ふわふわと、温かくて優しいものに包まれていたような気がする。それは今世では初めて感じる、『幸福』に近いものだった。
 意識がゆっくりと浮上する。重たい瞼を持ち上げた琳音は、緩慢な動作で瞼を擦った。見覚えのない、白く高い天井。すぐには状況を飲み込めず、寝台に仰向けになったまま直近の出来事を振り返る。

「目、覚めた?」

 声がして慌てて上半身を起こすと、そばの椅子に誰かが腰掛けているのがわかった。一体いつからそこにいたのだろう。顔を見ると、それは意識を失う直前に向日葵畑で出会った青年だった。
「俺のこと、覚えてる?」
「向日葵畑で……?」
「……ああ。無事でよかった」
 青年は特に笑うこともなく、淡々と言葉を発した。顔を動かすと、綺麗な金色の髪がさらりと揺れる。僅かに吊り上がった紅色の瞳は意志の強さを感じさせる。その耳には瞳の色と同じ紅色をした水玉のような形の耳飾りが輝いていた。
「ここは……?」
「俺の家。自由に寛いでいいから」
「でも」
 琳音は困惑しながら辺りを見渡した。だだっ広い部屋の中にあるのは見るからに高級そうな調度品ばかり。それは琳音が乗っている寝台も然りだ。志摩家には存在していたのかもしれないが、物置部屋に閉じ込められていた琳音はせんべい布団でしか寝たことがなかったのだ。
「気に入らない?」
「そうじゃなくて、……びっくりして。起きても腰が痛くならないなんてすごい」
 青年は眉をぴくりと動かして、何か言いたげに口を開いたが、静かに閉口した。
「名前、何?」
志摩琳音(しまりんね)。あなたは?」
「俺は晴月(はづき)
 ハヅキ。名前の響きを口の中で転がしてみる。見た目によく似合う、綺麗な響きだと思った。
「琳音は何であの場所にいたの?」
 晴月の言葉で、さっきまで自分が向日葵畑にいたことを思い出した。前世の恋人を探してみるも、何の手がかりも掴めずに離脱してしまったことを思いだし、後悔が残る。
「ちょっと探し物をしていたの」
「そう。見つかった?」
「……ううん。半分は見つかったんだけど、もう半分は見つけられなかった」
 向日葵畑はあった。でも、彼は見つけられなかった。半分見つかっただけでも大きな収穫なのだろうか。でもあの場所を見つけたところで、どうやって彼の居場所を突き止めればいいのだろう。
「……そっか。早く見つかるといいね」
 表情の変わらない晴月だが、声色は柔らかく穏やかだった。琳音と同じで、感情を顔に出すのが苦手なタイプなのかもしれない。
「ねえそれ、俺も一緒に探していい?」
「えっ」
 突然の誘いに、思わず声をあげてしまった。
「で、でも……」
 何と説明したらいいのだろう。『実は自分には前世の記憶があって、前世で恋人だった彼を探しているんです』──そんなことを初対面の相手に打ち明けられたら、自分だったらまず間違いなく頭の異常を疑うだろう。
「言いたくないなら無理に言わなくていいよ。……すごく困った顔してる」
 琳音が黙り込んでいると、晴月はそう言って徐ろに椅子から立ち上がった。
「困らせてごめん、忘れて。……お腹減ったでしょ。お粥かうどんだったらどっちが好き?」
「いや、大丈夫です」
 ぐうう。
 断った矢先に盛大にお腹の虫を鳴らしてしまった琳音は恥ずかしさから、かあっと顔を赤く染める。
「遠慮しなくていいよ。俺が琳音に食べさせたいだけだから」
 晴月はそんなこと気にも留めていない様子で、淡々とそんなことを言うものだから、琳音はぐっと悔しそうに拳を握りながら小さな声で言葉を発した。
「……じゃあ、うどんをお願いします」
「ん、わかった」
 晴月は満足そうに頷くと、重い扉を軽々と開いて、部屋の外へと出ていった。



