結局、透真さんから一緒にいるようにするという言葉は聞けなかったが、自分からいけばいいだけだなと気付いた俺は、コンビニから戻ったあとはずっと透真さんの隣をキープし、次の日も朝ご飯のときから透真さんの近くにいるようにした。
「忠犬かよ」
つっこみながらも透真さんはニコニコしていて、その顔を見るとほっとした。
そんな俺らの様子に何か思うところがあったのか、透真さんと一緒にコンビニに行くはずだった子が「なんかごめんね、フォローさせちゃって」と言ってきたときにも「フォローしてるつもりないけど」と俺は答えた。
「ただ、俺が透真さんと一緒にいたいだけだから」
「そっか……あの、透真さん、昨日嫌な思いしてたよね」
「いや、むしろ気遣ってたよ。女の子を襲ったかもしれない男と二人きりって怖いだろうし、じゃんけんも参加しなきゃよかったなって反省してた」
「……」
ショックを受けたような顔をしたその子に声をかける。
「分かってるとは思うけど、透真さん、あんなことする人じゃないよ」
「うん」
頷いた彼女が、その後の休憩時間にペットボトル片手に透真さんに近寄っていくのを、俺はあえて少し離れたところから横目で見守った。
透真さんは話しかけられると少し驚いた顔をしたが、笑顔でペットボトルを受け取り、穏やかにその子と言葉を交わした。
その様子を見ていた別の女子もそこに加わり、そのうち笑い声も聞こえてきた。
良かった良かった、と思っていると、話し終えたらしい透真さんがこっちにやってきた。
「なんか俺のことフォローしてくれた?」
「なにも?」
そう答えると、透真さんは「ふーん?」とまったく信用していない口調で言いながら「そういやさっきのシーンさ」と俺の肩にくっつきながら手元にある台本を覗き込んだ。
*
今回、自分たちが演じる舞台は、登場人物がとても少ない。
主人公の成瀬と雨衣。そして、成瀬の二人の愛人。以上四名。
これは、大学の青竜祭が終わって間もなく始まる学生演劇祭で、多人数での群像劇をすることになっているからである。かなり入れ替わりも激しく複雑な内容となっており、そちらに集中できる部員を増やすため、青竜祭では少人数で、しかしキャッチ―な演目である「水仙の花束」を演ることになったのだ。
もちろん、演劇祭のほうにも透真さんと俺は出るので、両方の舞台の稽古をこの合宿内で行っているという状況である。
ちなみに成瀬の愛人役の一人目は、三年生の部員がすることになっている。台詞はほぼなく、花を何度か買いにくる場面に出て終わりということもあり、合宿一日目に合わせたあとは、出番の多いもう片方の劇の稽古に集中している。
そして、もう一人の愛人のほうも出番は少ないのだが、雨衣を打ちのめすという、言ってみれば最後に向けてのトリガー的な役割を担っているため、かなり重要な役どころである。
毎年青竜祭では、四月公演を終えて退部した四年生を一人招き友情出演をしてもらうことになっているため、今回はこの愛人役を、昨年度の部長である江古田さんにお願いすることになっていた。
その江古田さんと、「水仙の花束」の脚本を書いた朝田さんが合宿所にやってきたのは、四日目の昼前だった。
江古田さんは、卒業後も仕事をする傍ら劇団に入って役者を続けることにしている人で、演技への真剣度は人一倍高い。そんな江古田さんと、さらに俺らに台本を渡すときに熱く語ってくれた朝田さんに、自分の役作りがどういう評価を受けるのだろうと思って柄にもなく緊張しつつ、俺は口々に挨拶するみんなの後ろのほうから二人に頭を下げた。
「おー、お疲れ。あとからみんなのほうの稽古も見にいくからな。あとこれ差し入れ」
ありがとうございます、と田さんがお菓子の詰まった大きな袋を受け取り、みんなから歓声があがる。
そのまま部屋の中を見回した江古田さんは、俺の隣にいる透真さんを見つけると、「西原!!」と部員たちの間を抜けて向かってきた。
「お久しぶりです」
笑顔で言った透真さんに「久しぶり、じゃねーよお前。心配したじゃん」と江古田さんは答え、大きな身体でハグというよりも羽交い絞めのようにぎゅーっと抱きしめる。
「なんですか、痛い痛い」
