暑い。夏は嫌いだ。
仮住まいをしている貴人の水晶宮でぐったりしていると、唯玉がひとりの宦官を連れてくる。
なんとこの宦官は雪の顕現であるらしく、夏だというのに雪を作り出せるのだという。
皿と桃の果汁を搾ったものを用意する。宦官が手を翳すと忽ち皿の上に雪が降り積もった。
こんもりとした雪の山に桃の果汁を掛け、匙で一口食べる。
「んん!! つめたっ」
冷たい。だが美味しい。
生き返る。
唯玉が満足そうにしているので、匙で一掬いしたものを彼に向けた。
「唯玉様もどうぞ」
「ああ、貰おう」
雪を食べさせると、唯玉にとっても美味しかったのか少し口元を綻ばせる。
「素敵な顕現ね」
宦官に話し掛けると、恐縮した様子で平服した。
「また作ってくれる?」
「もちろんでございます」
雪菓子を完食し、いたく満足する。
宦官には改めて感謝を示し、明日も水晶宮にくるように言った。
その様子を何となく面白くなさそうに見ている唯玉に気がつき、抱き付いてみる。
「どうした?」
「何か引っかかっておられますか?」
いや、と唯玉が抱き付いたままの美羽を抱えそのまま座った。
否定する割には何となく曇っている気がする。
「唯玉様、わたしになら何を仰ってもいいのですよ」
「……本当か?」
もちろんですとも、と胸を張った。
すると彼は躊躇いがちに言葉にする。
「あの宦官は顕現を褒められて、良いな、と」
言ったそばから頬を赤くして、恥ずかしいのだろうか。
確かに猫娜が居たら言わない類いのことであろう。
「薬の顕現には助かりました。すっかり元気です」
「薬は判っている。竜は?」
竜の顕現を褒めてほしかったのか、とようやく気が付いた。
しかし竜は神様だ。神様を褒めるって何だ。不敬ではないのか。
「えっと、格好良いと思います。空が飛べて素敵です。わたしは基本的に地べたに沿ってしか飛べないですし」
美羽も蛾の姿に転じ飛ぶことが出来るが、あまり高くは飛べない。竜は空高く、天空の覇者とでも言うべき様相で飛ぶ。それが気高く、美しく、尊いのだと言われる。
「なら、飛んでみるか?」
「どうやってでしょう」
「竜になった我に跨がればいい」
何だそれは。そんな特大級の不敬があっていいのか。神様に跨がるとは正気を試されているのだろうか。
「百面相だな。難しく考えるな。夫と空の散歩だと思えばいい」
夫、という言葉でとどめが刺された。
もうどうにでもしてほしい。
「お供致します……!」
花竜国は竜神が加護を与えた人間の血筋が皇帝になる国だ。必ずしも顕現が帝位に直結する訳ではないが、歴代の皇帝には竜の顕現の者が多い。
遙か昔には実際に竜神がいたという。その竜神は隣国日竜国を守護する竜神と番いで、この世界には遊びに来ていたのだ。いざ天界に帰ろうとした時には花竜国は竜神なしでは成り立たない国になっていた。そこで最も信頼する人間に加護を与え、去った。竜神が薄紅の優美な花のような見た目だったから花竜。貴色は薄紅だ。
そんなことを語り聞かせながら、黒い竜となった唯玉は空を飛ぶ。
鱗が痛くないように脚衣と手袋を身につけた美羽は、落ちないよう気をつけながら跨がっていた。
「本当は竜神のような薄紅の身体の方が喜ばれるのだがな」
「黒い花も美しいですわ。芳名の由来にあたる黒金剛石を思わせる色味ですし、とても綺麗です」
黒く光る鱗を撫でる。黒金剛石というものを実際に見たことはないが、きっとこの鱗のように美しいのだろう。
「……母も、そんなことを言っていた」
母を毒殺されたという唯玉だが、声は単純に懐かしんでいるように聞こえた。
だから問うてみる。
「どんなお方だったんですか?」
「芍薬甘草湯の薬人で、薬効を食べ物に移すことが出来た。よく使われる薬だし味も悪くない。何より食べ物から摂取出来るとあって人気だった。先帝に気に入られたのもそこだ。優しくて、分け隔てなく接し、快活で、朗らかな人だった。最期、死の間際も「誰も恨むな」と言って逝った。我はそう言った母を恨んだ。母は毒を盛った相手すら恨むでないと言う。そのようなことを言った母を恨むことしか出来なかった。猫娜には大層心配を掛けただろうな」
慕わしいからこそ恨んだのだろう。
毒殺というのは残念ながらありふれた手段だ。美羽だって水仙の韮餃子は死んでいた可能性もあるのだから。
