頭がふらふらする。
もう何日も眠れていない。不眠症と診断されて薬を処方されたが効かない。
眠気に餓えて、苦しくて、目の前に現れた薬人に慈悲を乞うた。
「お情けを、くださいませ……!」
それがどんな場で、誰が見ていて、どう映るのか全く考えられなかった。
何せ寝不足で頭が死んでいたので。
目が覚めると錦の寝台に寝かされていた。
覚めたということは寝ていた。どのくらい寝ていたのだろう。
蛾美羽は蛾才人として花竜国後宮で皇帝に仕える妃のひとりだった。才人といえば吹けば飛ぶような木っ端妃。こんな贅沢な寝床を使っていないことは確かだった。
上半身を起こすと背の翅から落ちた鱗粉が敷布を汚していて、すっきり寝たはずなのに眩暈がする。
天蓋や布団に竜が描かれて、もしかしてもしかするのだろうか。
思い至ると身が竦んで慌てて寝台を出ようとした。しかし足がもつれどさっという音を立て無様にも床に倒れた。
「わたしが何をしたって言うのよ……」
情けなくて涙が溢れそうになった時、寝所の扉が開く。
入ってきたのは、もちろん脳裏に過っていたお方。
跪拝しようとして、身体に上手く力が入らず這いつくばったまま藻掻いた。
「……何をしている」
「ご、ご挨拶をしようと思ったのですが、身体が上手く動かず」
低くよく通る声に問われ、不出来に身を震わせながら答える。
そして無言。
金の目を眇め、皇帝花唯玉は美羽に近寄ってくる。
あまりにも無様かつ不敬でこのまま手打ちか――と身構えた。
しかし唯玉は美羽を持ち上げると寝台に戻して上掛けを被せる。そして子供にするように頭をぽんぽんと撫でた。
「病人は寝ていろ」
「しかし、こちらは主上の寝台では」
たまらず声を上げる。許しのない発言だったが、皇帝の寝台に寝るというとはとんでもないことだと思ったからだ。
「お前の宮は大層住みにくそうだった。策を講じているが故、しばらくは治療を兼ねて我と同衾してもらおう」
「どう……きん……?」
木っ端妃、家格だけで才人に滑り込んだ美羽と同衾……? と、何か裏があるのではないかと喜びより怯えが先にくる。
判りやすく青くなった美羽に唯玉は苦笑した。
「何も取って食わん。お前は重度の不眠症で、治すのに時間が掛かる。我に懇願するほど体調が悪かったのだろう。薬人、それも酸棗仁湯の薬効があるとされる我に」
顕現、という概念がある。人間に人ならざる特徴が現れることだ。
美羽の血筋は虫の蛾、唯玉は父から竜と母から薬、といったものである。特に唯玉の薬の顕現で人に与える影響として、酸棗仁湯――即ち不眠に対する効果があるとされる。
どうしても寝たかった美羽は、園遊会の最中に皇帝の御前に赴き眠りたいことに対して情けを乞うた訳だ。
「お前の振る舞いから、みな手を付けたと思っていることだろう。今日から蛾美人だ」
「実際に手が付いていないのに、でありますか」
もう許可がどうとかどうでも良かった。知るもんか。疲れた。
やけになった美羽は彼を真っ直ぐに見上げる。漆黒の長い髪、金の切れ長の目、額から生えた一対の竜の角。
美しく、恐ろしい竜の力を持った存在。所詮羽虫である美羽にとって強大過ぎた。
だが死ぬならこの美しいものを眺めて死にたい。
「手が付いたことにしておけば、宦官どもも我に誰と寝ろこれと寝ろと言ってこんだろう。我は煩わされない、お前は治療出来る。今後抱くかは横に置いて、病人に無体を強いる気はない」
「あまりにも、その、わたしにとってあまりに破格の待遇では?」
何か裏があるのだろう、と思い覚悟をした。
唯玉はうそっりと笑う。
「なに、死にかけの羽虫が存外美しかったので手元に置いたまで」
布団の隙間から覗いている翅を摘ままれた。
浅藍色大天蚕蛾の薄藍色した翅を丹念に撫で、彼は指についた鱗粉を舐める。
絶対に舐めるべきではないものを口に含まれ卒倒しそうだ。
――ああ、わたしは虫籠の中の虫なのだ
この飼い主に頭を垂れるしかない。そう悟った。
蛾一族は文字通り蛾の顕現した姿をしている。
勤勉で実直ではあるが、得てして蛾とは嫌われ者であった。官僚を幾人も輩出し、僅かながらの領土を持つもののさっぱり栄えていない。
そんな一族直系の娘が美羽だ。生まれながらに蛾の中でも美しいと称される翅を持ち、両親が美羽と名付けた。
浅藍色大天蚕蛾と呼ばれる蛾は、薄藍の大層優美な翅を持ち“蛾”の持つ印象とはかけ離れている。その翅に加えて純白の髪に薄藍の瞳が神秘的と言われる容姿をしており、顔立ちは愛らしいと褒められた。
“蝶”よ花よと育てられ、官僚になった兄から後宮入りを指示される。蛾家のために尽くしてこい、と。
