うと、胸が締め付けられるような気持ちになる。
「あと、胸と――胸って言っても、その、胸の真ん中の骨のところと、鎖骨、です」
「それで終わり?」
「はい――すみませんでした」
小さい声で謝るユウの前に、俺もしゃがみこむ。
「全然、大したことないじゃん」
「大したことあります」
「じゃあ、上書きするか」
ユウが、少しだけ目をあげて、俺を見る。
普段クールなユウの、泣きそうに揺れる瞳が愛しくて仕方がなく、俺は微笑んだ。
「さっき自分が許せないって言ってたってことは、罪悪感があるってことだろ。俺と合意のうえで一回上書きすればそこは解消されるじゃん」
「透真さん、話聞いてましたか」
「聞いてたよ」
「キスをしただけじゃないんです。俺、そのあと」
「分かってる」
ユウの顔をのぞきこんで「分かってるよ。でも生理現象だし、しょうがないだろ。俺も男だから、自分の意志とは関係なくそうなることがあるっていうのは分かるし」とできるだけ軽く答える。
「それに、一回がっつり触っておけば、劇の中で触るのにためらうこともなくなるんじゃないの」
必死過ぎないだろうか。
ユウに一度でいいから、触れてほしいという気持ちが漏れ出して、ユウを引かせてはいないだろうか。
少しだけ不安な気持ちで見ていると、しばらく黙っていたユウが小さな小さな声で「お願いします」と答えた。
カーテンの隙間から入って来る外の灯りだけを頼りに動くユウの手は、あの日の動画を見ているときにも感じたように、丁寧で、優しかった。
その唇が慎重におとすキスは、柔らかく、親密だった。
首筋にキスをされ、手首にキスをされ、腕にキスをされ、そのたびに、ユウの触れたところを中心にしびれのようなものが身体の表面に広がった。
「大丈夫ですか」
「もちろん」
微笑んで答えると、ユウはぎこちなく笑い返してきた。
その顔が胸元に沈み、胸の真ん中にゆっくりと唇が押し当てられる。
「なあ」
「はい」
「胸へのキスはどんな意味があるの」
「所有欲とか、独占欲とか、らしいです」
「そうなんだ」
「はい」
そこに気持ちはないとしても、所有欲や独占欲を意味するキスをされているということに、静かな喜びを感じる。
ユウの顔があがってきて、クセのある黒髪が頬に触れると同時に、鎖骨にそっとキスされる。
「ここの意味は?」
「……性的欲求、です」
そう答えたユウが、もう一度鎖骨にキスをし、背筋がぞくりとする。
慌てて誤魔化すように「よく覚えてるな、意味まで」と言うと、ユウが顔をあげて俺を見つめた。
「あれからずっと、キスをした場所と、その意味を、透真さんのことを見るたびに思いだしていたので」
「そっか」
これで、上書きは終わりだった。
でも、ユウは俺の上からどかず、俺も終わりだとは言えず、見つめ合ったままお互いの呼吸音だけが部屋の中に響く。
どうするのが正解なのか分からないまま、俺はそっと手を動かして、自分の顔の横に置かれたユウの腕に触れた。
その手を持ち上げて目を伏せ、さっきユウがしてくれたように手首に口づけると、ユウがびくりとした。
「――手首へのキスの意味は、なに」
「相手への強い好意と、あと」
ユウが低い声で答える。
「性的な欲求です」
伏せていた瞼を開き、またユウと目を合わせると、何かがカチリ、とはまったような感覚がした。演技のときにたまに感じる、相手と、自分の息がぴったり合ったときの、あの感覚。
吸い寄せられるようにユウの顔が近づき、俺は目を伏せて唇が重なるのを受け入れた。
田ちゃんの不安そうな声掛けに、ユウをチラッと見る。
ユウはこちらを見ることなく床から立ち上がって、首からかけたタオルで大して汗をかいていない顔を無言のまま拭った。
「――大丈夫だとは思うけど、今日はいったん終わりにしてもいい? ここのところ連続でやってるから正直ちょっと疲れもたまってるんだと思う」
