月日はあっという間に過ぎ、琳音が晴月の屋敷に来てから一ヶ月が経過した。
『え、喋ったの……!?』
 屋敷に来て割とすぐに、外から帰ってきた晴月に家族と話をしたと告げられた。
『うん。ちゃんと分かってもらえたよ、琳音がどれだけ価値のある人間で、誰といるのが琳音のためになるのか』
 ずっと気掛かりではあったのだが、晴月があまりにもあっさりとそう告げたので、拍子抜けしてしまった。それと同時に胸に広がったのは、途方もない安心感だった。
『もう大丈夫。俺がいるから』
 晴月の言葉はまるで温かい湯のように、じんわりと琳音の胸に染み渡っていった。
 
 この屋敷は怖いぐらいに静かだ。琳音の部屋の内装からして、きっととんでもなく広い屋敷なのだということは想像に容易い。
 部屋には便所も浴室も存在しているため、琳音はこの部屋の中だけで生活を完結することができる。食事は一日三回きっちり同じ時間に、コンコンというノックの音が聞こえ、扉を開けると部屋の前に置いてあるため、琳音はこの一ヶ月間晴月以外の誰とも顔を合わせることなく過ごせていた。
 最初の頃は借りてきた猫のようにベッドの上ばかりにいて、自分に与えられた部屋を持て余していた琳音だったが、一月も経てばそれなりに生活を楽しむことができるようになってきた。
 晴月は毎日のように琳音の部屋に顔を出しにきた。どうやら昼間はどこかに出掛けているようで、部屋に来るのは決まって朝か夜だけだった。
『体調はどう?』
『ごはんはどれぐらい食べた?』
『よく眠れてる?』
 晴月が口にする言葉は、琳音の身を案じるものばかりだった。毎日のように確認しては、琳音の返事を聞いて僅かにほっとしたような顔をする。相変わらず表情の変わらない晴月のそんな些細な変化を感じ取れるほどには、琳音は晴月と言葉を交わした。
 いつしか、晴月が部屋に来るのが待ち遠しく感じるようになっていた。
 


「あ、おかえり」
 琳音が声を掛けると、晴月は驚いたように目を見開いた。夜も更けて来て、琳音が湯浴みを済ませた頃、ようやく晴月が部屋にやってきたのだ。
「どうしたの? 驚いた顔して」
「……いや、声を掛けてくれるとは思わなくて」
 少し気まずそうに顔を逸らす晴月を見て、琳音はぱちぱちと瞬きを繰り返した。思えば晴月に自分から声を掛けたのはこれが初めてだったかもしれない。
 自分でも無意識のうちに、晴月のことを安心できる存在だとみなして、心を開き始めているのだろう。
「忙しいのに話しにきてくれてありがとう」
「俺が会いたいから来てるだけだよ」
「え?」
 晴月の言葉が聞き取れず聞き返すが、晴月は何も言わずに琳音のそばに寄るだけだ。背凭れつきの長椅子に座る琳音の隣に、晴月も腰を下ろす。
「今日は何してたの?」
「本を読んでたよ。面白い恋愛小説があって、あっという間に全巻読んじゃった」
「楽しそうだね」
 琳音はそうなの、とクスクスと笑った。今世では決して笑うことがなかった琳音は、この屋敷に来てからは晴月の前でよく笑うようになった。
「ねえ、晴月っていくつ?」
「……」
「ふふ、そんなに驚くこと?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まってしまう晴月を見て、琳音は肩を震わせて笑った。
「だって、琳音が俺に興味を持つなんて珍しいから」
「いつも気になってたよ。そろそろ聞いてもいいかなって思って」
「機会を窺ってたんだ?」
「そう。……まだ教えてくれない?」
 こてんと首を傾げながら琳音が晴月の顔を覗き込むと、晴月はふいっと顔を背けてしまう。
(少しぐいぐい行きすぎたかな)
 反省してしゅんとする琳音に気付いた晴月は、すかさず口を開いた。
「いつでも教えるよ。俺は……二十歳ぐらいかな」
「ぐらいって何よ、自分の歳なのに」
 変なの、と笑う琳音の横で、晴月は遠くの方に視線を向けていた。まるでこれ以上その話は続けたくないと言わんばかりの反応だったので、琳音はそれを察して、それ以上は何も追及しなかった。
「いつもどこかに出掛けてるみたいだけど、お仕事か何かしてるの?」
「うん、働いてる。ここのところ特に忙しいんだ。なかなか顔出せなくてごめん」
「いやいや……! あの、私に手伝えることがあればなんでも言って。住まわせてもらってるばかりで、何も返せていないし……」
 ここに来てからの琳音は、今までの生活が嘘のように優雅な生活を送っていた。自分のために用意された温かい食事をとり、空調の効いた部屋で過ごし、ふかふかの寝具で眠ることができる。
 それを与えてくれたのは他の誰でもない晴月で、心と身体が回復してきた琳音は少しずつ、そんな晴月に恩返しをしたいと思うようになった。
「……じゃあ、琳音も外に出てみる?」
「へ?」
 思いがけない言葉に、琳音は目を丸くした。
「まだ部屋の外に出たことないでしょ。少し元気になってきたみたいだし、気分転換にどう?」
「えっと……」
 ありがたい話だが、琳音は返答に困ってしまった。琳音の頭に咄嗟に浮かんだのは、長い間琳音を虐げてきた家族の顔である。話をつけたと晴月は言っていたけど、もしも鉢合わせてしまったらという不安感が胸を襲う。
「怖い?」
 そんな琳音の不安を見抜いたのだろうか。ぱっと視線を上げれば、晴月の深紅の瞳が見透かすように琳音のそれを見つめている。
「大丈夫。俺がいるから」
 力強いまっすぐな言葉に、しこりのように固まっていた琳音の不安が溶かされていく。同時に差し出された手のひらを見て、琳音はキョトンと首を傾げた。
「手、繋ご。そうすれば少しは不安も和らぐでしょ」
「……」
 晴月の言葉と、差し伸べられた手。
『──凛子、おいで。手、繋ごう』
 何かがフラッシュバックした琳音は、言葉を失ってしまう。それはつい最近まで確かに消え掛かっていたはずの、前世の彼との記憶に違いなかった。
(まただ。最近になって急に思い出すようになった。もう忘れていくばかりだと思っていたのに……)
「琳音?」
 声を掛けられてハッと我に返る。顔を上げれば、目の前にいるのは記憶の中の彼ではなく晴月だった。
「な、何でもない」
 一瞬、二人の姿が重なって見えた。相変わらず前世の彼の顔はぼんやりとしていて思い出せないが、背格好は似ている。記憶が急に蘇ってきたのは、きっとそのせいだろう。
「お邪魔します……」
 琳音はそっと晴月の大きな手に自分の小さな手を重ねた。
「ふ、なにそれ」
 揶揄うように息を漏らした晴月を見て、琳音は思わず見惚れてしまった。それは、出会ってから初めて晴月が笑顔を見せた瞬間だった。