この国は王を頂点として成り立っている。
もう何百年も続く君主制であり、絶対王政を敷かれている。琳音が前世を生きたときも、同じように王が君臨していた。
しかしこの国は他国とは決定的に違うことが一つある。それは、王が人間ではないということ。
──そう、この国の王は『鬼』だ。
『桃色の髪』
『青く長い髪』
『若い男』
『子ども』
『老人』
『怪物のような顔立ち』
王の姿を見たとされるものは度々現れるが、どれもこれも見た目の印象にばらつきがある。それはひとえに王が民の前に姿を現したことがないからだ。王の存在は知られているものの、鬼という異端な性質によりその姿は秘匿されている。
そのため人々の話題にはそれなりの頻度で王が登場する。内容は『王をこの場所で見かけた』という何とも信憑性に欠けるものや、『王の見た目は実際どうなのか』という熱い議論に近いものなど多種多様だ。
年頃の女性は特に、王に対して憧れを抱くものも少なくない。この国を絶望から救い出してくれた王を強く気高い存在として、物語や絵画の題材として自由に描かれることもある。それが広まり、決して手の届かない王をより身近な存在に感じる民も増えているのだ。
姉の紗奈も例に倣って王を気に入っていた。崇拝しており、目撃情報があればどこへでも飛んでいく。琳音はそれを内心馬鹿らしいと思っていたが、向日葵畑の情報を聞きつければ一目確認しに行かざるを得ない自分とて、似たようなものだと気付いてしまい、ひっそりと肩を落とした。
「おう、りんちゃん」
名を呼ばれ顔を上げた琳音は、特に驚いた様子もなく目の前の青年に焦点を合わせた。
「調子はどう? また探してるの? 例の向日葵畑」
琳音がこくこくと頷くと、黒髪に短髪の青年──西尾は柔らかく笑う。彼は琳音がこっそり屋敷を抜け出した時に偶然出会った、琳音が言葉を交わせる貴重な存在である。彼のそばには商売道具である人力車が置かれている。
「やめときな。今日はこの後雨が降るらしいから。傘も持ってないんだろ?」
「……でも、せっかく家を出て来られたから」
絶対に折れないと言わんばかりの琳音を見て、西尾は困ったな、と頭を掻いた。
「行くあてはあるのか?」
「今日はまだ、見つかってない」
「そうか。ちょうどよかった。この間お客さんに偶然聞いて、りんちゃんに会ったら知らせようと思っていたんだ」
ぴんと人差し指を立てる西尾は少し得意げな様子で鼻を鳴らしている。琳音は首を傾げた。
「ここから三里ほど離れたところに、向日葵畑があるんだって。しかも近くには、美鴨川が流れてるらしい」
「!」
「今日は雨予報で客足も少ないし、よければ乗せていくよ。どう?」
色んな向日葵畑を見てきたが、近くに川がある場所は見たことがなかった。こんな好機を逃すわけにはいかない。琳音はすかさず「お願いします」と頭を下げる。西尾は「雨が降る前に急ぐぞ!」と琳音を人力車に乗せると、勢いよく地面を蹴った。
.
