ぐん、と冷えた冬の午後。
明日は雪かもしれないと言いながら、庭の寒椿を見ていた時だ。
とっとっとっと足音を立て十歳くらいの少女が庭にやってきた。
「突然のご無礼お許しください! わたくし黒曜宮の雪梅公主と申します。皇后娘娘にご挨拶致したく」
額に梅の花が顕現した少女が拱手する。
まだ皇后ではないし、突然のことで驚いた。だが、綺麗な作りの衣装なのに薄汚れていたり、額の花が萎れているのが気に掛かる。花の顕現である花人は、身体にある花の様子が本人の体調なのだ。
瑞季に目配せすると頷かれ、間違いなく公主だろう。ということは唯玉の妹か。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。皇帝陛下が貴人、蛾美羽と申します」
膝を折って目線を合わせると、にこりと微笑んだ。
雪梅は何か言おうとして、盛大な腹の虫が鳴る。真っ赤になって恥ずかしそうにしている姿に、昨年睡眠不足と空腹で倒れた時のことを思い出した。
「立ち話もなんです。中で一緒にお菓子を食べませんか?」
「はい!」
ぱあ、と顔を輝かせ勢いよく頷いた雪梅を猫杏に案内させる。
瑞季に湯殿の準備と、侍医の手配、尚服部に今すぐ使える子供用の衣装がないか取りにいくよう指示した。
芽衣には茶の準備をさせる。
虹霓宮に入り卓につくと、女官が瑞季の指示を受けて仕事に取りかかるところだった。
ひとまず雪梅に月餅と茶を勧める。ぺろりと平らげ一息ついたところを見計らって声を掛ける。
「雪梅公主、本日はどうされたのですか」
子供相手に婉曲に表現する必要もないかと単刀直入に訊ねた。
「それが、黒曜宮の炭がなくなってしまったので分けていただきたく思いまして」
「炭」
後宮に住まう者の生活必需品は基本的に支給だ。公主に炭の供給が途絶えるなんて考えられない。
それにどんな理由があれお腹を空かせていた。
もしかして。
「雪梅公主、違っていたら申し訳ないのですが。女官から不当な扱いを受けてはおりませんか?」
その言葉にびくっと肩を揺らし、彼女は金の瞳に涙を浮かべた。
「不当……と言ってよいのでしょうか……。女官はみな辞めてしまい、足の悪い乳母だけが残っております」
「それは、どうして……」
思ったより悲惨で言葉が出ない。
だが次に続けられた言葉にもまともに返せなかった。
「わたくしの母は、主上のお母様に毒を盛った犯人と目されておりました」
「え……?」
艶のない黒髪を振り乱し、涙をぽろぽろと零している。
「証拠はない、だが限りなく怪しい。女官は冷たくなり、母は病で亡くなり、それでもなんとかやってこれました。けれど春の改革で仕えていた女官が罷免され、乳母とふたりで暖かいうちは暮らせていました。しかし配給が滞り炭がなく、明日は雪だと聞いて炭を分けていただけないかと」
肩を震わせる姿に絶句していると、侍医が到着したと瑞季から報告を受ける。
とにかく、公主だとか毒殺容疑者の娘だとかそんなものはどうでもいい。
十歳の女の子が与えられて然るべきものを与えることから始める。
「安心なさってください。わたしが出来うる限りの支援を致します。ですから、まず侍医の診察を受けてお風呂に入りましょう。ね」
なるべく優しく微笑むと、涙が止まらなくなったらしい。
椅子から立ち上がり、雪梅の肩を抱き寄せ背を摩った。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
美羽は唯玉に救われた。今度は救う番だ。
しかし、今回は唯玉が敵だ。皇后不在であれば後宮を統治することは皇帝の務め。それが仇かもしれない相手の子供であっても、子供に罪はないのだから。
実家の弟妹にどう接していたか思い出しながら、このあとどうするか必死に考えた。
侍医が言うには栄養失調が酷く、しかしそれだけだとのことだった。
食事療養で治るそうで、それを聞いて美羽は雪梅と乳母を虹霓宮で一時的に預かることにする。
雪梅を湯殿に入れているうちに、黒曜宮に行って乳母も引き取ってきた。やはり栄養失調の気があり、療養が必要なため部屋を貸し与えて休んでもらう。
湯殿から出てきた雪梅は調達してきた新しい衣装に身を包み、髪も椿油で整えられ公主らしく見えた。額の梅も心なしか元気そうだ。
ここまでは美羽の独断でなんとかなる。肝心なのはこのあと、夕食を食べに唯玉がやってくる。
