晴月は重ねられた琳音の手をぎゅっと握ると、その手を引いて部屋を出た。
 部屋の外に出ると、長い廊下が広がっていた。どうやら琳音の部屋は角部屋で、長い廊下の行き止まりにあたる奥まった場所にあったらしい。道理で物音一つしなかったわけだ。
 廊下を進んだ先にある、円形の踊り場に足を踏み入れる。見下ろせば、下に向かって長い階段が伸びていた。降りた先には広間があり、三つの人影が隅に並んでいるのが見えた。
 晴月に手を引かれ、ゆっくりと階段を降りていく。一階へと辿り着くと、晴月は頭を下げたままの三人に向かって声を掛けた。
「楽にして」
 その言葉を聞くなり、三人はゆっくりと顔を上げる。どうやらそれぞれ性別も年齢もバラバラのようだ。
「少し外出してくる。夕飯までには戻る」
「かしこまりました」
 琳音はそのうちの一人と視線が重なった。髪を後ろで一つにまとめた綺麗な女性で、目が合うとにこりと優しげに目が細められた。
「琳音様ですね。初めまして、琴子と申します。このお屋敷に仕えております」
「……! は、初めまして。琳音です」
「こちらは同じく使用人の三山、料理長の山岸です」
「よろしくお願いします」
 琴子さんの言葉に続いて中年の女性と初老の男性が頭を下げるので、琳音も会釈をして返す。どうやら琳音に毎日食事を作り、部屋まで運んでくれていたのはこの三人らしい。
「じゃあ、外に……」
「あの……!」
 玄関へ進もうとする晴月を制止した琳音は、その手を離して三人にしっかりと向き直り、緊張したようにごくりと唾を呑む。
「いつも美味しいお食事を、ありがとうございます。入浴している間にシーツを取り替えて、お掃除までしてくれてますよね? 本当に感謝してます」
 琳音が頭を下げると、三人は驚いたように目を見開いた。
「り、琳音様……!」
「とんでもない! 頭を上げてください……!」
 三者三様の慌てたような声が頭上から聞こえてくる。琳音が顔を上げると、穏やかに笑みをたたえる琴子が正面にいた。
「私達は琳音様の身の回りのお世話をするのが務めなので、お礼など不要です。それに、時折晴月様もお料理を手伝ってくださるのですよ」
「え、晴月が……?」
 振り向けば、晴月は少し困ったように視線を逸らした。
「簡単なものしか作れないけどね」
「知らなかった。忙しいのにありがとう。嬉しい」
 琳音が笑うと、晴月も応えるように目尻を垂らした。
「琴子さん、三山さん、山岸さん。これからもよろしくお願いします」
 琳音は三人に声を掛けてから、晴月の後を追ってその場を離れた。琳音の背より遥かに高い厳かな扉の前で立ち止まった琳音の手を、再び晴月の手が握る。
 目を合わせて頷いた二人は、静かに扉を開いた。久しぶりに直に浴びる太陽の光の眩しさに、琳音は目を細めた。そして、眼前に広がる光景に瞠目した。
 屋敷の前には護衛兵がずらっと列をなして立っていたのだ。彼らは晴月の姿を目にすると、一斉に敬礼をする。
「行こう」
 晴月はいつもと変わらぬ顔でそう言うと、素知らぬ様子で琳音の手を引いてスタスタと歩いていく。護衛兵の間を歩くことに慣れない琳音は、おろおろとした様子で縮こまって歩いた。
 護衛兵のトンネルを抜けて振り返ると、そこには見たこともないような豪華な洋館があった。一ヶ月間も自分はここにいたのだと頭では理解しているはずなのに、あまりの凄さに実感がわかない。
(薄々勘付いていたけど、もしかして晴月ってかなりのお金持ち?)