笑いながら背中を叩いた透真さんを離した江古田さんが「お前、痩せたなぁ」と眉をひそめながら言う。
「え、そうですか」
「痩せたよ。ったく、ほんとろくでもねぇことに巻き込まれて災難だったな。ああいうのは交通事故と同じようなもんで、こっちが気を付けてても向こうが突っ込んで来たらどうしようもないもんな」
合宿が始まってから、誰も公には口にしていなかったことを、あまりにもあっけらかんと話題にされて、透真さんが気まずそうな顔になる。
「でも、あんな馬鹿なことするやつは、そのうち絶対何かしらで自爆するから大丈夫。今まで通り、真面目にやってればいいよ。それとも、俺のSNSとか使ってさ、どんだけ西原が酒に弱いかを証明する動画でも撮って反撃するか?」
「いや、そんなんで江古田さんまで巻き込むのはちょっと……」
「別に巻き込まれてもどうってことないよ」
江古田さんの言葉に、ようやく透真さんが笑顔になる。
「じゃあもし反撃の必要性が出てきたらお願いします」
「おう。いつでも言って。にしてもさ、髪が長いだけで遊び人って決めつけられてるの笑ったな」
「いや、笑えはしないですけど……」
「だってさぁ、実際の西原はめちゃくちゃゆめみ――」
モゴ、と言った江古田さんの口は、顔を赤くした透真さんに抑えられていた。
「忘れてくださいって言いましたよね」
「あ、イメージに関わる? 悪い悪い」
透真さんの手をどけて笑った江古田さんが「ま、とりあえず思ったより落ち着いてるみたいで良かった。じゃあこのあとよろしくな、愛人。先、着替えてくるわ」と部屋を出ていく。
その後姿を苦笑しながら見送る透真さんは、どことなく嬉しそうだった。
それはそうだろう。俺が頼まれるまでしようとも思わなかったハグを自分からしてきて、俺が二日経つまで気づかなかった透真さんの痩せ具合にもすぐ気づいて、さらに、みんなにも分かりやすく透真さんを信じていることをアピールした江古田さんの態度に、この人はとても救われたはずだ。
そして江古田さんの明るく力強い言葉は、部員たちの心のどこかにこびりついていた疑惑の大部分を拭い去っていっただろうとも思えた。自分には絶対できない言動を目の当たりにし、なんとも言えない無力感と苛立ちを抱えながら、俺はただ透真さんの隣に立っていた。
みんなとは別室で始まった江古田さんを含めた稽古は、自分にとって厳しいものとなった。
「鷹野くんの、雨衣の解釈は悪くないと思うの。その純粋さっていうものは、成瀬にとってはきっと眩しいものだし、惹かれるのも分かる。ただ、やっぱり江古田くんの愛人役と対峙したとき、完全に負けてしまってるから、このままだと成瀬が雨衣を選んだっていう説得力がなくなっちゃう」
何度か繰り返したあと、朝田さんは、自分の書いた台本を手に難しい顔で言った。田さんもその隣で、頷いている。
言われずとも、自分でも分かっていた。完全に気迫で負けている。
「もちろん、ここは雨衣が打ちのめされるわけだから負けてもいいんだけど、どう言えばいいのかなぁ、雨衣は芯の部分では負けちゃだめなのよ」
「芯の部分……」
「例えばさ」
江古田さんが立ち尽くす俺に、明るく話しかけてくる。
「鷹野に好きな人がいたとするだろ。実際いるかいないかは別として」
「……はい」
「鷹野はその人のことをめちゃくちゃ大事に思ってる。ところが、鷹野以外にもその人を好きなやつが急に現れた。しかも合コンで五日前に知り合ったばかり。ただし、相手は自分よりも何もかもにおいて高スペックでとても敵いそうにない」
「はい」
「このとき、まあ普通に負けた、と思うよな」
「そうですね」
まさにさっきの自分みたいだなと思う。
透真さんに俺がいて良かったって言われて、支えられるのは俺だけだって意気込んでいたけど、江古田さんの言動を見たら敵わないと思ってしまった。
「でも、正直なところ口惜しいとも思うだろ」
「それは、はい」
さっきの自分の苛立ちを思い返しながら頷く。
「じゃあなんで口惜しいと思うのかって話だよな」
なんで。
なんで口惜しいと俺は思ったのか。
「……自分のほうが、その人のことを想ってるのにっていう気持ちがあるから、です」