俺の言葉に、田ちゃんが「まあ確かに、二人だけみんなの倍やってるようなもんだもんね……。うん、今日は終わりにしとこっか。休憩も必要だよね」と答える。
「ありがと。向こうの劇の段取りがもっとちゃんと頭に入れば、こっちにも集中できると思うんだけど、なんか落ち着かなくて」
「急に順序が入れ替わったりしたからね。ユウくんはとくに大変よね」
田ちゃんがため息をつく。
先週、三年生の部員の一人が風呂場ですべって足を捻った。
もともとギリギリの人数でやっていたうえ、キーパーソン的な役で台詞も多かったため、抜けると劇が成り立たない。台詞を振り分けるか、という話にもなったが、そうなると一緒の場面で出る予定の二人の負担が大きすぎる。しかもそのうちの一人がユウだったので、雨衣役の稽古もある中、それもというのは、ちょっと無理だろうと判断された。
演劇祭までには普通に歩けるようになっている可能性が高いという話だったが、どちらにしろ練習には松葉づえで参加することになるし、本番に絶対に治っているという保証はない。
それなら、松葉杖で出ることを前提に進めたほうがいいだろうと、話の流れができるだけ不自然ではなく、かつ移動に無理がないようにと脚本担当と演出担当が全体のストーリーを組み替えたのが今週の頭。
もちろん、台詞もまったくそのままではおかしなことになるため、微妙に変わっている。その中でも、やはり一番大変なのは、ユウたちのグループだろうと思われた。
「まあ、『水仙の花束』はもう台詞は完璧だから、あとは諸々のタイミングだけって感じだしね。そこは、ゆーとまの絆に期待してるわ」
「了解」
「ユウくんも今日はゆっくり休んで」
「はい」
素直に頷いたユウは「お疲れさまでした」と頭を下げ、部屋の隅からペットボトルを拾い上げると、稽古場から出ていった。
田ちゃんと二人で残ったところで「……で、何があったの?」と聞かれる。
「なんも」
「なんもないわけないじゃん。確かにあっちの稽古も大変だけど、二人ともあれしきの変更でここまで影響を受けるような役者じゃないって分かってるよ、私」
「信用されてるなー」
「そりゃそうでしょ。しかも、二人とも普段の様子があまり変わらないから、演技してるときの噛み合わなさ加減が目立つのよ」
「そう言われてもな……ほんと、何もないとしか言えない」
ユウとプライベートで一緒に過ごさなくなってから十日以上経った。数か月前と同じ状態に戻っただけで、それ以外に何も変わったことはない。
一緒にご飯を食べに行くこともない。どっちかの家に行くこともない。部活に来て必要なことは話す、それだけ。本当に、何もないのだ。
「あぁ、でも一つ思い当たると言えば」
「うん」
「ちょっと前に、ミスターコンの活動でカットモデルしにいったじゃん。あのとき、演技中に俺の、というか成瀬の色気にその気になったりしないのかって聞かれて、それがすごい嫌だったみたいでさ」
「あー……」
俺はユウの出て言ったドアを眺めながら続ける。
「だから、特にラブシーンになるとその言葉が頭をよぎるんじゃないかな。前だったらもっとぐっと来てたのが少し引いてるっていうか。だから俺が今まで通りやろうとすると、微妙にずれる」
「なるほどね」
「あと、正直俺のほうも、色気を出して演じることに少しためらいがある。もっとユウが引いちゃうんじゃないかって不安で。その結果の、あれ」
「そっか」
田ちゃんが、ふーっと長いため息をつく。
「SNSでもそうだけどさ、男同士ってだけでそういうことを平気で言えちゃう人ってけっこういるよね」
「まあね」
「これが男女の劇でさ、もし彼女役の人の前で彼氏役の人に対して『この子の色気にその気になったりしないの』って男の人が聞いたら明らかにセクハラだし、演技がしにくくなるなんて目に見えてるじゃん」
「確かにね」
「なんか……ごめんね」