「恨むな、というのはきっと本当です。でも恨まずにはいられないなら母を恨んでほしいとお母様は思われたでしょうね」
「お前のことも心配なんだ」
毒殺のことだろう。
心細げに言う唯玉に笑ってみせる。
「猫杏は優秀です。唯玉様の毒味役を借り受けたのは助かりますが、支障はございませんか?」
「問題ない。そもそも竜の顕現で毒には強い。猫杏はお前にこそ必要だ」
こんなに信頼されたら猫杏も喜ぶだろう。
そういえば三人娘のことで思い出した。
「猫三人娘は本当に貰い受けてよろしいので? 蛾家の人員だけではとても宮のことが回りませんので助かりますが」
「よい。あやつらもお前を気に入っているからな。こちらはまた猫家と母の実家に掛け合っている」
美羽様、美羽様と慕ってくれる三人娘を思い出し顔が綻ぶ。そろそろ女官長を選んでやらねば。
「それで、立后する決心はついたのか」
「はっ! 最後、最後の一押しいただきたいところです!」
なんだそれは、と笑う様子が伝わってくる。
媚薬を飲んだ夜、唯玉から正式に皇后になってほしいと言われていた。あまりにも恐れ多くて保留にしていたが、母を喪った哀しみを今も抱いている彼を癒やしてあげたいとも思う。
唯玉は緩やかに高度を上げた。帝都を一望出来る高さだ。
「我はここからものを見る。同じ位置に連れてきたいと思うのはお前だけだ」
「何故です?」
「我を善なる竜だと言った、その心根が愛おしい。お前の翅を美しく思う。貌は妖精のようだ。最初は虐められていたから儚いのかと思ったが、存外強い。強いから我慢してしまったのだな」
語られる言葉が嬉しい。
「実家が貧弱でございますが」
「嘘を申せ。春の改革で蛾家は一躍時の者よ」
そう言われては言い返せない。長兄も三兄も出世した。次兄は正直よく解らない。閑職についてこっそり昼寝をするのが趣味だと言っていたから。
最後の言い訳も封じられた。もう返す言葉はひとつ。
「わかりました。不束者ですがよろしくお願い致します」
竜は満足そうに唸り声を上げる。
そのまま日が暮れるまでふたりは空を飛び回った。
仮住まいをしている貴人の水晶宮でぐったりしていると、唯玉がひとりの宦官を連れてくる。
なんとこの宦官は雪の顕現であるらしく、夏だというのに雪を作り出せるのだという。
皿と桃の果汁を搾ったものを用意する。宦官が手を翳すと忽ち皿の上に雪が降り積もった。
こんもりとした雪の山に桃の果汁を掛け、匙で一口食べる。
「んん!! つめたっ」
冷たい。だが美味しい。
生き返る。
唯玉が満足そうにしているので、匙で一掬いしたものを彼に向けた。
「唯玉様もどうぞ」
「ああ、貰おう」
雪を食べさせると、唯玉にとっても美味しかったのか少し口元を綻ばせる。
「素敵な顕現ね」
宦官に話し掛けると、恐縮した様子で平服した。
「また作ってくれる?」
「もちろんでございます」
雪菓子を完食し、いたく満足する。
宦官には改めて感謝を示し、明日も水晶宮にくるように言った。
その様子を何となく面白くなさそうに見ている唯玉に気がつき、抱き付いてみる。
「どうした?」
「何か引っかかっておられますか?」
いや、と唯玉が抱き付いたままの美羽を抱えそのまま座った。
否定する割には何となく曇っている気がする。
「唯玉様、わたしになら何を仰ってもいいのですよ」
「……本当か?」
もちろんですとも、と胸を張った。
すると彼は躊躇いがちに言葉にする。
「あの宦官は顕現を褒められて、良いな、と」
言ったそばから頬を赤くして、恥ずかしいのだろうか。
確かに猫娜が居たら言わない類いのことであろう。
「薬の顕現には助かりました。すっかり元気です」
「薬は判っている。竜は?」
竜の顕現を褒めてほしかったのか、とようやく気が付いた。
しかし竜は神様だ。神様を褒めるって何だ。不敬ではないのか。
「えっと、格好良いと思います。空が飛べて素敵です。わたしは基本的に地べたに沿ってしか飛べないですし」
美羽も蛾の姿に転じ飛ぶことが出来るが、あまり高くは飛べない。竜は空高く、天空の覇者とでも言うべき様相で飛ぶ。それが気高く、美しく、尊いのだと言われる。
「なら、飛んでみるか?」
「どうやってでしょう」