「うん。そういうことだよな。スペックは負けたとしても、気持ちは負けてないのにと思うから口惜しい。雨衣もそうだと思うよ。雨衣は確かに、愛人には敵わないと思って打ちのめされる。でも、自分のほうが成瀬を好きだっていうプライドは残してる。逆に言えば、そういうプライドがなければ雨衣は死ぬこともなかったんじゃないの。自分が愛人よりも成瀬を好きでも、成瀬は自分より愛人を間違いなく選ぶ、その不条理さがこそが辛いわけでさ」
言われたことを自分の中で反芻した俺は頷く。
「ありがとうございます。雨衣の気持ちがつかめてきた気がするので、もう一回やらせてください」
頭を下げた俺は、このシーンの出番がないので、部屋の隅であぐらをかいて見学している透真さんにちらっと視線を向ける。
俺の視線に気づいた透真さんが握りこぶしを持ち上げて、がんばれ、と口パクで応援してきた。
それに頷き返した俺は、大きく息を吸う。
――つまり、江古田さんに対して感じた気持ちを膨らませて、演技に活かせばいいってことだ
自分だけが透真さんのことを分かってあげられると言う傲慢な気持ち。それが実は自分だけでなかったと分かったときの無力感。自分よりも透真さんを安心させられる江古田さんの言動への口惜しさと敗北感。それでもきっと自分のほうが大事に思っているという自負。
それらをすべて抱え雨衣となった俺は、今まで目を逸らし気味だった成瀬の愛人と正面からまっすぐに向かい合った。
*
民宿の中はとても静かで、布団の上に横になる透真さんのかすかな寝息すらよく聞こえた。
これが正しいことかどうか分からない。
でも、これができるのは自分だけだ。
改めて、テーブルの上に置かれた二本の缶ビールをスマホで映した俺は、続けて布団の方へと向けたスマホをスタンドに固定する。
透真さんはまるで人形のようにピクリともしなかった。完全に熟睡態勢である。
「缶ビールを二本飲み切らないで、この状態です。ちなみに俺はノンアル飲んでました」
画面に向かって説明をし、横たわる透真さんをまたぐように膝立ちになる。自分の足でカメラから透真さんの上半身がほぼ画面に映らないのを確認したあと、俺は続けた。
「シャツを脱がされたらさすがに起きるから自分で脱いだんだろう、って意見も見ましたけど」
俺は透真さんのTシャツをめくり、そこから片方の腕を抜いてみせる、くったりとした透真さんの腕は俺にされるがままだ。
「このとおり、全然です。あの日、透真さんは前開きのシャツを着てたんで、もっと脱がせやすかったでしょうね」
説明しながらもう片方の腕も抜き、顔も抜く。最後に、後頭部に挟まったままのシャツを取るのに、頭ががくっとならないよう、首の後ろに腕を回して持ち上げると、透真さんの白い首がゆっくりとのけぞり唇が微かに開いた。
完全に脱げたTシャツを手に持った俺は、透真さんを抱えたまま画面に向かって「終わり」と告げ、そのシャツをスマホへそっと被せて目隠しをした。
ふう、と息を吐いて、透真さんの頭をゆっくりと布団に戻す。
今日は、江古田さんと朝田さんが来たこと、そして最後の夜ということで、みんなは飲みに行っている。
しかし、透真さんは飲みにはいかず残ると言ったので、俺も一緒に残ることにした。
みんなも、無理に行こうとは言わなかった。透真さんが外で飲みたくないというのは、あんな目にあった直後であることを思えば当然だったし、俺がコンビニに行ったあとから透真さんの番犬のようになっているのも、さすがに気付いていたからだろう。
透真さんも、俺が残ると聞いて『どうせ行けって言っても行かないだろうしな』と笑った。
『本物のマイペース人間なんで』
『けっこうその呼び名気に入ってるよな』
そんな会話をしながら、俺はこの二人きりになれる時間がチャンスかもしれないと思った。
江古田さんがSNSで反撃するかと言っていたけど、それは、ここ数日、自分が考えていたことでもあった。
透真さんが飲みながら女の子を襲うなんて無理なくらいに弱いこと。飲んだら熟睡態勢に入って何をされても起きないこと。これを証明しつつ、透真さんのカップル営業に俺が嫌々巻き込まれたという誤解もとく。そんな写真や動画を出せないだろうかと思っていたのだ。
