元は散る花を美しいとは思わなかった。
 咲き誇る花を美しいとも思わなかったが、今にも散るという花を見た時に心惹かれた。
 花弁のような翅を震わせ倒れた女。どう見ても寵を乞う様子ではなかった。
 顔を見ると化粧で誤魔化せないほどの隈があり、やせ細って見える。衣装だけは豪華だが、妃嬪としては見窄らしい。

美羽(メイユー)!」

 検分していると、部下が飛び出す。
 普段後宮に男が入ることは許されないが、園遊会とあって客人として招かれていた。
 飛び出した男は()(ウェイ)。優秀な部下で、妹が後宮に入ったと言っていた。あれは妹か。

美羽(メイユー)! 美羽(メイユー)! しっかりしろ」

 ()(ウェイ)が声を掛けるが目を覚まさない。
 美羽(メイユー)と呼ばれた女の窶れた貌が、力無く垂れ下がった翅が、とても美しく見えた。
 美しい、という感覚を知る。
 認識した時には彼女を抱き上げていた。

「主上! 妹をどうされるおつもりですか!」

 声を荒らげる※()(ウェイ)に振り返る。

「悪いようにはしない。ただ宮には戻さない方がいいだろう。お前は宦官を使え。何故このようになったか調べろ」

 怒りに歪んでいた顔が部下のそれに戻る。
 一礼して指示を出しに行くのを見、竜神宮――唯玉(ウェイユー)の宮へ足を進めた。
 背後で女たちが悲鳴を上げるが知ったことではない。
 寝かせておくのに一番安全なところ、と思案し己の寝所が最適だろうと結論した。本来妃嬪を連れ込むところではないのだが、美羽(メイユー)を害する者もいない。
 一旦寝所に寝かせると、宮殿に戻り典薬部に彼女の処方履歴を報告させる。抑肝散や酸棗仁湯の処方があった。気鬱も見られたとある。
 ()(ウェイ)が宦官からの話を取り纏めてやってきた。美羽(メイユー)の宮には天敵の性を顕現させた女ばかり集められ、苛烈な虐めがあったという。恐らく、環境の悪さから不眠症になり苦しんでいた。
 原因は()(ウェイ)の出世を恨んだ者たちが宦官を唆したためだと見られた。

「ここならまだ安全だと考えていたのですが……」

「実家が危険だったのか?」

 訊ねると彼は唇を噛む。
 美羽(メイユー)は烏を顕現させた商家の大店に見合いを持ち掛けられていたそうだ。加虐趣味があり、結婚したあとには彼女を標本にしたいというような話が聞こえていた。
 後宮に入れてしまえば命だけは助かるだろうと思っていたと。
 甘いことだ、と思う。女の情念が如何に恐ろしいか知らないのだ。唯玉(ウェイユー)にとって妃嬪という名の政敵だ。実家の意向を一身に背負った女どもの誰かに子を持たせたくなくて、子を授かる薬だと偽り避妊薬を飲ませているくらいである。