「竜になった我に跨がればいい」
何だそれは。そんな特大級の不敬があっていいのか。神様に跨がるとは正気を試されているのだろうか。
「百面相だな。難しく考えるな。夫と空の散歩だと思えばいい」
夫、という言葉でとどめが刺された。
もうどうにでもしてほしい。
「お供致します……!」
花竜国は竜神が加護を与えた人間の血筋が皇帝になる国だ。必ずしも顕現が帝位に直結する訳ではないが、歴代の皇帝には竜の顕現の者が多い。
遙か昔には実際に竜神がいたという。その竜神は隣国日竜国を守護する竜神と番いで、この世界には遊びに来ていたのだ。いざ天界に帰ろうとした時には花竜国は竜神なしでは成り立たない国になっていた。そこで最も信頼する人間に加護を与え、去った。竜神が薄紅の優美な花のような見た目だったから花竜。貴色は薄紅だ。
そんなことを語り聞かせながら、黒い竜となった唯玉は空を飛ぶ。
鱗が痛くないように脚衣と手袋を身につけた美羽は、落ちないよう気をつけながら跨がっていた。
「本当は竜神のような薄紅の身体の方が喜ばれるのだがな」
「黒い花も美しいですわ。芳名の由来にあたる黒金剛石を思わせる色味ですし、とても綺麗です」
黒く光る鱗を撫でる。黒金剛石というものを実際に見たことはないが、きっとこの鱗のように美しいのだろう。
「……母も、そんなことを言っていた」
母を毒殺されたという唯玉だが、声は単純に懐かしんでいるように聞こえた。
だから問うてみる。
「どんなお方だったんですか?」
「芍薬甘草湯の薬人で、薬効を食べ物に移すことが出来た。よく使われる薬だし味も悪くない。何より食べ物から摂取出来るとあって人気だった。先帝に気に入られたのもそこだ。優しくて、分け隔てなく接し、快活で、朗らかな人だった。最期、死の間際も「誰も恨むな」と言って逝った。我はそう言った母を恨んだ。母は毒を盛った相手すら恨むでないと言う。そのようなことを言った母を恨むことしか出来なかった。猫娜には大層心配を掛けただろうな」
慕わしいからこそ恨んだのだろう。
毒殺というのは残念ながらありふれた手段だ。美羽だって水仙の韮餃子は死んでいた可能性もあるのだから。
「恨むな、というのはきっと本当です。でも恨まずにはいられないなら母を恨んでほしいとお母様は思われたでしょうね」
「お前のことも心配なんだ」
毒殺のことだろう。
心細げに言う唯玉に笑ってみせる。
「猫杏は優秀です。唯玉様の毒味役を借り受けたのは助かりますが、支障はございませんか?」
「問題ない。そもそも竜の顕現で毒には強い。猫杏はお前にこそ必要だ」
こんなに信頼されたら猫杏も喜ぶだろう。
そういえば三人娘のことで思い出した。
「猫三人娘は本当に貰い受けてよろしいので? 蛾家の人員だけではとても宮のことが回りませんので助かりますが」
「よい。あやつらもお前を気に入っているからな。こちらはまた猫家と母の実家に掛け合っている」
美羽様、美羽様と慕ってくれる三人娘を思い出し顔が綻ぶ。そろそろ女官長を選んでやらねば。
「それで、立后する決心はついたのか」
「はっ! 最後、最後の一押しいただきたいところです!」
なんだそれは、と笑う様子が伝わってくる。
媚薬を飲んだ夜、唯玉から正式に皇后になってほしいと言われていた。あまりにも恐れ多くて保留にしていたが、母を喪った哀しみを今も抱いている彼を癒やしてあげたいとも思う。
唯玉は緩やかに高度を上げた。帝都を一望出来る高さだ。
「我はここからものを見る。同じ位置に連れてきたいと思うのはお前だけだ」
「何故です?」
「我を善なる竜だと言った、その心根が愛おしい。お前の翅を美しく思う。貌は妖精のようだ。最初は虐められていたから儚いのかと思ったが、存外強い。強いから我慢してしまったのだな」
語られる言葉が嬉しい。
「実家が貧弱でございますが」
「嘘を申せ。春の改革で蛾家は一躍時の者よ」
そう言われては言い返せない。長兄も三兄も出世した。次兄は正直よく解らない。閑職についてこっそり昼寝をするのが趣味だと言っていたから。
最後の言い訳も封じられた。もう返す言葉はひとつ。
「わかりました。不束者ですがよろしくお願い致します」
竜は満足そうに唸り声を上げる。
そのまま日が暮れるまでふたりは空を飛び回った。