そもそも、今回の騒動のきっかけは、自分たちが「ゆーとま」としてSNSで少し人気が出たからだったわけだし、だとしたら俺がSNSで発信するのが一番インパクトもある気がする。江古田さんじゃなく、俺が。
透真さんに二人で部屋で飲もうと持ち掛けると、じゃあつまみも買ってくるか、と乗ってくれ、俺たちは二人でコンビニまで飲み物とつまみを買いに行った。俺も、気分を出すためにノンアルビールを買った。
そして、せっかくなんで、と飲み始める前に二人で自撮りをし、俺はそのままビデオを回し始めたスマホを卓上に置いた。
あれ以来やっぱちょっとトラウマってほどじゃないかもしれないけど、飲む気になれなかったからなー、と言って飲み始めた透真さんは、久々のビールにめっちゃうまい、とはしゃぎ、そしてすぐ今日の稽古について熱く語り出した。
江古田さんに説明を受けたあとのユウの演技がめちゃくちゃ良くなってた、江古田さんの愛人が陽の強さを持っていたのに対して、ユウの雨衣は陰の強さが出ていてほんと芯の部分では負けてないってことが伝わったし、見応えがあった。
そう嬉しそうに話す透真さんに、江古田さんのおかげですけどねと答えると、だとしても、たったあれだけの言葉を自分なりに解釈してあそこまで表現を変えてくるユウの力がすごいよ、とまた褒められた。
それもある意味江古田さんのおかげなんですけどね、とは思ったけど言えなかった。江古田さんの透真さんへの態度を見て自分の中に出てきたネガティブな感情があったからこそ、それを演技に活かすことができたなんて、なんだか情けなさすぎた。
そのあとも江古田さんの演技や、朝田さんのこだわりについてひとしきり喋りつくした透真さんは、二本目を開けてすぐ『もう眠い』と言い出した。
『布団敷きましょうか』
『いや、そんな悪い』
『別に一分もかからないし。待ってて』
そう言って布団を敷くと、透真さんはそこまで這っていって『みんなが帰ってきたら起こして』と言った。
『起きれるならね』
『がんばる……』
呟いた透真さんはそのまま眠りに落ちていき、それを見届けた俺は稽古を記録するときに使うスマホのスタンドを出してきて、改めて撮影を始めたのだ。
いったん透真さんの上からどいて、スマホにかぶせたTシャツを取り録画を停止した俺は、もう一度Tシャツを着せようと透真さんのところへ戻る。
――ほんと、安心しきった顔してるな
そう思いながら左手で透真さんの右手首を持ちあげてTシャツに腕を通そうとすると、透真さんが突然寝返りを打って、俺の腕を抱え込むような態勢になった。
これじゃさすがに着させられないと、そっと左肩を押して仰向けの姿勢に戻す。
しかし顔だけは横を向いたままで、その伸ばされた左の首筋に何気なく視線を移すと、薄い赤い傷が目についた。
今日の稽古中、成瀬をソファに押し倒すシーンでバランスを崩しそうになり、咄嗟に支えたときに自分の爪によってついた傷だ。爪は短く切っていたけど、食い込んでしまったらしい。
透真さんは全然痛くないし、こんなの傷ともいえないと言っていたけど、やっぱり白いからここだけ赤いのが目立つ。キスマークとかと勘違いされないといいけど。と言っても、キスマークがどんなのか知らないから見た目が似ているかどうかも分からないわけだけど。
透真さんは誰かの首にキスマークつけたりつけられたりしたことあるのかな、とその傷を指でなぞると同時に、ふと『首へのキスっていうのは相手への執着心を表すんだって』という朝田さんの言葉が脳裏をよぎった。
今日の演技中、濡れ場へと突入するときに、あまり深く考えずに透真さんの身体に口づけるふりをしていたところ、キスにもする場所によって意味があって、と説明されたのだ。そこを意識すると少し違うかもと。
――相手への執着心、か
演技のときにはフリだけだけど、実際に触れたら何か感じるところはあるのだろうか。
しばらく透真さんの首筋を眺めたあと、傷あとにゆっくりと口を近づける。
唇に少し湿ってひんやりとした肌があたり、なぜか自分のほうがびくりとして慌てて離そうとすると、透真さんの肌が名残惜しそうに一瞬だけくっついてきた。
しばらく息をひそめて透真さんの寝顔と白い上半身を見つめる。
あとは、なんだっけ。どこにキスをするのが、どういう意味だった?