「面会くらいすれば良かったものを」

「事情を知らない美羽(メイユー)は後宮入りさせた私を恨んでいたと思います。怖くて会えなかった」

「案外政治に向かないな、お前」

 優秀な官僚に向かって思ったことを言う。
 何をさせてもそつがない男だと思っていたが弱点は家族のようだ。()(ウェイ)が様子を見ていたら異変に気付いただろう。

「我はあの薄藍の翅を?いでしまうぞ」

「主上にお任せ致します。不出来な兄より良いでしょう」

 僅かに自嘲を滲ませる様子に、兄妹とは難儀だなと思った。唯玉(ウェイユー)は数多の兄弟がいるが肉親だと思ったことがなかったから、理解してやることは出来ないが。

()家の息が掛かった女を女官として推薦せよ。宮を一新し落ち着ける状況になるまでは美羽(メイユー)を預かる」

「御意」

 一礼する()(ウェイ)を置いて寝所に戻る。
 すると美羽(メイユー)が寝台から落っこちて藻掻いていた。

「……何をしている」

「ご、ご挨拶をしようと思ったのですが、身体が上手く動かず」

 診察の記録を見るに相当参っていたはずだ。倒れてすぐに起き上がれる訳がない。
 彼女の身体を持ち上げると、寝台に戻して上掛けを掛ける。

「病人は寝ていろ」

「しかし、こちらは主上の寝台では」

 だからだ。こんな美しいものをその辺に放り出しておけば潰されてしまう。実際に潰され掛けた。
 ここに閉じ込めておいた方が安全だ。

「お前の宮は大層住みにくそうだった。策を講じているが故、しばらくは治療を兼ねて我と同衾してもらおう」

「どう……きん……?」

 妃嬪なら泣いて喜ぶところだが、とても怯えている。彼女が蛾だからだろうか。本を正せば人なのに、顕現とは厄介なものだ。

「何も取って食わん。お前は重度の不眠症で、治すのに時間が掛かる。我に懇願するほど体調が悪かったのだろう。薬人、それも酸棗仁湯の薬効があるとされる我に」

 唯玉(ウェイユー)が口づけると四半刻ほどですっと眠ることが出来る。酸棗仁湯の薬効だ。欠点は口づけが恐ろしく苦いこと。酸棗仁湯そのもののえぐみを感じる味がするという。

「お前の振る舞いから、みな手を付けたと思っていることだろう。今日から()美人だ」

「実際に手が付いていないのに、でありますか」

 薄藍の瞳が見上げてくる。翅と同じ色味のそれは深く澄んでいた。

「手が付いたことにしておけば、宦官どもも誰と寝ろこれと寝ろと言ってこんだろう。我は煩わされない、お前は治療出来る。今後抱くかは横に置いて、病人に無体を強いる気はない」

 本当に嫌々女を抱いていた。可能な限り政略的に抱いても無害そうな女を中心に何人か選び騙して避妊薬を飲ませる日々。女は抱けるが、好きでもない女を抱く趣味はなかった。だから途轍もない苦痛を感じていた。

「あまりにも、その、わたしにとってあまりに破格の待遇では?」

 何か裏がありそう、という顔をしている。
 彼女は烏の代わりに質の悪い竜に見初められてしまったのだ。
 唯玉(ウェイユー)はうそっりと笑う。

「なに、死にかけの羽虫が存外美しかったので手元に置いたまで」

 この世で初めて美しいと思ったもの。それは手元にあった。
 布団の隙間から覗く翅を摘まんで撫でる。指に鱗粉がつき、美羽(メイユー)の一部であったと思うとたまらなくなり口に含む。
 絶句している美羽(メイユー)に微笑み、寝所の外にいる宦官に唯玉(ウェイユー)美羽(メイユー)の食事を持ってくるよう指示する。
 美羽(メイユー)が倒れたのが午後の早い時間で、今はもう夕暮れ時だ。宮殿に戻った際に彼女のために療養食を用意するよう言っておいた。
 食事はすぐに届けられた。毒味は済んでいる。
 今は女官も宦官も置きたくなかったので卓の上に唯玉(ウェイユー)が給仕する。
 その様を見ていた美羽(メイユー)が真っ青になって震えていた。さしずめ皇帝に給仕させていることに恐れ多いといったところか。

「あの、わたしがやりますから」

「大人しくしていろ」

 食事を卓に並べるくらいは出来る。
 準備し終えると美羽(メイユー)を抱き起こし椅子まで運ぶ。
 用意された卵粥を匙で掬って差し出すと「わたしが」と言いかけて遠慮がちに口に含んだ。
 嚥下すると目をきらきら輝かせる。

「後宮にきて一等まともな食事です!」

「普段どんなものを食べていたのだ」

 こんなもの、一言食べたいと言えば尚食部が用意するだろう。
 だが、女の意地の悪さというものに理解が足りなかったようだ。

「黴の生えた餅とか、針の入った饅頭、水仙の葉で作った韮餃子、とかですかね?」

「待て、最後は明らかな毒だ」

「一口食べて変だったので無理矢理吐きました。本当に困りましたね」

 この時初めて後宮を上手く制御しなかったことを後悔する。
 全く興味がなかったのだが、美羽(メイユー)を困らせていた遠因は唯玉(ウェイユー)だ。
 彼女を守ってやらねぱ、という気持ちが芽生える。

