窓の外を黒い竜が飛んでいる。空を泳ぐが如く悠々と、のびのびと。
「気持ち良さそうに飛ぶのね、唯玉様は」
竜が空を飛ぶのは瑞兆である。
立后のこの日、自ら飛んで言い触らして回っているのだ。
昨年媚薬を飲んだ日、戯れながら言われた。
「共にいてほしい。皇后なら誰憚ることなく一緒にいられる。九嬪は据え置きだし、新しい四夫人は置かない。我はそのくらいでないと安心出来ない」
随分とまた強権的なと思った。
本音の本音は後宮を閉めて女官を残し女人は全て家に帰してしまいたいそうだ。後宮の女官は須く妃ですよ、と喉まで出掛かったが厄介なことになりそうだったので黙っている。美羽とて猫の女官とは離れたくなかった。
「それはもうご機嫌ですよ。主上は機嫌がいいとほんのり耳が赤くなられるんです」
隣で同じく空を眺めていた猫娜が秘密を教えてくれる。
「そうなの? 気がつかなかったわ」
「美羽様をお傍に置かれてから常にご機嫌でしたから、存じ上げないだろうと思いました」
乳母の目は鋭い。
猫娜には頭が上がらないだろうな、と思う。
「娘娘、蛾偉様がお見えになりました」
外で控えていた芽衣が来訪を告げる。上から三番目の兄が来たらしい。
蛾家は多産の家系で、以前に唯玉から「兄と仲が悪いのか?」と訊かれた時に「兄とは何番目のことを申しておりますか?」と聞き返したことがある。長兄と次兄は顕現がなかったため、母の姓である金を名乗って出仕している。わざわざ蛾であると喧伝する必要がないからだ。唯玉はそれを知らなかったそうだ。
蛾偉は一番の出世頭だが、仲が悪い覚えはない。唯玉が言うには無理矢理後宮に押し込んだと悔いている様子、ということだったが兄三人の共通の意思だったと認識している。詳しくは知らないが良くない縁談があり、後宮に逃がしてくれたのだ。逃げた先で虐めに遭ったのは、それは事故だろう。
事の次第を兄たちに手紙で送ってみると、長兄と次兄は「元気ならばそれでいい」と返ってきた。長兄は様子を見に来てくれもした。余計なものを置いていったが。蛾偉は「会いたいけど、決心がつかない」と返してきた。それが夏頃の話で、結局年を越して桃の季節である。少し湿っぽい気質のある三兄が出世頭で大丈夫かな、と思ったりもした。
正式に立后したら蛾偉はより寄り付かなくなるなるのではないか、と唯玉に言われ一理あると思った美羽は三兄を呼び出した次第である。
虹霓宮の居間に入ってきた蛾偉は、素早く跪拝し口上を述べる。
「皇后娘娘におかれましてはご機嫌麗しく、この佳き日にお目通り叶いましたことを大変有り難く存じます」
「偉兄は卑屈ねぇ。兄らしいこと言えないの?」
ぴくりとも動かず沈黙している蛾偉に好き勝手言うことにした。
「妹に対して結婚おめでとうとか、悪いと感じているなら悪かったとか、言ったらどうなの」
「美羽よ、許可してやらねばそやつは喋らぬのでは」
助け船を出す声に振り向くと、いつの間にか龍袍を纏った唯玉が室内にいた。空の散歩から戻ったらしい。
「まあ! 勝手に喋ってよ。首が飛んだりしないわ」
美羽の言い分に蛾偉は螟蛾の翅を震わせる。
ようやく顔を上げたかと思うと兄は泣いていた。
「本当に、元気そうで」
それ以上言葉が続かない。
仕方がないので袂から手巾を取り出し手渡す。
「泣き止んでよ。儀式にも参列するんでしょ」
「だってこんなに立派になって……! 俺たちの姫が」
どうしようこの兄、と助け求めて唯玉を見るが緩く首を振られるだけだった。
立派に見えるのは化粧と豪華な婚礼衣装のせいではないのか、と美羽は思う。だが泣き止むことが出来ないくらい感動しているのに水を差すのも悪いかと考え、何とか泣き止んでもらおうと背を擦った。
「唯玉様が守ってくださるのですって。わたしも多少虐められたくらいでへこたれないようになるつもりよ。偉兄も湿っぽいところ直しなさいな」
蛾偉はずずっと鼻を啜ると、ようやく涙が止まる。目を真っ赤に泣き腫らしているが、妹が立后する歓喜の涙ということになるだろう。実際間違ってはいないし。
「主上、どうか妹をお頼み申し上げます」
「よい。たまには虹霓宮に顔を見せてやれ」
「御意」
唯玉に一礼すると、「またな、美羽」と兄の顔をして蛾偉は去っていった。この去りゆく蛾偉を見た芽衣が「この男、泣き顔がたまらないです!」と独りごちたことは、誰も与り知らぬことであるが。
「面会の時間をくださり、ありがとうございます」
「お前は兄に会える、我は部下がすっきりして仕事の効率が良くなる。一石二鳥だ」
外から瑞季が刻限を告げる声がした。
自然と見つめ合い、そっと触れるだけの口づけをする。
「参ろうか」
「はい、どこまでも」
この日、蛾美羽は皇后となった。
真紅の婚礼衣装を纏い、薄藍の翅を輝かせる様は神秘的なまでに美しく、国を席巻する立后の儀となった。
良く思わない者が「あれは毒蛾だ」と嘯いて回る。
しかし、彼女の人となりを知るものはこう言う。