対話が必要だ。説教も必要だろう。
雪梅を乳母の部屋に隠して、気合いを入れる。
彼女の様子を見て母性本能が刺激され、美羽は臨戦態勢だった。
いつものように美羽と夕食を共にしようとして虹霓宮を訪れた唯玉は、過去最大級に怒っている様子に我知らず背が伸びた。
立后を控え毎日食事を共にし、熱い夜を過ごしているというのに何がこんなに怒らせたのだろう。
美しい薄藍の翅が淡く光っている。尋常ではない。
どうすべきか思案し、とりあえず頭を下げた。
「我が悪かった」
「何が悪いのか理解なさっていないのに謝らないでください!」
それは、一理ある。
「お前がそんなに怒っているから、我に非があるのだろう」
「内容を聞いて反省してください」
かんに障るようなことをしてしまっただろうか。
悩んでいると、美羽が実は、と切り出した。
「雪梅公主をご存じでしょうか」
「……ああ」
忘れる訳がない。
紅充媛のひとり娘。母を毒殺した疑いのある女の娘。
「わたしが保護しました」
「保護?」
彼女は公主として普通に暮らしているはずだ。美羽が保護する必要などないはずである。
怪訝に思い問いかけると、睨まれた。
「春の改革で女官がいなくなり、乳母とふたりで暮らしていたそうです。しかし配給が滞り、炭が不足しているので分けてほしいとこちらにいらっしゃいました。雪梅公主、乳母共に栄養失調です。管理不行き届き、ですよね?」
疑問形ではあるが実質断定だ。
凄みがあって、多少の恐れを覚える。虫と侮っていたつもりはないが、女は守るものがあると強い。
「雪梅公主には書類上十分な配給と人員を割いていた」
「現実は? 実際のところをご覧になられてください」
諾とも否とも言えず、立ち上がる美羽についていく。
奥まった部屋の一室までくると、彼女が声を掛ける。
「雪梅公主、入ってもよろしいですか」
「大丈夫です」
返事が聞こえ、戸を引いた。
中には痩せこけた子供と枯れ木のようになった中年の女性横になっている。
唯玉を見ると子供は跪拝した。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
「よい。楽に話せ」
子供は髪や服が整えられている分、痩せているのが際立っていた。春の園遊会で倒れた美羽を思い出させる。
「お前が雪梅か」
「左様でございます」
紅充媛より父に面差しが似ている。母子で共通するのは額の花か。
顔を見ても思ったより何の感情も湧かなかった。恨めしいとも憎いとも思わない。ただ哀れだと思った。
一歩近づくと震えながら乳母を庇うように立つ。皇帝が恐ろしいのだろうが、精一杯踏ん張っている。
これは確かに唯玉に管理が行き届かなかった非があるだろう。
「虹霓宮はどうだ」
「とても快適です。娘娘にも大変良くしていただきました、主上」
十歳ばかりの子供にしてはしっかりしている。
きちんと教育してやれば立派な公主になるだろう。
「兄と呼べ」
命じると、雪梅はきょとんとして言われた意味が解らない様子だ。
「蛾貴人のことは義姉と呼ぶが良かろう」
美羽を見ると嬉しそうにしている。
「しかし、わたくしは罪人の娘で」
「お前の母が本当に毒殺の犯人なのかは、最期まで判明しなかった。母は我に言った。誰も恨むな、と。その教えに従い、我はお前を恨まない。これまでの冷遇を詫びる。兄として振る舞うには不出来であるが我が妻は姉であることに長けている。頼るが良かろう」
妹は口をぱくぱくさせ言葉に迷っているようだった。
「主上は、わたくしのことを憎んでおいでだと……」
「全く負の感情がなかったと言えば嘘になる。しかし悪竜と言われる我を善なる竜と言ってくれた者がいる。それでいい。それだけでいい。罪なきお前を憎んでも仕方なかろう」
唯玉とよく似た金の瞳からぶわりと涙が流れる。
「お、にいさまぁ、おねえ、さま」
泣かれるとどうしていいか解らないので困る。
あらあらと美羽が袂から手巾を取り出し雪梅の顔を拭っていた。
「雪梅よ、美羽が許すならここで好きに暮らすがいい。夜は美羽を借り受けるが、ひとりで眠れるか?」
「? 大丈夫です」
「子供に何仰るんですか!」
顔を赤くして悲鳴を上げる美羽に満足する。怒りは解けたようだ。
少し遅くなったが夕食を摂り、宣言通り美羽を竜神宮に連れ帰る。
そうなればすることはひとつだった。
