二人は馬車に乗り、五日ほどかけて、聖ヴェリタ大聖堂がある叡神都市フロノスへと到着した。鉱山があるのは、この隣にある熱石都市アロンソだが、まずは偽装のお参りがある。いいや、そんな不純な気持ちで礼拝するわけにはいかないと思い直し、マリアローズはモノトーンの装いで、普段より露出の少ないドレスを身に纏っている。

 ハロルドもまた、華美ではない装いだ。持参した衣装も同様だ。こちらは鉱山へ登る事を考え、軽装を用意してきた次第だ。

 叡神都市フロノスは、中央に大聖堂があり、その周囲には迷路のような路地が広がっている丸い都市だ。多神教である聖ヴェリタ教では、万物に神が宿るとしていて、時間にもその一瞬一瞬に神がいると唱えている。そのため、時計を表す丸い形に都市を築いたのだと、マリアローズは家庭教師から習った事がある。

 この教えはこのパラセレネ王国だけではなく、この王国があるアストラ大陸全土に広がっている。受け入れられやすいのには理由があって、数多の種族がいる大陸には、それぞれの神がいるのだが、全ての神を認めているおおらかさにより、次々と己の神も聖ヴェリタ教の一柱だと主張した種族が多かったのである。だが過去には異教徒に攻め入られた歴史もあるため、迷路のような街並みは、砦も兼ねていた頃の名残なのだという。

 だが今では綺麗な景観に統一されており、目を惹く建造物が多い。

「ここね」

 馬車が停止したので、マリアローズは車窓から宿を見上げた。
 旅路が漸く終わったこの日は、ゆっくりと休むと決まっていた。

「お手どうぞ」

 先に降りたハロルド陛下の手に、マリアローズがほっそりした指を載せる。するときゅっと握られた。

「な、なに?」
「別に」

 しかしその手はすぐに離れたので、突然のことに動揺したマリアローズだったが、首を傾げたものの忘れることにした。騎士達が先に入り、並んでいる。侍従の一人が受付の前にいる。宿の支配人が出てきて、恭しく二人に腰を折った。それを一瞥し、ハロルド陛下が柔和に微笑む。

「お世話になります」
「勿体ないお言葉です、ハロルド陛下」

 上辺の笑顔にすっかり騙されている支配人に、マリアローズは続いて挨拶をした。
 それから二人は、支配人の案内で中へと入った。

 階段を進んでいき、三階の豪奢な扉の前で立ち止まった支配人は、右手でその扉を示す。

「こちらです」

 ハロルド陛下の部屋に先に来たのだろうかと思いながら、マリアローズは中を見る。ハロルド陛下は会釈をして中へと入った。中には、左右に巨大な寝台があった。部屋の中にベッドが二つだ。

「私もこちらのお部屋ですの?」
「ええ。当宿には、王族の方をお迎えできる部屋はここのみでございまして……街全体が質素をよしとしており……宿も当館だけなのでございます」

 支配人が苦笑している。
 それを見て頷き、マリアローズは中へと入った。そうして、硬直しているハロルド陛下を不審に思った。

「どうかしたのですか?」
「マリアローズ様は、どうかしないのか?」
「え? なにがでございますか?」
「つまり俺の事を微塵も意識していないというわけだな?」
「はい? どういう意味です?」
「いいや、特に意味は無い」

 すると首を何度も振ってから、ハロルド陛下は左の壁際のベッドを見た。

「俺が左でいいか?」
「ええ、お好きになさって。それでは私は右を使います」

 こうして位置も決まったので、二人は夕食の時間を告げた支配人が下がるというので見送った。そこへ侍従と侍女が荷物を運んできてくれた。受け取り、マリアローズは荷ほどきをする。中身は主に、寄付する品だ。

 当初は飲食物を考えたのだが、聖ヴェリタ教は文字を民衆に教えている事を念頭に、マリアローズは筆記用具と紙を用意した。聖ヴェリタ教のおかげで、この国の識字率は比較的高い。貴族は家庭教師に習うのだが、平民の子供達は各都市や街・村にある教会や両親、仕事の師に文字を習う場合が非常に多い。

「喜んでくれるかしら」

 口の中でそう音もなく呟いてから、何気なくマリアローズはハロルド陛下の方を見た。
 するとベッドに座って腕を組み、俯いていた。
 なにやら深刻そうな顔をしている。やはり、鉱山の事が心配なのだろうかと、マリアローズは考えた。

 それからもマリアローズは寄付する品の確認を続ける。
 ハロルド陛下の事は意識に無かった。

 夜の七時になり、支配人が夕食の時間だと知らせに来た時になって、やっと思い出したほどだ。

「参りましょう」
「そうだな」

 こうして二人は支配人の後に従い、絨毯が敷かれた白い廊下を進んだ。
 階段を降りていき、二階のダイニングへと入る。
 そこには様々な皿が並んでいた。一つずつ出てくる王宮とは異なる。礼儀作法はその土地により、多少の変化がある。王族はその全てをたたき込まれるので、特に困る事は無く、マリアローズはひかれた椅子に座り、ナプキンを膝の上に置いた。

