夢を見た。何かとてつもなく恐ろしい魔物に追いかけられて、逃げ場を失って崖から崩れ落ちる夢。最後に感じたのは前世の彼を見つけられなかった後悔ではなく、晴月と出掛ける約束を果たせなかったことに対する後悔だった。
「起きた?」
 ぽいとその辺に投げ捨てるみたいに吐きかけられる言葉で、微睡んでいた意識が鮮明になる。ハッと起き上がった琳音は、手枷と足枷によって両手と両足の自由が奪われていることに気が付いた。
 正方形の真っ黒な部屋には暗い色の調度品が揃えられている。天井に吊るされている乳白色の灯りが、壁にもたれかかるように固定されている琳音を照らしている。その正面には、晴月と同じ顔をした男が玉座に腰掛けていた。
「そんなに睨まないでよ、怖いなぁ」
 どうどう、と両手を広げて琳音を宥めるポーズをとる男は、ヘラヘラと笑いながら足を組み替える。
「改めまして──初めまして、雨月(うげつ)です。晴月の双子の弟だよ」
 琳音は瞠目した。晴月が双子だなんて聞いたことがなかったからだ。
 信じられないと言った様子の琳音を見て、雨月は嬉しそうにクスクスと笑う。
「兄さんから聞いてないんだ? 随分と信用されてないんだね」
「……っ」
 わざと琳音を煽るような言葉を選んでいるのだろう。琳音はぐっと唇を噛みながら、負けないようにその顔を睨み続ける。
「っあはは、逆に見苦しいって。どう? 大好きな兄さんの顔で酷い目に遭わされる気分は」
「……あなたは、晴月じゃない」
「そんなこと言わないで。酷いよ、琳音」
 雨月の口から出る声が途端に晴月の声になったので、琳音は思わず言葉を失ってしまう。
(違う、この人は晴月なんかじゃない! これは偽物なんだ……!)
 すぐに持ち直した琳音を見て、雨月は楽しそうに口元に手を当てながらクスクスと笑った。
「健気だねぇ。その威勢がいつまで続くかな」
 雨月はにこりと微笑むと、ぴんと人差し指を立てた。
「さて、ここで問題です。ここは俺の国の城。君は俺に誘拐されました。なんでだとおもう?」
 明らかに雰囲気が違うとは思っていたが、最悪の想定通り、ここは雨月が治めている国らしい。どうしてただの平民である琳音が攫われたのだろう。
 全く答えが思い浮かばずに黙りこくる琳音を見て、雨月は満足そうに口角を吊り上げる。最初から、正解を求めているわけではないらしい。
「答えはね、俺が、君のことが大嫌いだからだよ」
 すっとその目が細められて、笑顔が消える。雨月の雰囲気が変わった瞬間に、琳音にぞっと悪寒が走った。本能がこのままではまずいと警鐘を鳴らしている。琳音はその場から逃げ出そうともがくが、ガチャガチャと手枷が音を立てるだけでびくともしない。
「はは、無駄無駄。万が一その鎖が外れたって、俺から逃げられるわけないじゃーん。この宮殿の敷地内には三百を超える数の護衛がいるんだよ」
 雨月の言葉を聞いて絶望が頭によぎる。雨月は立ち上がると、やれやれと首を横に振った。
「君みたいな弱っちいの、すぐに食われちゃうかもね。……なんちって、鬼は俺だけなんだけど〜」
 ひたひたと雨月が琳音に近付いてくる。琳音はがくがくと震える膝を堪えながら、必死に唇を噛み締めて雨月を睨みつけた。気持ちで負けてしまったら、もう生きていられないということはわかっていた。
「うーん、謎だなあ」
 雨月は琳音を上からジロジロと見下ろしてから、思い悩むような顔で首を傾げる。
「晴月も馬鹿だよね、なんでこんな女がいいんだろ」
 言いながら琳音は前髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。
「やっぱり顔かなあ。──じゃあ、顔をぐちゃぐちゃにしちゃおっか」
 ニタリと笑うその顔で吐き出された言葉を耳にした瞬間、ひゅっと喉が鳴った。雨月の、琳音の前髪を掴んでいない方の手から、ぴんと鋭く長い爪が生える。まるで刃のような五本の爪が、琳音の頬にゆっくりと触れる。ツツ、と引っ掻くようにされただけで、焼け付くような痛みを感じた。
「アイツって昔からよくわかんないんだよね。綺麗な宝石より道端に転がってる汚い石ころに目を惹かれてたし、年頃になっても王位につかずに逃げ回って、散々痛い目見たはずなのにまた同じこと繰り返してんのウケるな」