「なんで。田ちゃんが謝ることなんて一個もないし。一回ユウとも話してみるよ」
そう言いながらも、どうしようかな、と俺は考えた。
ユウとの間に立った垣根は、おいそれと乗り越えられるようなものではなくなってしまった。胸くらいまでの高さで、プライバシーを守りつつも気軽に話せる程度の垣根をイメージしていたのが、実際は見上げるほど高くそびえたった茨の垣根に拒否されているような状況である。
散々甘えておいて、急にもう大丈夫だからと言い出したことに呆れられるかもしれないとは思ったけれど、さすがにここまであからさまに距離を取られるとは思わなかった。
でも、このまま演技が噛み合わない状態で本番を迎えてしまったら、失敗に終わることは目に見えている。そんな舞台を演劇部代表として、お客さんの前で見せることはできないわけで、なんとかしてユウと話してわだかまりを少しでも減らす必要があった。
――でも、今のユウは俺が話そうって誘ったとしても、断ってきそうだしな
あんまりユウを騙すことはしたくないけど、江古田さんの名前を使わせてもらうしかないか、と考えながら、俺は田ちゃんを促して帰り支度を始めた。
*
翌日の昼、ミス・ミスターコンのメンバーは食堂に集められた。
コンテストの投票は、青竜祭の一週間前から始まる。つまり五日後からだ。
ウェブ投票と学園祭で設置する投票箱への投票、両方の集計でミス・ミスター東雅が決まることになっていて、それに向けて、最後のアピール動画を投票初日にあげることになっている。
それに先んじてウェブ上の投票ページに出ているポートレートは、この前美容院でカットモデルをしたときの写真だった。学園祭でも投票箱にこの写真が貼られるらしい。
「編集の時間も必要だから、できれば明後日までには撮り終えたいと思ってまーす」
事前にどこで撮りたいのか場所を決めておいてくれと言われていたので、配られた紙に載っている時間帯から選んで第三希望まで記入したあと、下の枠の中に中庭、と書く。ミスターコンの最初の動画を撮った場所だ。
自己紹介動画なんてどんな顔すればいいか分からないって言っていたユウのために、わざと巻き込んだんだよなと思い出す。あのときあんな余計なことをしなければ、俺とユウはこの数か月をもっと平和に過ごせていたはずだ。
でも、逆に言えば、あのとき乱入したからこそ、いろんな意味で忘れられない数か月になったとも言える。こんな濃い日々はもうきっとない気がする。ユウにとっては迷惑だったかもしれないけど。
斜め前の席に座っているユウが少し考えながら紙に書き込んでいるのを見て、どこで撮るつもりなんだろうと気になるが、これ以上ダルい先輩だと思われたくないので聞くのはやめておく。
ユウと言葉を交わすこともなく解散したあと、次のコマが空いていた俺は、中庭へと向かった。
中庭は、まだ秋というよりは夏の気配のほうが色濃く残っていた。でも、まだ夏だななんて思っているうちに、気がついたら秋になっていて、冬になっていて、春になっていて、そして演劇部をやめる日がすぐに来る。
そうなったら、ユウとの縁も完全に切れるんだろうなと思いながら、空いているベンチに腰掛けてミス・ミスターコン実行委員会のSNSを開いた俺は、久しぶりに最初の自己紹介の動画までさかのぼって、自分の画面をタップする。
同じ中庭だけど、緑が今よりも明るい感じだ。俺の髪も今より短くて、三カ月という時の流れを実感する。そのうち俺が移動し、ユウが画面に映る。肩を組みにいった俺に促され、あからさますぎる作り笑いをしたユウの顔を見て笑っていると、画面の中の俺が『僕ら演劇部の先輩後輩なんですけど、うちの部みんな仲良くて見てのとおり垣根なんてない感じで』と言い出す。