 初めて出会ったときはどこか冷たい空気を纏っている人だなと感じていた。いざ話してみると、ぶっきらぼうではあるが決して冷たくなんかない。まだ少ししか接していないけれど、言葉の節々に気遣いを感じる。
 お盆に乗せて運んできた湯気の立ち上がる丼の中には、艶々としたうどんがたっぷりと盛り付けられていた。温かい食べ物を口にするなんて、一体いつぶりだろう。そばで晴月が見守る中、琳音はうどんを一口、口に含んだ。
「……っ! 美味しい……!」
 思わず声をあげてしまうほど、うどんは絶品だった。弾力がありもちもちとした食感の麺と、出汁の香るコクのある汁。いつも余った少しの冷飯しか与えられなかった琳音にとっては、砂漠の中心に存在する水のような衝撃だった。
 はふはふと息を吐きながらゆっくりとうどんを楽しんでいた琳音だが、やがてハッと顔を上げた。視線の先では、晴月が壁にもたれかかってじっとこちらを見下ろしている。
「……晴月は食べないの?」
「俺はいい。さっき食べたから」
「そう」
 琳音は少し残念そうに、うどんに視線を戻した。それから二口、三口うどんを口にした琳音は、突然箸を机に置いた。
「もういらない?」
「お腹がいっぱいで。全部食べられなくてごめんなさい」
「いや、それはいいけど……」
 ずっと少量の食事で満たされるように身体を馴染ませてきた琳音にとって、一人分の食事は多すぎた。
(せっかく用意してもらったのに、最低だ)
 美味しいから全部食べたいのに、身体がこれ以上を受け付けない。悔しさから俯いてしまう琳音のことを、晴月は難しい表情で見つめていた。
「気にしないで。別にこんなのいくらでも作るよ」
 晴月は琳音の隣にやってくると、ぽんぽんと肩を叩きながら腰を下ろした。
「それより変なこと聞くけど、琳音の家族ってどんな人たち?」
「家族は……」
 どうやって答えればいいのか、すぐに言葉が出てこなかった。琳音を気味が悪いと化け物扱いする母親、酒に任せて暴力を振るう父親、お前が嫌いだと言動でぶつけてくる姉。お世辞にも良いとは言えない家庭環境を、知り合ったばかりの人に知られるのは何だか気が引ける。
「普通だよ。普通の人たち」
 普通じゃないのは自分であって、あの人達はもともと普通の人間だったのだ。自分が赤子らしくない振る舞いをしたせいで、父も母も狂ってしまった。
 晴月は琳音の答えを聞いても尚、腑に落ちないような表情をしていた。
「……ごめん。嫌だったら、引っ叩いていいから」
「え?」
 そう言うや否や、晴月は唐突に琳音の右腕を掴むと、その袖を捲り上げた。着物に隠されていた素肌が剥き出しになり、琳音はさっと血の気が引く。だってそこには、つい先日父親に傷付けられたばかりの生々しい傷跡が残されているのだから。
「……やっぱり。目の横にも痣があったから、もしかしてと思って」
 言葉を失う琳音。琳音の腕を掴む晴月の手に、ぐっと力が入る。
「日常的に振るわれてんの?」
「私が悪いから」
 自分に前世の記憶がなければ。もっと年相応の振る舞いをできていたら。そうすれば姉と同じように、大切に育てられていたはずなのに。
「悪くない。暴力をされて当然な人間なんていない」
 力強い言葉。琳音がハッとして顔を挙げると、まっすぐな瞳と視線がぶつかり合った。それはずっと『お前が悪い』『お前のせいだ』と虐げられてきた琳音にとって、初めて自分の味方をしてくれる言葉だった。
「……ここに住んだら? この部屋を琳音の部屋にしよう」
 当たり前のように晴月が提案するので、琳音は一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐさま首をぶんぶんと横に振る。
「いや、そんな……家族に黙って出てきちゃったから」
「暴力を振るうような人間がいるのも、それを容認する人間がいるのも、おかしいんだよ。それは家族って言わない。そんな奴らが琳音の家族だなんて、俺は認めない」
 晴月の紅色の瞳にはぐつぐつと煮え立つような怒りが透けて見える。どうして自分なんかのためにこんなに怒ってくれるのだろう、と琳音が困惑するほどに、晴月はまっすぐに琳音の味方をしてくれた。
「大丈夫。俺が何とかするから」
「まだ知り合って間もないのにそんなの、申し訳ないよ」
「俺が帰したくないんだよ。……琳音は何も心配しなくていい。ここで、温かいご飯を食べて、温かいお風呂に入って、ゆっくり寝ていてよ」
 今朝までの琳音には考えられないほどの贅沢だと思った。まるで夢のような現実に、思考が追いつかない。自分のためだけにこんな風に怒ってくれる人が目の前にいることで、少しだけ強くなれたような気がした。
「……ありがとう」
 全てを捨てる覚悟。そして、また一から始めるという新たな決意。先は見えないし不安ばかりだけれど、この人といればきっと大丈夫だって、不思議と思えてしまったのだ。