 自分の手を力強く握って引いてくれるその手はいつもの晴月の手だし、風に靡く金色の髪もしゃきっとした後ろ姿もいつもの晴月のはずなのに、なんだか別人のように思えた。
 
 屋敷の周りはちょっとした丘になっていて、柵に囲まれた広大な庭があった。さらにその先は鬱蒼と生い茂る森に囲まれていて、ここに辿り着くことが容易ではないことが見て感じ取れる。
 立派な噴水に近付いた晴月は、そこでようやく立ち止まった。人気のない静かな場所で、琳音もやっとしっかり息を吸い込むことができた。
「疲れてない?」
「ううん、大丈夫。ちょっと緊張しちゃったけど」
「俺といれば平気だったでしょ」
 晴月の言葉に大きく頷いた琳音は、しばらくの間噴水を眺めながら黙りこくっていた。
 前世でも見たことのないような大きな洋館、百を優に超える兵の数。普通ではありえないような光景が目の前には広がっていた。
 琳音はふと、姉と母がよく話していたあの噂を思い出す。
『王は金色の髪に赤い瞳をしているらしいわ』
『老人や子どもっていう噂もあるけど、目撃情報が一番多いのは美丈夫の君なのよ』
 琳音は晴月の姿を見た。夕陽に透けて金色の髪は一層煌めいている。同じように噴水に向いていた深紅の瞳が、琳音の視線に気付いてこちらに向けられる。
「……何か聞きたそうな顔してる」
 心臓がどきっと跳ねた。琳音は微かな緊張を悟られないように平然と振る舞おうとするが、表情に出てしまっていたらしい。
「そんなに警戒しないで」
 晴月は困ったように眉を垂らすと、繋いでいた手を静かに離して向き合った。
「……あなたが、この国の王なの?」
「そうだよ」
 意を決して発した問いかけには、存外あっさりと肯定の言葉が返ってきた。
「じゃあ、あなたは……」
 琳音は再び言葉を詰まらせる。紅色の瞳が、ゆっくりと細められる。
「鬼だ」
 晴月の口から語られても尚、信じることはできなかった。見た目は本当にただの人間なのだ。晴月からは禍々しい雰囲気も、身の毛がよだつような恐ろしさも感じられない。
 今さっきまで同じ人間だと当たり前のように信じていた人物が鬼だなんて、そんな話はまるで夢物語のようで、琳音は返す言葉もなく黙りこくってしまった。
「怖い?」
「ううん」
 琳音は即答した。
「一ヶ月間一緒に過ごしてみて、あなたは悪い人じゃないってわかってるから」
「全部演技だったらどうする?」
「……だとしても、裏切られたって気持ち以上にありがとうの気持ちが勝ると思う。わたし、この一月(ひとつき)本当に幸せだったの」
 ひとりぼっちの自分をどん底から救ってくれて、暖かい家を与えてくれた。絶望を経験した琳音は何よりもそのことに感謝し、奇跡にも近いような幸福を感じていたのだ。
「わたしを救い出してくれた人が、人間か人間じゃないかなんて関係ない。晴月は晴月だよ」
 口に出すことで、自分の気持ちを整理することができた。琳音は晴月への思いを改めて強く感じ、その紅色の瞳をじっとまっすぐ見据える。
「……そんなことを言われたのは、初めてだ」
 晴月はふっと笑うと、瞼を閉じた。
「ずっと仕事ばかりで退屈だったんだ。琳音が来てから、毎日君に会えるのが楽しみで仕方ない」
「わたしに?」
「うん、俺の方が救われてる。……ありがとう」
 晴月は目を細めると、ふわりと笑った。柔らかく穏やかな笑顔だった。思いがけず見惚れてしまうほどに、美しく琳音の瞳に映った。
 鬼は永遠の寿命を持つと言われている。晴月は一体何年生きているのだろうか。琳音が生きてきたのはまだほんの二十年だ。前世の分を合わせてもきっと晴月の生きた年数を超えることはできないだろう。
 そんな晴月が自分の存在一つで喜んでくれるということが、嬉しいと感じた。晴月は琳音を救ってくれて、琳音は晴月を救っている。互いに支え合えているこの関係性は、妙に心地いいと感じた。

「そういえば、前に言ってた『探し物』ってやつ」
「うん」
「まだ探してる?」
 出会ったばかりの頃、そういえば晴月に話したような気がする。前世の恋人を探して向日葵畑に行ったのも、もう一ヶ月も前のこと。
 あれから何の進展もないと思っていた琳音だが、不思議なことに一時期完全に消えかけていた前世の記憶が、近頃では徐々にはっきりと思い出しつつあるのだ。
 相変わらず顔は思い出せないが、交わした会話の内容や共に出かけた場所など、些細な機会に唐突に思い出すことがある。
 やはり彼の背格好がどことなく晴月に似ているからだろうか。彼の明るい雰囲気と晴月の落ち着いた雰囲気は似ていないが、一緒にいて心が落ち着けるところは同じように感じる。