そのまま下手くそな宣伝をしてユウにツッコまれ、わちゃわちゃしている楽しそうな自分は、本当に垣根なんてないと思っているように見える。でも実際の自分は、周囲に垣根を張りめぐらせ、誰に対してもちょうどいい距離感を保つように心がけている人間だった。それが、自分にとっても周りの人にとっても最善だろうと思っていたから。
それなのに、ユウに対してだけ調子にのって垣根を取り除いて、その結果、ちょうどいい距離を保てなくなって、気まずくなってしまった。
自分には、やっぱり無理なのだろう。垣根を取り除かずに、誰かと付き合っていくことなど。
『俺もユウのほうが年下なのにけっこう影響を受けてる気がします』
『ラブシーンもユウとなら不安ゼロだし』
続けて、いい距離感であったからこそ屈託なくユウへの好意を口にする自分と、それを特に困った様子もなく受け入れてくれているユウを見ているうちに泣きたいような気持ちになり、俺はその動画を停止すると、代わりに昨日の自分の投稿を見にいくことにした。
昨日は、稽古の休憩中の自撮りを載せている。
「学園祭と演劇祭、両方の稽古が大詰めです」としか書いていないし、とくに面白い投稿でもないけど、有難いことにたくさんの人が見てくれていて、応援の言葉もたくさん書かれていた。
その中には『ゆーとまの写真をお恵みください』『ゆーとま不足』というコメントもあった。ここのところ、ユウがあんな感じなのでツーショットをあげられていない。カットモデルをしたときの「あまなる」風の写真が最後だ。
俺も「ゆーとま」の写真撮りたいんだけどね、と思いつつ一つ一つのコメントに「いいね」を押してスクロールしていくと、一つのコメントが目に留まる。
『そろそろミスターコンテストも終わるし、ゆーとまの絡みも少なくしていってるんだろうなー。もともと宣伝のためのカプ売りだし、本人たちもそういう目で見られて負担だったよね』
そんなことないけど、と心の中で反論しながら、そのコメントについている返信にも目を通す。
『分かりますー。ゆーとまはどう見てもただの仲のいい先輩後輩なのに、どうにかして恋愛に結び付けようとする人たちが気持ち悪い』
『本人たちの気持ちも考えなよって私も思います! 付き合ってるのはあまなるであって、ゆーとまじゃない! 夢見るのもいい加減にしろって感じ』
俺たちのことを考えてくれているのであろうコメントに、逆に傷つく自分はきっとどうかしている。
でも、どうしても「いいね」をそれらに押すことができないまま、俺はそっとコメント欄を閉じ、真夏よりも少し高くなったように見える空をぼんやりと眺めた。
*
『江古田さんが今日の稽古を見て、ちょっと話したいって。うち来れる?』
夜、ユウにLIMEを送ると、すぐに既読になった。
もし断られたらなんて言おうかと考える間もなく、画面にはすぐに『今から行きます』というメッセージが届いた。
ほっとしつつ、なんだか落ち着かない気分で部屋の中をウロウロとする。
今日の稽古に江古田さんが来ていたのは事実だ。
ただ、江古田さんが入るシーンでは俺ら二人が絡むことはないので、問題なく演じられたと思う。
ユウの演じる雨衣が江古田さんの演じる愛人に負けることも、もうない。対等に、もしかすると対等以上の存在感を無言のままでも出せるユウは、本当にいい役者になりつつある。
中学のとき陸上を怪我で辞めざるを得なくなり、なら演劇部で感情を覚えろと友達に勧誘されたのが、演劇を始めたきっかけだったとユウは言っていた。
『実際、普段はけっこう動かない感情を動かすっていうのが、思ったよりも気持ちよかったんですよね。筋トレをして筋肉を実感するみたいに、演技をすることで自分の感情を実感していったというか』
だから、あんまり感情がないように見えても、意外と内側ではいろんな感情が渦巻いてるんですよ、と淡々と言っていたけど、今はあのポーカーフェイスの下でどんな感情を抱えているんだろう。
