「明日は遠くの街まで行くから、屋敷に戻るのは深夜になると思う。多分顔を出せないから、先に寝てて」
 屋敷での生活にも大分慣れてきて、自分のために出された一人前の食事を完食できるようになってきた頃。いつものように夕飯を共にしているときに、晴月からそう言葉を掛けられた。
「わかった。気をつけてね」
「何か土産買ってくるよ。どんなものがいい?」
「えっ、いいの? えっと……じゃあ、その場所で晴月が一番綺麗だと思ったものがいいな」
 きっと仕事で行くのだろうが、琳音のことを気に掛けてくれることが嬉しい。晴月が自分のために選んでくれるものであれば、琳音はどんなものだって嬉しいのだ。
 思わずにんまりと頬を緩めてしまう。そんな琳音の顔を見て、晴月は目尻を下げた。
「わかった。……すごく綺麗な街なんだ。琳音も今度連れて行ってあげる」
「……わたしも!? 本当?」
「うん。ここに来てからまだ遠出したことないでしょ。たまには散歩がてら、出掛けよう」
 物置部屋で二十年間を探してきた琳音にとって、ここでの生活には全くと言っていいほど不満がない。そのため外へ出たいという気持ちも生まれてこなかったのだが、晴月と街へ出掛けられるというのは随分と魅力的な誘いだと思った。
「行きたい。とっても楽しみ!」
「じゃあ、帰ってきたら予定立てよ。食べたいものとか考えておいて」
「ええ、ありすぎて迷っちゃう。琴子さん、一緒に考えてくれます?」
「ふふ、もちろんですよ」



 その日、琳音は昼食をとった後、部屋で読書をして過ごしていた。ふと窓の外に目をやると、さっきまでは晴れ渡っていた空が鉛色に塗り変わっている。ゴロゴロと雷の音も聞こえてきたので、琳音は読みかけの本を閉じて不安そうに空を眺めていた。
(晴月、大丈夫かな。なんだか嵐が来そうだけど……)
 ──コンコン。
 ふと、部屋の扉が叩かれた。基本的にこの時間の来訪者は晴月以外に訪れることがないので、琳音はキョトンと首を傾げる。
(琴子さんかな? 晴月に何かあったのかな)
 素足のままぺたぺたと床を踏んで扉の前に近づき、少しの緊張を胸に扉を開くと、そこにいたのは──。
「──晴月! どうしたの? 街に行くんじゃなかったの?」
 金色の髪に少し吊り上がった赤色の瞳。扉を開けた先に立っていた晴月は琳音の姿を視界に捉えると、ほっとしたように口端を上げた。
「そのつもりだったんだけど、天気が荒れてきたから戻ってきたんだ」
「そうなんだ。ちょうど今、雷が鳴ってたから心配していたところだったの」
「心配してくれてたの? 琳音は優しいね」
 晴月はふわりと綺麗に微笑むと、琳音の頭をさらりと撫でた。
「少しお邪魔していい?」
「うん。片付けるからちょっと待ってて」
 琳音はそう言って晴月に背を向け、机の上に散らばったお気に入りの小説を一箇所にまとめようと、せっせと動き始める。
 手を動かしながら、琳音は胸に魚の骨のように引っかかる違和感の理由を、脳内で巡らせていた。
(こんなに雨が降っているのに、どうして晴月はちっとも濡れていないんだろう)
 外はお世辞にも小雨とは言えない暴風雨。風が強いせいで、さっきからカタカタと窓が音を立てている。
 それなのに晴月の髪はいつものように綺麗にまとまっていて、着物だって慣れている様子もなければ少しも崩れていない。
 まるでちぐはぐな様子に、琳音は違和感を覚えた。そして、一度自覚してしまった違和感は一つでは終わらない。
(晴月はいつも頭を撫でるとき、ぽんぽんって頭の上で手のひらを跳ねさせてから、最後に前髪をくしゃって撫でるのに)
 さっき晴月の手は、琳音の頭の上を規則的に二回往復しただけだ。いつもは温かみを感じるその手は、酷く冷たく感じた。
 どくどくと心臓が嫌な音を立て始める。背を向けた向こう側、扉の前にいるのは、本当に晴月なのだろうか。普通だったらありえないようなことを想像してしまう自分が嫌だ。
「もしかして、気付いちゃった?」
 本を片付ける手が止まってしまっていたのを見抜かれたのだろう。背後から聞こえてきた声は、もう晴月のものじゃなかった。
「あは、すごいなぁ。見抜かれたのは三百年生きてきて、初めてだよ」
 どこか楽しそうな、それでいてぞっとするような冷たさを含んだ声。徐々にこちらに近づいてくるそれが恐ろしくて、振り返ることができない。
「初めまして、琳音サン。いや──『久しぶり』って言った方がいいかな?」
「ど、うして、名前を」
 震える身体、掠れてしまう声。まるで何かの呪いを受けたかのように身体の制御が効かなくなってしまった琳音は、そのまま意識を手放した。
 薄れゆく意識の中、ぼやける視界に最後に映ったのは、ニタリと微笑む鬼の顔だった。