 ぽたぽたと血が床に垂れる。痛くて怖くてたまらないけど、それよりも琳音の胸に襲ってきたのは制御が効かないほどに大きな憤りだった。
「え? 何その目」
 近い位置にいる雨月が、まるで虫けらでも見るような目で琳音を見ている。琳音はぐっと拳を握りながら、腹の底から声を振り絞った。
「……きを、……晴月を、馬鹿にしないで」
 憎しみを込めてその目を強く睨み付けると、頬に触れていた手がそっと離れていった。
「あなたみたいな汚い心の持ち主には、晴月の気持ちなんかわかるわけない」
 一人ぼっちだった琳音を救い上げてくれた。何もなかった琳音に、居場所を与えてくれた。一人で食べる冷たい食事より、二人で食べる温かい食事が幸せだと教えてくれた。
 琳音にとって、晴月は救世主であり命の恩人だ。そんな大切な人を馬鹿にするような発言をする雨月のことが許せない。自分のことはいくら蔑まれたって構わないが、晴月を貶すことは看過できなかった。
「……気が変わった」
 雨月は面倒臭そうにそう言うと、ゴキゴキと首を鳴らした。みるみるうちにその髪の色は黒色に染まり上げ、瞳の色は青色に充血し、禍々しい角が頭の上に生える。桁違いの威圧感を感じた琳音は、震える身体をもう抑えることはできなくなった。
「ちょっと痛め付けてやろうとしただけなんだけど、やっぱ殺す」
 これが本当の姿なのだろうか。雨月の顔からは表情が抜け落ちて、生気を感じない。
(殺される……!)
 本能的に直感した琳音は、恐ろしさから呼吸が乱れるのを、必死に胸を抑えながら耐えた。
「残念だね、せっかく生まれ変わったのに。何も成し得ずまた終わるなんて」
 雨月の言葉を聞いて、一瞬時が止まった。
 恐怖すら忘れるほどの衝撃。琳音は、ぽかんと口を開けたまま、驚愕に身を任せて声を漏らした。
「……え?」
「最初に会ったときから変だと思ってたんだけど、本当に覚えてないんだ。普通はさ、もっと警戒するもんでしょ。だってさあ」
 雨月は底冷えするような冷たい嘲笑と共に、言葉を吐き出した。
「前世で君を殺したの、俺だよ」 
 目の前が真っ白になった。
 頭の中でザザッと砂嵐のように記憶が巻き上がり、重く閉ざされていた蓋が開く。それはどうしても思い出すことのできなかった、琳音の最期の瞬間。
 小川が流れる向日葵畑。そこに琳音は恋人と連れ立ってやってきた。他愛もない会話を楽しんでいたのに、急に天気が悪くなって、激しい雨が降り始める。
 どこかに雨宿りしようとしたその瞬間、熱い痛みと共に琳音の腹は赤く染まっていた。血まみれになっていく自分の服を呆然と見つめていた琳音は、次第に身体の力が抜けていく。
 倒れ込むその寸前、向日葵畑の向こう側に見えたのは、満足そうに口端を吊り上げる──漆黒の髪をした、鬼。
(どうして、忘れていたんだろう)
 ──いや、きっと、自分は無意識に蓋をしていたのだろう。抱き止められた先で、自分のために涙を流して悲しむ彼を思い出すたびに、罪悪感と悲しみでいっぱいになって溺れてしまいそうになるから。
「やっと思い出してくれた? まあもう遅いけど」
 雨月に目を遣る。鋭い爪にはさっき琳音の頬を引っ掻いた際に付いた赤い血が滲んでいる。
「二回も俺に殺されるなんて、不幸な人生だね。さようなら」
 その爪が勢いよく振り落とされる。走馬灯のように晴月との思い出が頭をよぎって、何故だか前世の彼と重なった。
(晴月も、あの人みたいに、わたしが死んだら悲しむのかな)
 土産を買ってくると、今度一緒に出掛けようと約束してくれた晴月。生きているのか死んでいるのかわからなかった二十年間だったら、きっとこんな状況でも大人しく目を閉じて運命を受け入れられていたのかもしれない。
 でも晴月と出会ってしまったから、琳音はもう少しだけ晴月との生活を味わってみたいた思ってしまった。
(もっと晴月のことを知りたいし、わたしのことも知ってほしい)
 どれだけ話したって、どれだけ一緒にいたって、まだまだ互いに知らないことはたくさんあるし、時間が足りていない。
 まだ始まったばかりなのだ。二十年もの間眠っていて、やっと目覚めたような人生。これから続いていくはずの物語。だから──。
(まだ、死にたくない……!)