「……探してるよ。やっぱりまだ、見つかりそうにないけど」
 全部忘れて新しく生きていく絶好の機会だったのかもしれない。だけど忘れられなかったということは、きっとそれは琳音にとって必要な記憶だということなのだろう。
「そっか。何か俺に手伝えることがあったら言って」
「うん。ありがと……」
 言いながら琳音は、はたと思い付いた。前世の記憶がいつのものなのか琳音にはわからないが、晴月が鬼だということは、前世の自分と生きていた時代が被っていた可能性もあるのではないか。それならもしかしたら、凛子のことを知っているかもしれない。
 それに晴月は出会ったあの日、あの(・・)向日葵畑にいたのだ。あの場所は前世から何一つ変わっていなかった。
「……っあのね、あの、晴月。わたし今から、すごく変なこと言うんだけど」
「うん?」
「引かないで聞いてくれる?」
 晴月は驚いたように少しの間固まっていたが、すぐに真面目な顔になってコクリと頷いた。
「あのね、探してるのって、ものじゃないの」
「……どういうこと?」
「人なの。わたしの恋人」
 真剣な顔で口にする琳音の言葉を聞いて、晴月の表情が微かに曇る。
「わたし、前世の記憶があるの。それで、前世で恋人だった彼のことをずっと探してる」
「前世……」
「前世の最期に、わたし達が出会ったあの向日葵畑にいたことだけは覚えてて……。昔あの場所で人が死んだとか、そういうの知ってたりしないかなって」
 何かに急きたてられるように早口で質問攻めした後に、晴月の顔を見てハッと我に返った。晴月はぽかんとした表情で、完全に固まってしまっていたのだ。
(しまった……! 興奮して一気に喋りすぎた!)
 さーっと青ざめる琳音。口を両手で覆い、ふうと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「ご、ごめん。突然こんな話されてもびっくりするだけだよね。本当にごめん……」
 長い間何の手がかりも掴めなかった彼の情報を得られるきっかけになるかもしれないと、一人で先走ってしまった。そもそも前世を覚えているというところからして、普通の人からしたら嘘臭い話に聞こえるだろう。
 引かれてしまったかな、と琳音はハラハラしながら晴月の返事を待つ。しかし返ってきたのは、想像していたものとは違う反応だった。
「……どうして、探してるの?」
「え?」
「もしその人を見つけたとして、その人とどうなりたい?」
 『前世ってどういうこと?』というところから聞かれると思っていた琳音は、あっさり話を飲み込んでくれた様子の晴月に拍子抜けしてしまった。
 晴月はいつもよりどこか大人っぽい表情で、ただ静かにじっと琳音の目を見据え、その返事を待っている。
「……話がしたい」
 絞り出した声は、少しだけ掠れていた。
「彼を置いて先に死んでしまったことを謝って、また一から仲良くなりたい。その人に会うために、ここまで生きてきたから」
 もしもこの世界に生まれ変わっているのならば、もう一度出会いたい。
「でも、もし彼がわたしを覚えていなくたって、どこかで幸せに生きていることを確認できたなら……それはそれで満足かも」
 きっと前世の心残りが、琳音をこの世界にまた繋ぎ止めたのだと思う。だからこそ、見つけ出して『凛子』の魂ごと昇華してやりたい。
「……」
 晴月は黙って琳音の話を聞いていた。琳音が話し終わると、そっと手を伸ばした晴月によって、頭をぽんと優しく撫でられた。くしゃっと最後に前髪を撫で付けてから、そっと手が離れていく。
「見つかるといいね」
 たった一言、されど琳音にとっては、魔法の言葉のように思えた。晴月はふっと微笑むと、そろそろ戻ろうか、と琳音の手を優しく取って屋敷へと促す。
 晴月の笑顔を見た瞬間、じわ、と胸に温かいものが広がるのを感じた。
(そういえば彼も、よく頭を撫でてくれた)
 赤い髪の太陽みたいに明るい彼と、金色の髪の月みたいに落ち着いた晴月。正反対な二人のはずなのに、どうして事あるごとに重ねてしまうのだろう。
(でも、二人とも優しいところは似てる)
 誰が見ても伝わるような優しさを持っていた彼に比べて、晴月の優しさは控えめで気付き難い。だけどそんな晴月だからこそ、琳音はこんなに心を開くことができているし、塞ぎ込んでいた自分を連れ出してくれた晴月には本当に感謝している。
 夕陽が落ちて、夜がやってくる。空に瞬き始めた無数の星を背に瞼を閉じた琳音は、どうか彼が見つかりますように、そして晴月がずっと笑顔でいられますようにと、二つの祈りを胸の中で描いた。