『腕は、相手への恋慕の情で、あと、手首って意外なんだけど、相手へのかなり強い好意とか性的な欲求とかが含まれてるみたい』
つかんだままだった透真さんの右腕に目をやる。そっと持ち上げて手首の内側に唇をあてる。一瞬透真さんのドクドクと打つ脈が感じられたような気がして、すぐにそれが自分の心臓の鼓動だと気づく。そのまま口を滑らせ、細いけれど綺麗に筋肉のついた二の腕に口を押し当てる。
『あとは胸と鎖骨。胸のほうが性的欲求が強そうだけど、実は鎖骨のほうが強いんだって。胸はどっちかっていうと所有欲とか独占欲とかの意味合いがあるみたい』
静かに上下する胸に顔を寄せる。両胸の間の胸骨にキスをし、顔をあげて鎖骨に口づけると「ん」と透真さんが声を漏らし、右に向けていた顔を正面に戻してまた静かに寝続ける。
その無邪気でしかない寝顔を前に、俺は自分の下半身へと右手を伸ばし、ジャージの中へとその手をねじ込んだ。
あがっていく息を唇を噛んで殺しながら、張りつめたものを上下にさすっていく。
分からない。本当に意味が分からないけど、どうしようもなく昂って仕方がなかった。
わずかに開いたまま、少し笑っているようにすら見える口元を見つめたまま呆気なく果てた俺は、手の中に自分の欲が溢れるのを感じながら、雨衣の隣に倒れこんだ成瀬のように呆然と身体を横たえた。
「忠犬かよ」
つっこみながらも透真さんはニコニコしていて、その顔を見るとほっとした。
そんな俺らの様子に何か思うところがあったのか、透真さんと一緒にコンビニに行くはずだった子が「なんかごめんね、フォローさせちゃって」と言ってきたときにも「フォローしてるつもりないけど」と俺は答えた。
「ただ、俺が透真さんと一緒にいたいだけだから」
「そっか……あの、透真さん、昨日嫌な思いしてたよね」
「いや、むしろ気遣ってたよ。女の子を襲ったかもしれない男と二人きりって怖いだろうし、じゃんけんも参加しなきゃよかったなって反省してた」
「……」
ショックを受けたような顔をしたその子に声をかける。
「分かってるとは思うけど、透真さん、あんなことする人じゃないよ」
「うん」
頷いた彼女が、その後の休憩時間にペットボトル片手に透真さんに近寄っていくのを、俺はあえて少し離れたところから横目で見守った。
透真さんは話しかけられると少し驚いた顔をしたが、笑顔でペットボトルを受け取り、穏やかにその子と言葉を交わした。
その様子を見ていた別の女子もそこに加わり、そのうち笑い声も聞こえてきた。
良かった良かった、と思っていると、話し終えたらしい透真さんがこっちにやってきた。
「なんか俺のことフォローしてくれた?」
「なにも?」
そう答えると、透真さんは「ふーん?」とまったく信用していない口調で言いながら「そういやさっきのシーンさ」と俺の肩にくっつきながら手元にある台本を覗き込んだ。
*
今回、自分たちが演じる舞台は、登場人物がとても少ない。
主人公の成瀬と雨衣。そして、成瀬の二人の愛人。以上四名。
これは、大学の青竜祭が終わって間もなく始まる学生演劇祭で、多人数での群像劇をすることになっているからである。かなり入れ替わりも激しく複雑な内容となっており、そちらに集中できる部員を増やすため、青竜祭では少人数で、しかしキャッチ―な演目である「水仙の花束」を演ることになったのだ。
もちろん、演劇祭のほうにも透真さんと俺は出るので、両方の舞台の稽古をこの合宿内で行っているという状況である。
ちなみに成瀬の愛人役の一人目は、三年生の部員がすることになっている。台詞はほぼなく、花を何度か買いにくる場面に出て終わりということもあり、合宿一日目に合わせたあとは、出番の多いもう片方の劇の稽古に集中している。
そして、もう一人の愛人のほうも出番は少ないのだが、雨衣を打ちのめすという、言ってみれば最後に向けてのトリガー的な役割を担っているため、かなり重要な役どころである。
毎年青竜祭では、四月公演を終えて退部した四年生を一人招き友情出演をしてもらうことになっているため、今回はこの愛人役を、昨年度の部長である江古田さんにお願いすることになっていた。
その江古田さんと、「水仙の花束」の脚本を書いた朝田さんが合宿所にやってきたのは、四日目の昼前だった。
江古田さんは、卒業後も仕事をする傍ら劇団に入って役者を続けることにしている人で、演技への真剣度は人一倍高い。そんな江古田さんと、さらに俺らに台本を渡すときに熱く語ってくれた朝田さんに、自分の役作りがどういう評価を受けるのだろうと思って柄にもなく緊張しつつ、俺は口々に挨拶するみんなの後ろのほうから二人に頭を下げた。
「おー、お疲れ。あとからみんなのほうの稽古も見にいくからな。あとこれ差し入れ」
ありがとうございます、と田さんがお菓子の詰まった大きな袋を受け取り、みんなから歓声があがる。