「餅は黴を取れば食べられましたし、饅頭も針を取り除けば食べられました。まあ、何とかなっておりました。空腹で死にそうでしかたが」

美羽(メイユー)よ、それは何ともなっていない」

 言って諭すと、薄藍の瞳が潤む。
 肩を震わせて涙を零す。その様もまた可憐だった。

「辛かった、です……」

 絞り出すような声が憐憫を誘う。

「お前は我のものだ。もう誰にも害させない」

「わたしが死にかけの虫だからですか?」

 そう思ったことは確かだ。だが根底にあるのは。

「いや、初めて美しいと思ったからだ」

 蛾の翅がとても美しい。(かんばせ)がとても美しい。初めての感情。初めての所有したいという欲。
 烏より竜がいいと捧げてきた()(ウェイ)には褒美をやらねば。

「変なお方ですね、蛾は嫌われ者でございます」

「後宮には蝶の女もいるが、お前の方が優美だ。可憐で、嫋やかで。女を賛辞する言葉を持たぬ故、この程度の言葉しか出ぬが」

 止んでいた涙がまた降る。
 手巾で拭ってやると、ぽかんと口を開けた。品がないと言われそうな動作だが、それもまた可愛らしい。
 これ幸いと口に粥を運ぶ。きちんと咀嚼して食べるのでそのまま給餌してやる。ずっと腑に落ちない様子だった。
 あんなに女が嫌いだったのに世話をするのが嫌ではないというのは自分でも腑に落ちていないが、そう、言葉にするなら“心奪われた”だろうか。
 用意された粥を全て平らげたので、女官を呼んで湯殿へ送り出した。その間に唯玉(ウェイユー)は自分の分の食事を摂り、美羽(メイユー)とは別の湯殿へ向かう。さっと汗を流して戻ると、扇情的な肚兜(ドゥドゥ)を身に纏い所在なさそうにしている美羽(メイユー)がいた。

「あの、主上」

「わかった。とにかく身体を冷やすから寝台の中にいろ」

 もぞもぞと上掛けの中に入ったのを見て、美羽(メイユー)の隣に潜り込む。

「ほ、本当に同衾しなくても」

「我が隣にいるだけで多少効果があるからな。ほら、口づけするぞ。苦いから覚悟しろ」

 唇を重ねると、舌を伸ばし深く絡める。
 やはり苦かったのか苦しそうな顔をする。もう止めてもいいのだが、しばらく口づけを堪能した。
 息も絶え絶えになった美羽(メイユー)の口に、口直しの飴をひと粒放り込む。

「苦かったですが、美味しいですねこの飴」

 真っ赤になりながらもごもごと飴を舐めている。処女には刺激が強かったか。

「蜂蜜で出来た飴だ。気に入ったなら好きに食べろ。そこの棚の引き出しに入っている」

「ここにずっといるのですか?」

 不安そうな、期待しているような目で見られ堪らなくなる。
 しかし、治療のために近くに置いている。快調になるまでは手を出さないと決めた。

「ずっとではない。治療が終わったら宮へ帰す。ここにいる間、我が不在の時は居間と書斎で時間を潰せ。あとはなるべく庭を散歩しろ」

「御意にございます」

 そんな話をしているうちに美羽(メイユー)がうつらうつらしてくる。

「善い夢を」

「は、い……しゅじょう、も……」

 こてんと力が抜け、安らかな寝息を立てる彼女の純白の髪を撫でる。
 情けを掛ける気ならいっそ閉じ込めてしまえばいい。
 しかし、陽の光を浴びる美羽(メイユー)はきっと美しいだろう。
 持て余す気持ち、感情。今まで無かったもの。
 思案していると美羽(メイユー)の体温に引き摺られ眠気を覚える。唯玉(ウェイユー)は目を閉じた。