今上帝には子供がいない。後宮に妃は揃っているがいつも同じ女人たちを規則正しく回っているだけ。不妊妃ども、と口さがない者は言うが真実は不能帝なのではないか、と市井でまで囁かれる始末。
ただ、美しく、強く、冷たく、理知的で、善い施政の皇帝だった。後継者問題も本人が何とかするだろう、と周囲は思っていたのである。
そんな中、三兄がずば抜けて優秀な官僚で皇帝と気の置けない関係であったがために美羽は才人を授かることになった。しかし、後宮に入ろうともお手つきになることはないと思っている。何故なら、いくら美しいと言えど所詮は虫。後宮にはもっと美しい顕現を纏った女人が数多くいるという。正直精神の負担だった。
いざ帝城に入ってみると、何とお付きの高位女官が蜘蛛の娘だった。他にも蟷螂や蜂、様々な鳥。
脳裏に一言閃いた。捕食、と。
幸い捕食こそされなかったものの虐めは苛烈だった。下級の皇帝に見向きもされない羽虫はさぞ甚振りがいがあっただろう。あわよくばお手つきになって女官から上級の妃嬪になれないか夢見ている女人たちである。
貧相な食事があるだけまし、食事を抜かれたり洗濯をされなかったり美羽の手入れを怠ったり。
負けるものかと気張っていたが、いつの頃からか寝つきが至極悪くなり何日も眠れなくなった。たまに気絶して短時間で目が覚めて、を繰り返す。侍医や薬師に診てほしいと嘆願するが女官によって握り潰される。何とか目を盗んで薬を手にしたが、飲んでも眠れない。
いよいよ限界だと思った日、その日は園遊会だった。
妃嬪が一堂に会し、皇帝を囲んで庭で見かけ上のほほんとする会。水面下では女同士の熾烈な戦いの場である。
とてもふらふらする。離人感がある。立っているのが億劫で、空腹でもあった。
今にも倒れると思った時、皇帝が目の前を横切った。
このお方は、不眠に効く薬効を持った薬人でもある。
どうか、まともな眠りを与えてほしい。
「お情けを、くださいませ……!」
それだけ言って倒れた。
端から見たら寵を求めてぶっ倒れたよく分からない女である。
皇帝はそれを拾って寝所に運んだという。
何故、その辺の部屋ではなく寝所だったのだろう。考えてもよく分からない。
理解出来るのは、皇帝が隣で横になっているという事実。
もう何日も眠れていない。不眠症と診断されて薬を処方されたが効かない。
眠気に餓えて、苦しくて、目の前に現れた薬人に慈悲を乞うた。
「お情けを、くださいませ……!」
それがどんな場で、誰が見ていて、どう映るのか全く考えられなかった。
何せ寝不足で頭が死んでいたので。
目が覚めると錦の寝台に寝かされていた。
覚めたということは寝ていた。どのくらい寝ていたのだろう。
蛾美羽は蛾才人として花竜国後宮で皇帝に仕える妃のひとりだった。才人といえば吹けば飛ぶような木っ端妃。こんな贅沢な寝床を使っていないことは確かだった。
上半身を起こすと背の翅から落ちた鱗粉が敷布を汚していて、すっきり寝たはずなのに眩暈がする。
天蓋や布団に竜が描かれて、もしかしてもしかするのだろうか。
思い至ると身が竦んで慌てて寝台を出ようとした。しかし足がもつれどさっという音を立て無様にも床に倒れた。
「わたしが何をしたって言うのよ……」
情けなくて涙が溢れそうになった時、寝所の扉が開く。
入ってきたのは、もちろん脳裏に過っていたお方。
跪拝しようとして、身体に上手く力が入らず這いつくばったまま藻掻いた。
「……何をしている」
「ご、ご挨拶をしようと思ったのですが、身体が上手く動かず」
低くよく通る声に問われ、不出来に身を震わせながら答える。
そして無言。
金の目を眇め、皇帝花唯玉は美羽に近寄ってくる。
あまりにも無様かつ不敬でこのまま手打ちか――と身構えた。
しかし唯玉は美羽を持ち上げると寝台に戻して上掛けを被せる。そして子供にするように頭をぽんぽんと撫でた。
「病人は寝ていろ」
「しかし、こちらは主上の寝台では」
たまらず声を上げる。許しのない発言だったが、皇帝の寝台に寝るというとはとんでもないことだと思ったからだ。
「お前の宮は大層住みにくそうだった。策を講じているが故、しばらくは治療を兼ねて我と同衾してもらおう」
「どう……きん……?」
木っ端妃、家格だけで才人に滑り込んだ美羽と同衾……? と、何か裏があるのではないかと喜びより怯えが先にくる。
判りやすく青くなった美羽に唯玉は苦笑した。
「何も取って食わん。お前は重度の不眠症で、治すのに時間が掛かる。我に懇願するほど体調が悪かったのだろう。薬人、それも酸棗仁湯の薬効があるとされる我に」