そのまま部屋の中を見回した江古田さんは、俺の隣にいる透真さんを見つけると、「西原!!」と部員たちの間を抜けて向かってきた。
「お久しぶりです」
笑顔で言った透真さんに「久しぶり、じゃねーよお前。心配したじゃん」と江古田さんは答え、大きな身体でハグというよりも羽交い絞めのようにぎゅーっと抱きしめる。
「なんですか、痛い痛い」
笑いながら背中を叩いた透真さんを離した江古田さんが「お前、痩せたなぁ」と眉をひそめながら言う。
「え、そうですか」
「痩せたよ。ったく、ほんとろくでもねぇことに巻き込まれて災難だったな。ああいうのは交通事故と同じようなもんで、こっちが気を付けてても向こうが突っ込んで来たらどうしようもないもんな」
合宿が始まってから、誰も公には口にしていなかったことを、あまりにもあっけらかんと話題にされて、透真さんが気まずそうな顔になる。
「でも、あんな馬鹿なことするやつは、そのうち絶対何かしらで自爆するから大丈夫。今まで通り、真面目にやってればいいよ。それとも、俺のSNSとか使ってさ、どんだけ西原が酒に弱いかを証明する動画でも撮って反撃するか?」
「いや、そんなんで江古田さんまで巻き込むのはちょっと……」
「別に巻き込まれてもどうってことないよ」
江古田さんの言葉に、ようやく透真さんが笑顔になる。
「じゃあもし反撃の必要性が出てきたらお願いします」
「おう。いつでも言って。にしてもさ、髪が長いだけで遊び人って決めつけられてるの笑ったな」
「いや、笑えはしないですけど……」
「だってさぁ、実際の西原はめちゃくちゃゆめみ――」
モゴ、と言った江古田さんの口は、顔を赤くした透真さんに抑えられていた。
「忘れてくださいって言いましたよね」
「あ、イメージに関わる? 悪い悪い」
透真さんの手をどけて笑った江古田さんが「ま、とりあえず思ったより落ち着いてるみたいで良かった。じゃあこのあとよろしくな、愛人。先、着替えてくるわ」と部屋を出ていく。
その後姿を苦笑しながら見送る透真さんは、どことなく嬉しそうだった。
それはそうだろう。俺が頼まれるまでしようとも思わなかったハグを自分からしてきて、俺が二日経つまで気づかなかった透真さんの痩せ具合にもすぐ気づいて、さらに、みんなにも分かりやすく透真さんを信じていることをアピールした江古田さんの態度に、この人はとても救われたはずだ。
そして江古田さんの明るく力強い言葉は、部員たちの心のどこかにこびりついていた疑惑の大部分を拭い去っていっただろうとも思えた。自分には絶対できない言動を目の当たりにし、なんとも言えない無力感と苛立ちを抱えながら、俺はただ透真さんの隣に立っていた。
みんなとは別室で始まった江古田さんを含めた稽古は、自分にとって厳しいものとなった。
「鷹野くんの、雨衣の解釈は悪くないと思うの。その純粋さっていうものは、成瀬にとってはきっと眩しいものだし、惹かれるのも分かる。ただ、やっぱり江古田くんの愛人役と対峙したとき、完全に負けてしまってるから、このままだと成瀬が雨衣を選んだっていう説得力がなくなっちゃう」
何度か繰り返したあと、朝田さんは、自分の書いた台本を手に難しい顔で言った。田さんもその隣で、頷いている。
言われずとも、自分でも分かっていた。完全に気迫で負けている。
「もちろん、ここは雨衣が打ちのめされるわけだから負けてもいいんだけど、どう言えばいいのかなぁ、雨衣は芯の部分では負けちゃだめなのよ」
「芯の部分……」
「例えばさ」
江古田さんが立ち尽くす俺に、明るく話しかけてくる。
「鷹野に好きな人がいたとするだろ。実際いるかいないかは別として」
「……はい」
「鷹野はその人のことをめちゃくちゃ大事に思ってる。ところが、鷹野以外にもその人を好きなやつが急に現れた。しかも合コンで五日前に知り合ったばかり。ただし、相手は自分よりも何もかもにおいて高スペックでとても敵いそうにない」
「はい」
「このとき、まあ普通に負けた、と思うよな」
「そうですね」
まさにさっきの自分みたいだなと思う。
透真さんに俺がいて良かったって言われて、支えられるのは俺だけだって意気込んでいたけど、江古田さんの言動を見たら敵わないと思ってしまった。
「でも、正直なところ口惜しいとも思うだろ」
「それは、はい」
さっきの自分の苛立ちを思い返しながら頷く。
「じゃあなんで口惜しいと思うのかって話だよな」
なんで。
なんで口惜しいと俺は思ったのか。
「……自分のほうが、その人のことを想ってるのにっていう気持ちがあるから、です」