「まぁ美味しそう」

 目を惹くのは牛の香草焼きだった。
 一口食べればハーブの良い香りと、檸檬の風味が口腔に広がる。頬がとろけそうだと思いながら、マリアローズは、優雅に食していく。所々に穴があいたミモレットも、柔らかな感触でとても美味だ。そのチーズが、特にお気に入りになった。白い栗のスープも絶品だった。じっくりと味わったマリアローズは、時折ハロルド陛下を見たのだけれど、上辺にこそ笑みを浮かべているのだが、いつもより口数が少ない。どこか表情も強ばっている。そこまで鉱山の件は深刻なのだろうかと、マリアローズまで不安になってくる。

 こうして食後、二人は再びあてがわれた部屋へと戻った。
 そしてマリアローズは入浴する事に決め、外に控えていた侍女を伴い、宿の大浴場へと向かう。貸し切りのその場で、乳白色のお湯に浸かっていると、旅の疲れが溶け出すようだった。体の芯から温まり、マリアローズは入浴を終える。そして薄手の夜衣に着替えて、部屋へと戻った。すると視線を向けてきたハロルド陛下が、息を詰めて震えた。

「おい」
「なんでございますの?」
「そ、その……ガウンでも着たらどうだ?」
「何故です?」

 首を傾げつつ、マリアローズは自分のベッドへと向かう。二つのベッドはとても巨大なので、距離が近い。マリアローズはそこで、まとめていた髪をほどくと、繊細な細工の施された櫛で、長い髪を梳かす。左側に流しているから、白いうなじがよく見えた。首筋も肩もよく見える作りのドレスだ。マリアローズのお気に入りの一つである。ちょっと胸元が開きすぎかもしれないと考える事もあるが、着心地は悪くない。

 髪を整えたので、櫛を置き、マリアローズはベッドに座り直した。
 するとハロルド陛下も座っていたため、向き合う形となる。
 ハロルド陛下は、何故なのか睨むようにマリアローズを凝視している。

「あの? 私何か致しました?」
「……率直に言うべきか? 言うべきだな。あのな……なんて言えばいいんだ……?」
「どうしたのです?」

 言い淀むハロルド陛下など珍しい。やはりそれだけ鉱山の件は深刻に違いないと確信したマリアローズは身を乗り出した。その時、シーツを踏んだ。ずるりと滑り、そのまま真正面に倒れる。

「ばっ、馬鹿……!」

 慌てたようにハロルド陛下が手を伸ばす。結果、床への激突は避けられた。代わりにハロルド陛下を下敷きにする形になったが、ハロルド陛下の体はベッドにぶつかったので無事である。

「ありがとうございます」

 お互い無事でよかったと思いながら、ギュッとハロルド陛下の胸元の服を掴み、マリアローズは微笑した。

 すると目を丸くして唇を震わせた直後、ハロルド陛下の両頬が朱くなった。至近距離、唇が触れあうほど近くにいたマリアローズは、はっきりとそれを見た。直後、目と目がバチリとあう。お互いの瞳にお互いが映るほどの距離だ。マリアローズは最初、状況が分からなかった。ただただ端正な青い瞳が自分を見ている事が分かっただけだった。

 それから少しして――あっ、と、思った。

 自分が現在、ハロルド陛下を押し倒している状態だと気づいたのである。その瞬間、カッとマリアローズの顔も真っ赤になった。するとハロルド陛下の頬はさらに朱くなる。真っ赤なままで、二人はお互い目を離せない。

 暫くの間そうしていた時、時計が十時を告げた。そろって我に返り、マリアローズは向かって右に、ハロルド陛下は向かって左に、息もぴったりに顔を背けた。心拍数が酷い状態で、マリアローズは唾液を嚥下する。

「……あ、あの、そ、その、し、失礼致しました……」
「……そ、そうだな。ど、退け……」
「え、ええ!」

 慌ててマリアローズは体を起こし、右側を向いたままで自分のベッドへと戻った。
 ハロルド陛下は向かって左を向いたままで、ベッドに座り直す。

「ふ、風呂に行ってくる」
「い、いってらっしゃいませ。いい温泉でした」

 逃げるようにハロルド陛下が部屋から出て行った。その姿が消えた瞬間力が抜けて、マリアローズはベッドの上でへたりこんだ。それからまだ煩い鼓動の音に、再び真っ赤になりながら、やり場の無い感情がこみ上げてきたので、右手でバシバシと枕を叩く。それから緊張と気恥ずかしさに襲われて、両手で顔を覆った。そうしながら寝転んで、頭を枕に預ける。

 ――これでは絶対に眠れない。
マリアローズは、ドクンドクンと騒ぐ胸の音に大混乱していた。
 自分は女であり、あちらは男性であると、改めて認識した。
 以前告げられたその言葉の意味が、漸く分かった心境だ。

「私は、どうかするべきだったんですわ。二人で同じ部屋は駄目だとお伝えするべきでした……」

 真っ赤なままでギュッと目を閉じたマリアローズは――……その後すぐに熟睡した。馬車旅で疲れていたようだ。