 琳音は祈るようにぎゅっと目を閉じた。その刹那、がらがらと何かが崩れ落ちる音と、地鳴りのような衝撃が聞こえてきて、思わずはっと目を開ける。
 目の前で雨月はぽかんとした表情で固まっていて、その顔がゆっくりと扉の方に向けられた。
「……は?」
 琳音もその視線を追って、視線を向ける。
「何で来れちゃうんだよ。意味わかんねえ」
 呆然とした様子で言葉を吐く雨月。その視線の先には、金色の髪に赤い瞳をした、今一番会いたいと思っていた人。
「晴月……」
 破壊されて大きくくり抜かれた壁の前で、煙に紛れながら立っていた晴月は、琳音の声を聞いてはっと視線を移した。視線が重なり、琳音はほっとしてへなへなと力が抜けてしまう。
「ごめん、遅くなった」
 近くで声がしたかと思えば、身体が温かいものに包まれる。一瞬のうちに琳音のもとにたどり着いた晴月によって抱き締められたのだと気付いたのは、数秒遅れてのことだった。
「大丈夫? ……血が出てる」
 晴月は眉根を寄せると、そっと手拭いを琳音の頬に当てる。
「痛いでしょ。すぐに手当てするから、少し我慢して」
「は、晴月。それより、なんでここに……」
「琳音が攫われたって聞いて、飛ばしてきた」
 当たり前のようにあっさりと言うので、琳音はわけがわからなくなってしまいそうだった。その後ろで、ゆらゆらと不気味に人影が揺れている。
「なあ、本当に一人できたの? 城ん中に三百人も置いてあったのに、どうやったらここまで来れるわけ? 兄さんすげえや、やっぱあんた最高だよ!」
 目を見開いて興奮したような様子の雨月は、あははと甲高い声で笑いながら天を仰いでいる。異常な様子に怯える琳音のそばで、晴月はぎゅっとその身体を抱いてくれた。
「もう諦めろ。おまえの思い通りにはならない」
「はあ? 何で? 諦めるのはそっちの方だろ! とっととあの国とその女捨てて、この国で一緒に暮らそうよ、兄さん」
「何度も言ってるだろ。俺は三百年前にお前とは絶縁している。もう兄弟ではない」
「…っはは! 同じ顔しておいてよく言うよ!」
 晴月と雨月。金色の髪と黒色の髪。まるで正義と悪のような二人は、血が繋がっているはずなのに正反対の性格をしているように見える。
「今後一切この女性に近付くな。次はないぞ」
 琳音が初めて聞くような鋭い声色で雨月に対してそう言い放った晴月は、琳音を抱き抱えると外は出て行こうと窓枠に飛び乗った。
 その瞬間、廊下の方からバタバタと護衛兵がやってくる。琳音たちに銃を構え、狙いを定めた。
「やめろ、兄さんに手を出したら許さない」
 それを制したのは雨月だった。雨月の言葉を聞いた晴月は、そっと雨月の顔を見た後に、窓を割って外へと出ていく。
 晴月と琳音が去っていった後、部屋に残された雨月は、それでもまだ楽しそうに笑っていた。
「今に見ててよ。絶対、兄さんは僕の元に帰ってくるんだから」