顕現、という概念がある。人間に人ならざる特徴が現れることだ。
美羽の血筋は虫の蛾、唯玉は父から竜と母から薬、といったものである。特に唯玉の薬の顕現で人に与える影響として、酸棗仁湯――即ち不眠に対する効果があるとされる。
どうしても寝たかった美羽は、園遊会の最中に皇帝の御前に赴き眠りたいことに対して情けを乞うた訳だ。
「お前の振る舞いから、みな手を付けたと思っていることだろう。今日から蛾美人だ」
「実際に手が付いていないのに、でありますか」
もう許可がどうとかどうでも良かった。知るもんか。疲れた。
やけになった美羽は彼を真っ直ぐに見上げる。漆黒の長い髪、金の切れ長の目、額から生えた一対の竜の角。
美しく、恐ろしい竜の力を持った存在。所詮羽虫である美羽にとって強大過ぎた。
だが死ぬならこの美しいものを眺めて死にたい。
「手が付いたことにしておけば、宦官どもも我に誰と寝ろこれと寝ろと言ってこんだろう。我は煩わされない、お前は治療出来る。今後抱くかは横に置いて、病人に無体を強いる気はない」
「あまりにも、その、わたしにとってあまりに破格の待遇では?」
何か裏があるのだろう、と思い覚悟をした。
唯玉はうそっりと笑う。
「なに、死にかけの羽虫が存外美しかったので手元に置いたまで」
布団の隙間から覗いている翅を摘ままれた。
浅藍色大天蚕蛾の薄藍色した翅を丹念に撫で、彼は指についた鱗粉を舐める。
絶対に舐めるべきではないものを口に含まれ卒倒しそうだ。
――ああ、わたしは虫籠の中の虫なのだ
この飼い主に頭を垂れるしかない。そう悟った。
蛾一族は文字通り蛾の顕現した姿をしている。
勤勉で実直ではあるが、得てして蛾とは嫌われ者であった。官僚を幾人も輩出し、僅かながらの領土を持つもののさっぱり栄えていない。
そんな一族直系の娘が美羽だ。生まれながらに蛾の中でも美しいと称される翅を持ち、両親が美羽と名付けた。
浅藍色大天蚕蛾と呼ばれる蛾は、薄藍の大層優美な翅を持ち“蛾”の持つ印象とはかけ離れている。その翅に加えて純白の髪に薄藍の瞳が神秘的と言われる容姿をしており、顔立ちは愛らしいと褒められた。
“蝶”よ花よと育てられ、官僚になった兄から後宮入りを指示される。蛾家のために尽くしてこい、と。
今上帝には子供がいない。後宮に妃は揃っているがいつも同じ女人たちを規則正しく回っているだけ。不妊妃ども、と口さがない者は言うが真実は不能帝なのではないか、と市井でまで囁かれる始末。
ただ、美しく、強く、冷たく、理知的で、善い施政の皇帝だった。後継者問題も本人が何とかするだろう、と周囲は思っていたのである。
そんな中、三兄がずば抜けて優秀な官僚で皇帝と気の置けない関係であったがために美羽は才人を授かることになった。しかし、後宮に入ろうともお手つきになることはないと思っている。何故なら、いくら美しいと言えど所詮は虫。後宮にはもっと美しい顕現を纏った女人が数多くいるという。正直精神の負担だった。
いざ帝城に入ってみると、何とお付きの高位女官が蜘蛛の娘だった。他にも蟷螂や蜂、様々な鳥。
脳裏に一言閃いた。捕食、と。
幸い捕食こそされなかったものの虐めは苛烈だった。下級の皇帝に見向きもされない羽虫はさぞ甚振りがいがあっただろう。あわよくばお手つきになって女官から上級の妃嬪になれないか夢見ている女人たちである。
貧相な食事があるだけまし、食事を抜かれたり洗濯をされなかったり美羽の手入れを怠ったり。
負けるものかと気張っていたが、いつの頃からか寝つきが至極悪くなり何日も眠れなくなった。たまに気絶して短時間で目が覚めて、を繰り返す。侍医や薬師に診てほしいと嘆願するが女官によって握り潰される。何とか目を盗んで薬を手にしたが、飲んでも眠れない。
いよいよ限界だと思った日、その日は園遊会だった。
妃嬪が一堂に会し、皇帝を囲んで庭で見かけ上のほほんとする会。水面下では女同士の熾烈な戦いの場である。
とてもふらふらする。離人感がある。立っているのが億劫で、空腹でもあった。
今にも倒れると思った時、皇帝が目の前を横切った。
このお方は、不眠に効く薬効を持った薬人でもある。
どうか、まともな眠りを与えてほしい。
「お情けを、くださいませ……!」
それだけ言って倒れた。
端から見たら寵を求めてぶっ倒れたよく分からない女である。
皇帝はそれを拾って寝所に運んだという。
何故、その辺の部屋ではなく寝所だったのだろう。考えてもよく分からない。
理解出来るのは、皇帝が隣で横になっているという事実。