美蛾の后は毒を持たない――と。
「気持ち良さそうに飛ぶのね、唯玉様は」
竜が空を飛ぶのは瑞兆である。
立后のこの日、自ら飛んで言い触らして回っているのだ。
昨年媚薬を飲んだ日、戯れながら言われた。
「共にいてほしい。皇后なら誰憚ることなく一緒にいられる。九嬪は据え置きだし、新しい四夫人は置かない。我はそのくらいでないと安心出来ない」
随分とまた強権的なと思った。
本音の本音は後宮を閉めて女官を残し女人は全て家に帰してしまいたいそうだ。後宮の女官は須く妃ですよ、と喉まで出掛かったが厄介なことになりそうだったので黙っている。美羽とて猫の女官とは離れたくなかった。
「それはもうご機嫌ですよ。主上は機嫌がいいとほんのり耳が赤くなられるんです」
隣で同じく空を眺めていた猫娜が秘密を教えてくれる。
「そうなの? 気がつかなかったわ」
「美羽様をお傍に置かれてから常にご機嫌でしたから、存じ上げないだろうと思いました」
乳母の目は鋭い。
猫娜には頭が上がらないだろうな、と思う。
「娘娘、蛾偉様がお見えになりました」
外で控えていた芽衣が来訪を告げる。上から三番目の兄が来たらしい。
蛾家は多産の家系で、以前に唯玉から「兄と仲が悪いのか?」と訊かれた時に「兄とは何番目のことを申しておりますか?」と聞き返したことがある。長兄と次兄は顕現がなかったため、母の姓である金を名乗って出仕している。わざわざ蛾であると喧伝する必要がないからだ。唯玉はそれを知らなかったそうだ。
蛾偉は一番の出世頭だが、仲が悪い覚えはない。唯玉が言うには無理矢理後宮に押し込んだと悔いている様子、ということだったが兄三人の共通の意思だったと認識している。詳しくは知らないが良くない縁談があり、後宮に逃がしてくれたのだ。逃げた先で虐めに遭ったのは、それは事故だろう。
事の次第を兄たちに手紙で送ってみると、長兄と次兄は「元気ならばそれでいい」と返ってきた。長兄は様子を見に来てくれもした。余計なものを置いていったが。蛾偉は「会いたいけど、決心がつかない」と返してきた。それが夏頃の話で、結局年を越して桃の季節である。少し湿っぽい気質のある三兄が出世頭で大丈夫かな、と思ったりもした。
正式に立后したら蛾偉はより寄り付かなくなるなるのではないか、と唯玉に言われ一理あると思った美羽は三兄を呼び出した次第である。
虹霓宮の居間に入ってきた蛾偉は、素早く跪拝し口上を述べる。
「皇后娘娘におかれましてはご機嫌麗しく、この佳き日にお目通り叶いましたことを大変有り難く存じます」
「偉兄は卑屈ねぇ。兄らしいこと言えないの?」
ぴくりとも動かず沈黙している蛾偉に好き勝手言うことにした。
「妹に対して結婚おめでとうとか、悪いと感じているなら悪かったとか、言ったらどうなの」
「美羽よ、許可してやらねばそやつは喋らぬのでは」
助け船を出す声に振り向くと、いつの間にか龍袍を纏った唯玉が室内にいた。空の散歩から戻ったらしい。
「まあ! 勝手に喋ってよ。首が飛んだりしないわ」
美羽の言い分に蛾偉は螟蛾の翅を震わせる。
ようやく顔を上げたかと思うと兄は泣いていた。
「本当に、元気そうで」
それ以上言葉が続かない。
仕方がないので袂から手巾を取り出し手渡す。
「泣き止んでよ。儀式にも参列するんでしょ」
「だってこんなに立派になって……! 俺たちの姫が」
どうしようこの兄、と助け求めて唯玉を見るが緩く首を振られるだけだった。
立派に見えるのは化粧と豪華な婚礼衣装のせいではないのか、と美羽は思う。だが泣き止むことが出来ないくらい感動しているのに水を差すのも悪いかと考え、何とか泣き止んでもらおうと背を擦った。
「唯玉様が守ってくださるのですって。わたしも多少虐められたくらいでへこたれないようになるつもりよ。偉兄も湿っぽいところ直しなさいな」
蛾偉はずずっと鼻を啜ると、ようやく涙が止まる。目を真っ赤に泣き腫らしているが、妹が立后する歓喜の涙ということになるだろう。実際間違ってはいないし。
「主上、どうか妹をお頼み申し上げます」
「よい。たまには虹霓宮に顔を見せてやれ」
「御意」
唯玉に一礼すると、「またな、美羽」と兄の顔をして蛾偉は去っていった。この去りゆく蛾偉を見た芽衣が「この男、泣き顔がたまらないです!」と独りごちたことは、誰も与り知らぬことであるが。
「面会の時間をくださり、ありがとうございます」
「お前は兄に会える、我は部下がすっきりして仕事の効率が良くなる。一石二鳥だ」
外から瑞季が刻限を告げる声がした。
自然と見つめ合い、そっと触れるだけの口づけをする。
「参ろうか」
「はい、どこまでも」
この日、蛾美羽は皇后となった。
真紅の婚礼衣装を纏い、薄藍の翅を輝かせる様は神秘的なまでに美しく、国を席巻する立后の儀となった。
良く思わない者が「あれは毒蛾だ」と嘯いて回る。
しかし、彼女の人となりを知るものはこう言う。
美蛾の后は毒を持たない――と。