「うん。そういうことだよな。スペックは負けたとしても、気持ちは負けてないのにと思うから口惜しい。雨衣もそうだと思うよ。雨衣は確かに、愛人には敵わないと思って打ちのめされる。でも、自分のほうが成瀬を好きだっていうプライドは残してる。逆に言えば、そういうプライドがなければ雨衣は死ぬこともなかったんじゃないの。自分が愛人よりも成瀬を好きでも、成瀬は自分より愛人を間違いなく選ぶ、その不条理さがこそが辛いわけでさ」
言われたことを自分の中で反芻した俺は頷く。
「ありがとうございます。雨衣の気持ちがつかめてきた気がするので、もう一回やらせてください」
頭を下げた俺は、このシーンの出番がないので、部屋の隅であぐらをかいて見学している透真さんにちらっと視線を向ける。
俺の視線に気づいた透真さんが握りこぶしを持ち上げて、がんばれ、と口パクで応援してきた。
それに頷き返した俺は、大きく息を吸う。
――つまり、江古田さんに対して感じた気持ちを膨らませて、演技に活かせばいいってことだ
自分だけが透真さんのことを分かってあげられると言う傲慢な気持ち。それが実は自分だけでなかったと分かったときの無力感。自分よりも透真さんを安心させられる江古田さんの言動への口惜しさと敗北感。それでもきっと自分のほうが大事に思っているという自負。
それらをすべて抱え雨衣となった俺は、今まで目を逸らし気味だった成瀬の愛人と正面からまっすぐに向かい合った。
*
民宿の中はとても静かで、布団の上に横になる透真さんのかすかな寝息すらよく聞こえた。
これが正しいことかどうか分からない。
でも、これができるのは自分だけだ。
改めて、テーブルの上に置かれた二本の缶ビールをスマホで映した俺は、続けて布団の方へと向けたスマホをスタンドに固定する。
透真さんはまるで人形のようにピクリともしなかった。完全に熟睡態勢である。
「缶ビールを二本飲み切らないで、この状態です。ちなみに俺はノンアル飲んでました」
画面に向かって説明をし、横たわる透真さんをまたぐように膝立ちになる。自分の足でカメラから透真さんの上半身がほぼ画面に映らないのを確認したあと、俺は続けた。
「シャツを脱がされたらさすがに起きるから自分で脱いだんだろう、って意見も見ましたけど」
俺は透真さんのTシャツをめくり、そこから片方の腕を抜いてみせる、くったりとした透真さんの腕は俺にされるがままだ。
「このとおり、全然です。あの日、透真さんは前開きのシャツを着てたんで、もっと脱がせやすかったでしょうね」
説明しながらもう片方の腕も抜き、顔も抜く。最後に、後頭部に挟まったままのシャツを取るのに、頭ががくっとならないよう、首の後ろに腕を回して持ち上げると、透真さんの白い首がゆっくりとのけぞり唇が微かに開いた。
完全に脱げたTシャツを手に持った俺は、透真さんを抱えたまま画面に向かって「終わり」と告げ、そのシャツをスマホへそっと被せて目隠しをした。
ふう、と息を吐いて、透真さんの頭をゆっくりと布団に戻す。
今日は、江古田さんと朝田さんが来たこと、そして最後の夜ということで、みんなは飲みに行っている。
しかし、透真さんは飲みにはいかず残ると言ったので、俺も一緒に残ることにした。
みんなも、無理に行こうとは言わなかった。透真さんが外で飲みたくないというのは、あんな目にあった直後であることを思えば当然だったし、俺がコンビニに行ったあとから透真さんの番犬のようになっているのも、さすがに気付いていたからだろう。
透真さんも、俺が残ると聞いて『どうせ行けって言っても行かないだろうしな』と笑った。
『本物のマイペース人間なんで』
『けっこうその呼び名気に入ってるよな』
そんな会話をしながら、俺はこの二人きりになれる時間がチャンスかもしれないと思った。
江古田さんがSNSで反撃するかと言っていたけど、それは、ここ数日、自分が考えていたことでもあった。
透真さんが飲みながら女の子を襲うなんて無理なくらいに弱いこと。飲んだら熟睡態勢に入って何をされても起きないこと。これを証明しつつ、透真さんのカップル営業に俺が嫌々巻き込まれたという誤解もとく。そんな写真や動画を出せないだろうかと思っていたのだ。
そもそも、今回の騒動のきっかけは、自分たちが「ゆーとま」としてSNSで少し人気が出たからだったわけだし、だとしたら俺がSNSで発信するのが一番インパクトもある気がする。江古田さんじゃなく、俺が。
透真さんに二人で部屋で飲もうと持ち掛けると、じゃあつまみも買ってくるか、と乗ってくれ、俺たちは二人でコンビニまで飲み物とつまみを買いに行った。俺も、気分を出すためにノンアルビールを買った。
そして、せっかくなんで、と飲み始める前に二人で自撮りをし、俺はそのままビデオを回し始めたスマホを卓上に置いた。
あれ以来やっぱちょっとトラウマってほどじゃないかもしれないけど、飲む気になれなかったからなー、と言って飲み始めた透真さんは、久々のビールにめっちゃうまい、とはしゃぎ、そしてすぐ今日の稽古について熱く語り出した。