「この辺にいるから、帰りたくなったらまた呼んで」
向日葵畑までの唯一の道は、人が一人ぎりぎり通れるぐらいの曲がりくねった細道になっていて、人力車は通ることができなかった。道の手前で西尾と別れ、琳音は一人で草が生い茂った細道を進んでいく。
肌にちくちくと雑草が当たるし、背の高い葉っぱが多いせいで前が見えない。本当にこの先にあるのだろうか。
不安が襲ってきた頃、ようやく目の前が開けた。そして目の前に飛び込んできたのは、目を瞠るような鮮やかな黄色の海。
「うそ……」
太陽に向かってまっすぐに咲く満開の向日葵が無数に咲き乱れ、向こう側には陽の光を受けて艶々と照らされている大きな川が流れている。目の前に広がる光景は、確かに琳音の記憶に残るものと同じ光景だった。
(本当にあったんだ)
徐々に薄れかけている前世。あれは琳音の夢や空想なんかではなく、実際に存在するものだったのだと、今この瞬間に証明された。
(じゃあ、あの人も──)
前世の琳音──凛子の最期の日、この向日葵畑で自分の隣にいた赤髪の青年。自分がこうして前世の記憶を持って転生しているということは、もしかしたら彼も同じように転生しているのかもしれない。
向日葵畑を見つけた今、琳音の次の目的は青年を探すことに切り替えられた。問題なのは、全くと言っていいほど手掛かりがないことだ。
琳音は向日葵畑をしばらくの間うろうろと歩き回った。しかし記憶が戻るわけでも、落とし物が見つかるわけでもない。
(ここに来れば、何かわかるかもと思っていたけど……)
現実はそんなに甘くない。途方に暮れて肩を落とす琳音の頬に、ぽつりと水滴が降ってきた。数分もしないうちにそれは、あっという間に土砂降りの雨に変わる。ゴウゴウと気味の悪い音をさせながら、強い風が琳音の身体に絡み付く。琳音は立っているのも辛くなって、近くの木にしがみついた。
向日葵畑。黒い空。嵐。
ズキンと頭痛がして、琳音はその場にしゃがみ込んだ。ズキンズキンと痛むそれには覚えがあった。生後三ヶ月の時、全ての記憶を取り戻した時と同じだ。
次の瞬間、ザザッと琳音の脳裏に映像が流れ込んできた。
『凛子、凛子……! 死ぬな、ごめん、守れなくてごめん……!』
救いもないような真っ黒な空の下、悲しいほどに満開に咲き誇る無数の向日葵に囲まれている。自分の身体は誰かに抱き抱えられていて、その人の声は震えていた。
温かい手。自分を強く抱き締めるその手は大きくて、酷く安心するものだった。もう身体に力は入らないけれど、この人の腕の中にいれば大丈夫だと、何故だかそう思えた。
映像が途切れる。やはり記憶通り、前世の自分はこの場所で最期を迎えたのだろうと琳音は悟った。一体何があったのだろう。自分を抱き抱える青年の声は、悲嘆に暮れていた。
ゴロゴロと空が鳴っている。雨で全身がびしょ濡れになって、布が肌に張り付いて気持ちが悪い。段々と具合が悪くなってきて、呼吸が早くなるのを感じた。
息の吸い方がわからなくなって、ひゅっと喉が鳴る。呼吸が乱れ、胸の辺りをきつく掴んだ。その時だった。
ずっと降り続けていた雨が突然止んだ。空はみるみるうちに明るくなっていき、雲ひとつない青空が広がった。驚いてぽかんと空を見上げているうちに、呼吸は落ち着いていた。
気付けば、いつのまにか目の前に誰かが立っていた。陽の光に透けて見える金色の髪、陶器のような白い肌、切れ長の瞳。しゃがんでいても背が高いと分かる青年は、ぱっと見ただけで高価だとわかるような紺色の着物を身に纏っていた。
太陽の光が被って、青年の表情は見えない。目を細める琳音を見下ろして、彼はしばらくの間無言で立ち尽くしていた。
「……あの?」
琳音は思わず声を掛けた。はっと息を呑むような声が頭上から聞こえる。
「……びしょ濡れ」
「え?」
「大丈夫?」
言われて初めて気が付いたが、ついさっきまで雨が降っていたのに青年は全く濡れていなかった。対する自分は頭からつま先に至るまで全身びしょ濡れなので、同じ空間にいるのにちぐはぐだ。
「大丈夫です」
立ちあがろうとした琳音は、くらっとしてしまう。地面に後頭部から倒れそうになったところを、青年の手が伸びてきて、ぱしんと琳音の腕を捉えた。
「すみませ……」
「顔色が悪い」
「平気です、少し疲れただけで」
そう言うが、身体の言うことが聞かない。全身の力が入らなくなって倒れ込み、見ず知らずの青年の身体に抱き留められてしまった。
「ごめんなさ……い……」
何だか懐かしい匂いがする。それに、涙が出そうなほどに温かい。琳音は意識が薄れてゆくことに抵抗することもなく、静かに意識を手放した。