そこを引き出せないことには、話し合ったとしてもうまくいかない気がした。
二十分ほどでチャイムが鳴り、ドアを開けにいく。
「いらっしゃい」
「ども」
久々に向かい合った気がするなと思う。もちろん演技中は向かい合ってるけど、それ以外ではこんな風に一対一で話すことは最近ない。
「入って」
「お邪魔します」
律儀に言って靴を脱ごうとしたユウが、動きを止める。
「……靴、透真さんのしかないですけど、江古田さんもう帰ったんですか」
「ごめん、本当のこと言えば、江古田さんは最初から来てないし、今日の演技についても特に何も言われてない」
「……」
「ただ、俺が話したいって言っても、ユウは来てくれないだろうって思ったから。悪い。騙すようなことして」
「あの、すみません、やっぱ俺」
「帰るのはなし」
ユウの腕をつかむとびくっとされた。
そこまで警戒しなくても、と胸が痛くなりながら続ける。
「分かってるだろ。このままじゃ舞台は確実に失敗する。ちゃんと一回話そう」
腕をつかまれたまま立ち尽くしていたユウが、諦めたように息を吐き、のろのろと靴を脱いだのを確認して、俺もようやく手を離す。
座卓の前の定位置にユウが座り、俺はその向かいに腰を下ろした。
コーラのペットボトルとチップスを用意しておいたが、いつもなら遠慮なく手を伸ばすそれらに目をくれることもなく、あぐらをかいている自分の足ばかりを見ているユウに話しかける。
「さっき、今日の演技について江古田さんから何も言われてないって言ったけど、あれ、間違い。帰るとき、雨衣がすごく良くなってるって褒めてた。俺もそう思う」
「ありがとうございます」
「だからこそ、俺と二人でやる部分もこんなもんじゃないって俺は思ってる」
返事を待つが、ユウは無言のままだった。取りつく島がないとはこのことだ。
最初からあまり核心に触れないほうがいいかと、俺は「あと、レコードの演出もいいって江古田さん言ってた」と続ける。
最後に愛人が花屋にくるシーンでも、雨衣は動揺を隠すようにレコードをかけにいく。
流れるのはジャズで、曲名は「All the things YOU ARE」。愛する人を称えあげ、いつの日かそのすべてが自分のものとなる奇跡を願う曲だ。
ユウが持っている中からタイトルだけで選んだ曲だったが、歌詞までもが雨衣の心情にマッチしていて、これが流れる中での二人の攻防はより劇的なものとなっているように見える。
観ている人には伝わらなくても、こういうこだわりを入れることで舞台というのはより命が吹き込まれていくのだ。
「レコードかけるのも、だいぶ手慣れたよな」
「ですね」
「あと、俺、今までジャズとか聞いたことなかったけどさ、いいよな。スマホでも舞台で使う曲いくつかダウンロードしたもん。でも、やっぱりレコードで聞いたほうが味わいが出る感じがする」
「それは分かります」
ようやくユウが視線をあげる。
「温かみがあるっていうか。俺もストリーミングで聞いたんですけど、ちょっと物足りないんですよね」
「だよな。なんなら、レコードが回り始めて針を落として音楽が始まるまでのあの数秒間すら音楽の一部って感じがする」
「始まるタイミングが分からないこその期待感みたいなのはありますね」
「そうそう」
ちゃんと会話ができていることに、自分でもそんなに?と思うほど嬉しい気持ちが湧いてくる。
「今度、生でジャズバンドの演奏聞きたいとも思ったな。探したら意外とコンサートもあるみたいだし」
「喫茶店とかそういうところでやったりすることもあるみたいですよね」
「あ、マジで? なんかそれいいな。コーヒーとか飲みながら聞けるとか最高じゃん。じゃあ」
今度一緒に、と言いかけて、口を閉じる。今誘ったところで、ユウが頷いてくれるとは思えないし、そんなことで無駄に傷つくもの嫌だ。
「……なんか、いい情報あったら教えて」
「分かりました」