明日は雪かもしれないと言いながら、庭の寒椿を見ていた時だ。
とっとっとっと足音を立て十歳くらいの少女が庭にやってきた。
「突然のご無礼お許しください! わたくし黒曜宮の雪梅公主と申します。皇后娘娘にご挨拶致したく」
額に梅の花が顕現した少女が拱手する。
まだ皇后ではないし、突然のことで驚いた。だが、綺麗な作りの衣装なのに薄汚れていたり、額の花が萎れているのが気に掛かる。花の顕現である花人は、身体にある花の様子が本人の体調なのだ。
瑞季に目配せすると頷かれ、間違いなく公主だろう。ということは唯玉の妹か。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。皇帝陛下が貴人、蛾美羽と申します」
膝を折って目線を合わせると、にこりと微笑んだ。
雪梅は何か言おうとして、盛大な腹の虫が鳴る。真っ赤になって恥ずかしそうにしている姿に、昨年睡眠不足と空腹で倒れた時のことを思い出した。
「立ち話もなんです。中で一緒にお菓子を食べませんか?」
「はい!」
ぱあ、と顔を輝かせ勢いよく頷いた雪梅を猫杏に案内させる。
瑞季に湯殿の準備と、侍医の手配、尚服部に今すぐ使える子供用の衣装がないか取りにいくよう指示した。
芽衣には茶の準備をさせる。
虹霓宮に入り卓につくと、女官が瑞季の指示を受けて仕事に取りかかるところだった。
ひとまず雪梅に月餅と茶を勧める。ぺろりと平らげ一息ついたところを見計らって声を掛ける。
「雪梅公主、本日はどうされたのですか」
子供相手に婉曲に表現する必要もないかと単刀直入に訊ねた。
「それが、黒曜宮の炭がなくなってしまったので分けていただきたく思いまして」
「炭」
後宮に住まう者の生活必需品は基本的に支給だ。公主に炭の供給が途絶えるなんて考えられない。
それにどんな理由があれお腹を空かせていた。
もしかして。
「雪梅公主、違っていたら申し訳ないのですが。女官から不当な扱いを受けてはおりませんか?」
その言葉にびくっと肩を揺らし、彼女は金の瞳に涙を浮かべた。
「不当……と言ってよいのでしょうか……。女官はみな辞めてしまい、足の悪い乳母だけが残っております」
「それは、どうして……」
思ったより悲惨で言葉が出ない。
だが次に続けられた言葉にもまともに返せなかった。
「わたくしの母は、主上のお母様に毒を盛った犯人と目されておりました」
「え……?」
艶のない黒髪を振り乱し、涙をぽろぽろと零している。
「証拠はない、だが限りなく怪しい。女官は冷たくなり、母は病で亡くなり、それでもなんとかやってこれました。けれど春の改革で仕えていた女官が罷免され、乳母とふたりで暖かいうちは暮らせていました。しかし配給が滞り炭がなく、明日は雪だと聞いて炭を分けていただけないかと」
肩を震わせる姿に絶句していると、侍医が到着したと瑞季から報告を受ける。
とにかく、公主だとか毒殺容疑者の娘だとかそんなものはどうでもいい。
十歳の女の子が与えられて然るべきものを与えることから始める。
「安心なさってください。わたしが出来うる限りの支援を致します。ですから、まず侍医の診察を受けてお風呂に入りましょう。ね」
なるべく優しく微笑むと、涙が止まらなくなったらしい。
椅子から立ち上がり、雪梅の肩を抱き寄せ背を摩った。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
美羽は唯玉に救われた。今度は救う番だ。
しかし、今回は唯玉が敵だ。皇后不在であれば後宮を統治することは皇帝の務め。それが仇かもしれない相手の子供であっても、子供に罪はないのだから。
実家の弟妹にどう接していたか思い出しながら、このあとどうするか必死に考えた。
侍医が言うには栄養失調が酷く、しかしそれだけだとのことだった。
食事療養で治るそうで、それを聞いて美羽は雪梅と乳母を虹霓宮で一時的に預かることにする。
雪梅を湯殿に入れているうちに、黒曜宮に行って乳母も引き取ってきた。やはり栄養失調の気があり、療養が必要なため部屋を貸し与えて休んでもらう。
湯殿から出てきた雪梅は調達してきた新しい衣装に身を包み、髪も椿油で整えられ公主らしく見えた。額の梅も心なしか元気そうだ。
ここまでは美羽の独断でなんとかなる。肝心なのはこのあと、夕食を食べに唯玉がやってくる。