江古田さんに説明を受けたあとのユウの演技がめちゃくちゃ良くなってた、江古田さんの愛人が陽の強さを持っていたのに対して、ユウの雨衣は陰の強さが出ていてほんと芯の部分では負けてないってことが伝わったし、見応えがあった。
そう嬉しそうに話す透真さんに、江古田さんのおかげですけどねと答えると、だとしても、たったあれだけの言葉を自分なりに解釈してあそこまで表現を変えてくるユウの力がすごいよ、とまた褒められた。
それもある意味江古田さんのおかげなんですけどね、とは思ったけど言えなかった。江古田さんの透真さんへの態度を見て自分の中に出てきたネガティブな感情があったからこそ、それを演技に活かすことができたなんて、なんだか情けなさすぎた。
そのあとも江古田さんの演技や、朝田さんのこだわりについてひとしきり喋りつくした透真さんは、二本目を開けてすぐ『もう眠い』と言い出した。
『布団敷きましょうか』
『いや、そんな悪い』
『別に一分もかからないし。待ってて』
そう言って布団を敷くと、透真さんはそこまで這っていって『みんなが帰ってきたら起こして』と言った。
『起きれるならね』
『がんばる……』
呟いた透真さんはそのまま眠りに落ちていき、それを見届けた俺は稽古を記録するときに使うスマホのスタンドを出してきて、改めて撮影を始めたのだ。
いったん透真さんの上からどいて、スマホにかぶせたTシャツを取り録画を停止した俺は、もう一度Tシャツを着せようと透真さんのところへ戻る。
――ほんと、安心しきった顔してるな
そう思いながら左手で透真さんの右手首を持ちあげてTシャツに腕を通そうとすると、透真さんが突然寝返りを打って、俺の腕を抱え込むような態勢になった。
これじゃさすがに着させられないと、そっと左肩を押して仰向けの姿勢に戻す。
しかし顔だけは横を向いたままで、その伸ばされた左の首筋に何気なく視線を移すと、薄い赤い傷が目についた。
今日の稽古中、成瀬をソファに押し倒すシーンでバランスを崩しそうになり、咄嗟に支えたときに自分の爪によってついた傷だ。爪は短く切っていたけど、食い込んでしまったらしい。
透真さんは全然痛くないし、こんなの傷ともいえないと言っていたけど、やっぱり白いからここだけ赤いのが目立つ。キスマークとかと勘違いされないといいけど。と言っても、キスマークがどんなのか知らないから見た目が似ているかどうかも分からないわけだけど。
透真さんは誰かの首にキスマークつけたりつけられたりしたことあるのかな、とその傷を指でなぞると同時に、ふと『首へのキスっていうのは相手への執着心を表すんだって』という朝田さんの言葉が脳裏をよぎった。
今日の演技中、濡れ場へと突入するときに、あまり深く考えずに透真さんの身体に口づけるふりをしていたところ、キスにもする場所によって意味があって、と説明されたのだ。そこを意識すると少し違うかもと。
――相手への執着心、か
演技のときにはフリだけだけど、実際に触れたら何か感じるところはあるのだろうか。
しばらく透真さんの首筋を眺めたあと、傷あとにゆっくりと口を近づける。
唇に少し湿ってひんやりとした肌があたり、なぜか自分のほうがびくりとして慌てて離そうとすると、透真さんの肌が名残惜しそうに一瞬だけくっついてきた。
しばらく息をひそめて透真さんの寝顔と白い上半身を見つめる。
あとは、なんだっけ。どこにキスをするのが、どういう意味だった?
『腕は、相手への恋慕の情で、あと、手首って意外なんだけど、相手へのかなり強い好意とか性的な欲求とかが含まれてるみたい』
つかんだままだった透真さんの右腕に目をやる。そっと持ち上げて手首の内側に唇をあてる。一瞬透真さんのドクドクと打つ脈が感じられたような気がして、すぐにそれが自分の心臓の鼓動だと気づく。そのまま口を滑らせ、細いけれど綺麗に筋肉のついた二の腕に口を押し当てる。
『あとは胸と鎖骨。胸のほうが性的欲求が強そうだけど、実は鎖骨のほうが強いんだって。胸はどっちかっていうと所有欲とか独占欲とかの意味合いがあるみたい』
静かに上下する胸に顔を寄せる。両胸の間の胸骨にキスをし、顔をあげて鎖骨に口づけると「ん」と透真さんが声を漏らし、右に向けていた顔を正面に戻してまた静かに寝続ける。
その無邪気でしかない寝顔を前に、俺は自分の下半身へと右手を伸ばし、ジャージの中へとその手をねじ込んだ。
あがっていく息を唇を噛んで殺しながら、張りつめたものを上下にさすっていく。
分からない。本当に意味が分からないけど、どうしようもなく昂って仕方がなかった。
わずかに開いたまま、少し笑っているようにすら見える口元を見つめたまま呆気なく果てた俺は、手の中に自分の欲が溢れるのを感じながら、雨衣の隣に倒れこんだ成瀬のように呆然と身体を横たえた。