会話が終わってしまい、また二人とも無言になる。相変わらずコーラもポテチも封を開かれることなくその場に置かれているだけだし、場をつなぐものが何もない。
もうこれ以上遠回りしていても仕方がないだろうと、俺は腹をくくってストレートに進めることにした。
「それでさ、舞台なんだけど」
少しだけゆるんでいたユウの雰囲気が、また固くなるのを感じる。
「俺と二人のシーン、とくにラブシーンのときがすごくやりにくそうじゃん」
「そんなことは」
「いや、さすがに分かるよ。まあ、原因も見当はついてる」
はっとしたようにユウが俺を見た。俺はその顔に頷いて見せる。
「男に対してその気になるんじゃないかとか言われたら、やりにくいよな。そういうイメージがつくんじゃないかって不安にもなるだろうし、抵抗感が出てくるのも分かるよ」
「ちが――」
「まあ、最後まで聞いて。正直なところ、俺もさ、ユウに無理させたくないし、あんまり色気を見せるような演技はしないほうがいいんじゃないかって思っちゃって、ちょっと演じ方が変わってる。その結果、お互いの演技があんだけ噛み合わないってことが起こってるんだと思う」
「……」
「だとすれば、解決方法としては、二つしかないよな。一つは、殺人犯を演じたからと言って、本当に殺人をしたとは思われないように、男同士の恋愛劇をしたからってそれが本気だとは思われないって割り切ること。実際SNSでも、俺らをそういう目で見るのはよくない、みたいな意見はあるし」
ユウが俺から目をそらし、また下を向く。簡単に割り切れるものではないということだろう。
「もう一つは、そういう色気みたいなものを徹底的に排除した状態で演技をするというもの。それはそれで、突き詰めれば固さのある美しさみたいなものを出せると思う。もちろん、演技のすり合わせはかなり気合をいれてやっていかないと間に合わないと思うけど、できないことはないし、一つの見せ方としてありなんじゃないかな」
黙ったままのユウに「もちろん、それでも男同士の恋愛劇を演じることには変わらないし、ユウにとっては不本意かもしれないけど、あと十日だけ、頑張ってもらえないかな」と話しかける。
「別に俺、不本意だとか、そんなこと思ってないです」
「そっか。それならいいけど。でも、まあ、二番目のやり方でいったほうがいいかな。俺の色気……って言えるほど色気なんてないと思うけど、ユウの演技の邪魔になるくらいならないほうがいいと思うし。まあ、男の色気なんて冷静になって見たら、引いちゃう気持ちは分かるよ」
ふと、幼稚園のときに、クラスの子に変だと言われたときのことが頭をよぎる。自分は最高だと思ってしていた行動が相手にとっては違和感のあるものだと気づけなかったあのときと、結局今も同じことをしているのかもしれない。
「もし、俺がやりすぎてて気持ち悪いって思ったら言ってくれてもいいよ。そんなんで嫌な気分にならないし。だからいい舞台になるように――」
「違います」
ユウが低い声で言う。
「気持ち悪いなんて思ったことないです。むしろ、気持ち悪いのは俺で」
「え?」
「すみません。そんな、透真さんが透真さん自身を落とすような、そんな必要はまったくなくて、本当に、俺の問題なんです」
ユウが、ゆっくりと自分の顔を両手で覆うのを、俺は意味が分からないまま見つめる。
「気持ち悪いのは、俺なんです」
「まってまって。なんで。何が気持ち悪いの」
俺の問いに、ユウはしばらく黙ったあと、顔を隠したまま話し出す。
「俺、経験がないんです」
「経験?」
「女の子とそういう経験をしたことが、ないんです。付き合った子にも、そうなる前に振られてるし」
「あぁ……」
「だから、経験がないから……透真さんの色気とか、そういうの意識しちゃってて」
思わぬ言葉に目を見開く。
拒否をしていたわけではなく、意識したせいでああなっていた?