対話が必要だ。説教も必要だろう。
雪梅を乳母の部屋に隠して、気合いを入れる。
彼女の様子を見て母性本能が刺激され、美羽は臨戦態勢だった。
いつものように美羽と夕食を共にしようとして虹霓宮を訪れた唯玉は、過去最大級に怒っている様子に我知らず背が伸びた。
立后を控え毎日食事を共にし、熱い夜を過ごしているというのに何がこんなに怒らせたのだろう。
美しい薄藍の翅が淡く光っている。尋常ではない。
どうすべきか思案し、とりあえず頭を下げた。
「我が悪かった」
「何が悪いのか理解なさっていないのに謝らないでください!」
それは、一理ある。
「お前がそんなに怒っているから、我に非があるのだろう」
「内容を聞いて反省してください」
かんに障るようなことをしてしまっただろうか。
悩んでいると、美羽が実は、と切り出した。
「雪梅公主をご存じでしょうか」
「……ああ」
忘れる訳がない。
紅充媛のひとり娘。母を毒殺した疑いのある女の娘。
「わたしが保護しました」
「保護?」
彼女は公主として普通に暮らしているはずだ。美羽が保護する必要などないはずである。
怪訝に思い問いかけると、睨まれた。
「春の改革で女官がいなくなり、乳母とふたりで暮らしていたそうです。しかし配給が滞り、炭が不足しているので分けてほしいとこちらにいらっしゃいました。雪梅公主、乳母共に栄養失調です。管理不行き届き、ですよね?」
疑問形ではあるが実質断定だ。
凄みがあって、多少の恐れを覚える。虫と侮っていたつもりはないが、女は守るものがあると強い。
「雪梅公主には書類上十分な配給と人員を割いていた」
「現実は? 実際のところをご覧になられてください」
諾とも否とも言えず、立ち上がる美羽についていく。
奥まった部屋の一室までくると、彼女が声を掛ける。
「雪梅公主、入ってもよろしいですか」
「大丈夫です」
返事が聞こえ、戸を引いた。
中には痩せこけた子供と枯れ木のようになった中年の女性横になっている。
唯玉を見ると子供は跪拝した。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
「よい。楽に話せ」
子供は髪や服が整えられている分、痩せているのが際立っていた。春の園遊会で倒れた美羽を思い出させる。
「お前が雪梅か」
「左様でございます」
紅充媛より父に面差しが似ている。母子で共通するのは額の花か。
顔を見ても思ったより何の感情も湧かなかった。恨めしいとも憎いとも思わない。ただ哀れだと思った。
一歩近づくと震えながら乳母を庇うように立つ。皇帝が恐ろしいのだろうが、精一杯踏ん張っている。
これは確かに唯玉に管理が行き届かなかった非があるだろう。
「虹霓宮はどうだ」
「とても快適です。娘娘にも大変良くしていただきました、主上」
十歳ばかりの子供にしてはしっかりしている。
きちんと教育してやれば立派な公主になるだろう。
「兄と呼べ」
命じると、雪梅はきょとんとして言われた意味が解らない様子だ。
「蛾貴人のことは義姉と呼ぶが良かろう」
美羽を見ると嬉しそうにしている。
「しかし、わたくしは罪人の娘で」
「お前の母が本当に毒殺の犯人なのかは、最期まで判明しなかった。母は我に言った。誰も恨むな、と。その教えに従い、我はお前を恨まない。これまでの冷遇を詫びる。兄として振る舞うには不出来であるが我が妻は姉であることに長けている。頼るが良かろう」
妹は口をぱくぱくさせ言葉に迷っているようだった。
「主上は、わたくしのことを憎んでおいでだと……」
「全く負の感情がなかったと言えば嘘になる。しかし悪竜と言われる我を善なる竜と言ってくれた者がいる。それでいい。それだけでいい。罪なきお前を憎んでも仕方なかろう」
唯玉とよく似た金の瞳からぶわりと涙が流れる。
「お、にいさまぁ、おねえ、さま」
泣かれるとどうしていいか解らないので困る。
あらあらと美羽が袂から手巾を取り出し雪梅の顔を拭っていた。
「雪梅よ、美羽が許すならここで好きに暮らすがいい。夜は美羽を借り受けるが、ひとりで眠れるか?」
「? 大丈夫です」
「子供に何仰るんですか!」
顔を赤くして悲鳴を上げる美羽に満足する。怒りは解けたようだ。
少し遅くなったが夕食を摂り、宣言通り美羽を竜神宮に連れ帰る。
そうなればすることはひとつだった。