「その気にならないのかって聞かれて、動揺したせいで、きっとバレたって思いました。だから、その、透真さんもあの日、距離を置こうって言ってきたのかもしれないって。そしたら、なんか、うまくできなくなって」
ユウが懺悔をするかのようにぽつぽつと話すのを俺は黙って聞く。
「すみません、透真さんは演技でちゃんと割り切ってやってるのに、俺だけ、こんなすごい失礼と言うか、嫌でしょ。そんな目で見られるの。気持ち悪いって自分でも思うし」
「いや、全然気持ち悪くないし」
気持ち悪いどころか、胸の奥からじわじわと嬉しさがにじみ出てくるのを感じる。
「むしろ良かったって思ってる。それなら何も問題ないじゃん。俺はそんな目で見られようとして演技してるんだから別に気にしないし、それに」
「俺が、気にするんです」
ユウが絞り出すように言う。
「俺が、自分のことを許せないんです」
そのつらそうな姿に、胸の中を埋めつつあった嬉しさが堰き止められる。
何がそれほどに、ユウを追い詰めているのだろう。同性をそういう目で見てしまう自分への嫌悪感があるということだろうか。それとも演技中にそういうことを考えてしまう自分を情けないと思ってしまうということだろうか。
理由も分からないのに、適当なことを言うわけにもいかず、両手に顔を埋めたまま頑なにあげようとしないユウのつむじを見つめる。
「――すみません、帰ります」
数分して、突然ユウが立ち上がった。
「演技のことは、自分でなんとかします。迷惑かけてすみませんでした」
うつむいたまま早口で言ったユウが玄関に向かうのを、自分も立ち上がって慌てて追いかける。
「待てって。まだ話終わってないだろ」
答えずに靴に足を突っ込むユウの腕を「ユウ」とつかむと、ばっと思い切り振り払われる。
一瞬怯むが、このまま帰すわけにはいかないと、また靴を履こうとする前に回りこみ「ユウ」と両腕をつかんで少しだけ上にある顔をのぞきこむ。
「俺は別にユウにそういう目で見られたとしても気にならないし、失礼だとも思わない。本当に。そのくらい本気で役に入り込んでるんだなって嬉しく思うだけで」
「……それは、透真さんが何も、知らないから」
俺から目をそらし、斜め下を見て呟くように言ったユウに「何を」と訊ねる。
「何か隠してんの、俺に」
「言えません」
「言わないと帰さないけど」
「言ったら、絶対に俺のこと嫌いになります」
「ならない」
「なります」
「絶対ならない。死んでもならない。誓ってもいい」
俺がしつこく言い張ると、ユウが少しだけ黙ったあとに諦めたようにふっと笑った。
「俺が、透真さんが寝てる隙に、透真さんの身体にキスをして、寝顔を見ながら抜いたとしてもですか」
一瞬、意味が分からず考えたあと、一気に顔が熱くなる。
「ちょっと待って。いつの話」
「合宿の最後の夜です。あのビデオのあと」
「えぇ……」
「ね、嫌いになったでしょ。正直にちゃんと話したし、もう帰らせてください」
「待って待って待って」
「……もう、勘弁してください。マジで。これ以上話すことはなんもないですって」
ユウが疲れてしまったかのように、玄関にしゃがみこむ。
俺はその両腕を持ったまま、膝の間に顔をうずめたユウにそっと訊ねる。
「なあ、なんで、そんなこと」
「童貞の、好奇心です」
間髪入れずに返ってきた答えに、そうか、と思う。
それと同時にやけに落ち込む気持ちになり、透真さんのことが好きだから、という答えをどこかで期待していた自分に気付かされる。
あぁ。
俺、ユウのこと好きなんだな
後輩としてではなく。恋愛対象として。
自分の気持ちを今さらながらに自覚した俺が黙っていると、沈黙に耐えられないようにユウが続けた。
「そんなつもりは全然なかったんです。ほんとに。だけど、透真さんの首が俺の爪でついた傷で赤くなってて、キスマークってこんな感じなのかなって考えてたら、あの日、朝田さんが、キスをする場所によっていろんな意味があるって教えてくれたのを思い出して」
ユウが説明するのを俺はただ聞き続ける。
「劇中では口を当てることはないけど、実際にしてみたら何か変わるのかなって、その、首にキスしたら、なんか、止まらなくなって。でも、そこまで変なところにはしてないです」
「どこにしたの」
「……首と、右の手首と、右の腕と」
ユウの腕をつかんでいる自分の右手を見る。ここにユウがキスをしたのかと思うと、胸が締め付けられるような気持ちになる。
「あと、胸と――胸って言っても、その、胸の真ん中の骨のところと、鎖骨、です」
「それで終わり?」
「はい――すみませんでした」
小さい声で謝るユウの前に、俺もしゃがみこむ。
「全然、大したことないじゃん」
「大したことあります」
「じゃあ、上書きするか」
ユウが、少しだけ目をあげて、俺を見る。
普段クールなユウの、泣きそうに揺れる瞳が愛しくて仕方がなく、俺は微笑んだ。
「さっき自分が許せないって言ってたってことは、罪悪感があるってことだろ。俺と合意のうえで一回上書きすればそこは解消されるじゃん」
「透真さん、話聞いてましたか」
「聞いてたよ」
「キスをしただけじゃないんです。俺、そのあと」
「分かってる」
ユウの顔をのぞきこんで「分かってるよ。でも生理現象だし、しょうがないだろ。俺も男だから、自分の意志とは関係なくそうなることがあるっていうのは分かるし」とできるだけ軽く答える。
「それに、一回がっつり触っておけば、劇の中で触るのにためらうこともなくなるんじゃないの」
必死過ぎないだろうか。
ユウに一度でいいから、触れてほしいという気持ちが漏れ出して、ユウを引かせてはいないだろうか。
少しだけ不安な気持ちで見ていると、しばらく黙っていたユウが小さな小さな声で「お願いします」と答えた。
カーテンの隙間から入って来る外の灯りだけを頼りに動くユウの手は、あの日の動画を見ているときにも感じたように、丁寧で、優しかった。
その唇が慎重におとすキスは、柔らかく、親密だった。
首筋にキスをされ、手首にキスをされ、腕にキスをされ、そのたびに、ユウの触れたところを中心にしびれのようなものが身体の表面に広がった。
「大丈夫ですか」
「もちろん」
微笑んで答えると、ユウはぎこちなく笑い返してきた。
その顔が胸元に沈み、胸の真ん中にゆっくりと唇が押し当てられる。
「なあ」
「はい」
「胸へのキスはどんな意味があるの」
「所有欲とか、独占欲とか、らしいです」
「そうなんだ」
「はい」
そこに気持ちはないとしても、所有欲や独占欲を意味するキスをされているということに、静かな喜びを感じる。
ユウの顔があがってきて、クセのある黒髪が頬に触れると同時に、鎖骨にそっとキスされる。
「ここの意味は?」
「……性的欲求、です」
そう答えたユウが、もう一度鎖骨にキスをし、背筋がぞくりとする。
慌てて誤魔化すように「よく覚えてるな、意味まで」と言うと、ユウが顔をあげて俺を見つめた。
「あれからずっと、キスをした場所と、その意味を、透真さんのことを見るたびに思いだしていたので」
「そっか」
これで、上書きは終わりだった。
でも、ユウは俺の上からどかず、俺も終わりだとは言えず、見つめ合ったままお互いの呼吸音だけが部屋の中に響く。
どうするのが正解なのか分からないまま、俺はそっと手を動かして、自分の顔の横に置かれたユウの腕に触れた。
その手を持ち上げて目を伏せ、さっきユウがしてくれたように手首に口づけると、ユウがびくりとした。
「――手首へのキスの意味は、なに」
「相手への強い好意と、あと」
ユウが低い声で答える。
「性的な欲求です」
伏せていた瞼を開き、またユウと目を合わせると、何かがカチリ、とはまったような感覚がした。演技のときにたまに感じる、相手と、自分の息がぴったり合ったときの、あの感覚。
吸い寄せられるようにユウの顔が近づき、俺は目を伏せて唇が重なるのを受け入れた。