もう何百年も続く君主制であり、絶対王政を敷かれている。琳音が前世を生きたときも、同じように王が君臨していた。
しかしこの国は他国とは決定的に違うことが一つある。それは、王が人間ではないということ。
──そう、この国の王は『鬼』だ。
『桃色の髪』
『青く長い髪』
『若い男』
『子ども』
『老人』
『怪物のような顔立ち』
王の姿を見たとされるものは度々現れるが、どれもこれも見た目の印象にばらつきがある。それはひとえに王が民の前に姿を現したことがないからだ。王の存在は知られているものの、鬼という異端な性質によりその姿は秘匿されている。
そのため人々の話題にはそれなりの頻度で王が登場する。内容は『王をこの場所で見かけた』という何とも信憑性に欠けるものや、『王の見た目は実際どうなのか』という熱い議論に近いものなど多種多様だ。
年頃の女性は特に、王に対して憧れを抱くものも少なくない。この国を絶望から救い出してくれた王を強く気高い存在として、物語や絵画の題材として自由に描かれることもある。それが広まり、決して手の届かない王をより身近な存在に感じる民も増えているのだ。
姉の紗奈も例に倣って王を気に入っていた。崇拝しており、目撃情報があればどこへでも飛んでいく。琳音はそれを内心馬鹿らしいと思っていたが、向日葵畑の情報を聞きつければ一目確認しに行かざるを得ない自分とて、似たようなものだと気付いてしまい、ひっそりと肩を落とした。
「おう、りんちゃん」
名を呼ばれ顔を上げた琳音は、特に驚いた様子もなく目の前の青年に焦点を合わせた。
「調子はどう? また探してるの? 例の向日葵畑」
琳音がこくこくと頷くと、黒髪に短髪の青年──西尾は柔らかく笑う。彼は琳音がこっそり屋敷を抜け出した時に偶然出会った、琳音が言葉を交わせる貴重な存在である。彼のそばには商売道具である人力車が置かれている。
「やめときな。今日はこの後雨が降るらしいから。傘も持ってないんだろ?」
「……でも、せっかく家を出て来られたから」
絶対に折れないと言わんばかりの琳音を見て、西尾は困ったな、と頭を掻いた。
「行くあてはあるのか?」
「今日はまだ、見つかってない」
「そうか。ちょうどよかった。この間お客さんに偶然聞いて、りんちゃんに会ったら知らせようと思っていたんだ」
ぴんと人差し指を立てる西尾は少し得意げな様子で鼻を鳴らしている。琳音は首を傾げた。
「ここから三里ほど離れたところに、向日葵畑があるんだって。しかも近くには、美鴨川が流れてるらしい」
「!」
「今日は雨予報で客足も少ないし、よければ乗せていくよ。どう?」
色んな向日葵畑を見てきたが、近くに川がある場所は見たことがなかった。こんな好機を逃すわけにはいかない。琳音はすかさず「お願いします」と頭を下げる。西尾は「雨が降る前に急ぐぞ!」と琳音を人力車に乗せると、勢いよく地面を蹴った。
.
「この辺にいるから、帰りたくなったらまた呼んで」
向日葵畑までの唯一の道は、人が一人ぎりぎり通れるぐらいの曲がりくねった細道になっていて、人力車は通ることができなかった。道の手前で西尾と別れ、琳音は一人で草が生い茂った細道を進んでいく。
肌にちくちくと雑草が当たるし、背の高い葉っぱが多いせいで前が見えない。本当にこの先にあるのだろうか。
不安が襲ってきた頃、ようやく目の前が開けた。そして目の前に飛び込んできたのは、目を瞠るような鮮やかな黄色の海。
「うそ……」
太陽に向かってまっすぐに咲く満開の向日葵が無数に咲き乱れ、向こう側には陽の光を受けて艶々と照らされている大きな川が流れている。目の前に広がる光景は、確かに琳音の記憶に残るものと同じ光景だった。
(本当にあったんだ)
徐々に薄れかけている前世。あれは琳音の夢や空想なんかではなく、実際に存在するものだったのだと、今この瞬間に証明された。
(じゃあ、あの人も──)
前世の琳音──凛子の最期の日、この向日葵畑で自分の隣にいた赤髪の青年。自分がこうして前世の記憶を持って転生しているということは、もしかしたら彼も同じように転生しているのかもしれない。
向日葵畑を見つけた今、琳音の次の目的は青年を探すことに切り替えられた。問題なのは、全くと言っていいほど手掛かりがないことだ。
琳音は向日葵畑をしばらくの間うろうろと歩き回った。しかし記憶が戻るわけでも、落とし物が見つかるわけでもない。
(ここに来れば、何かわかるかもと思っていたけど……)
現実はそんなに甘くない。途方に暮れて肩を落とす琳音の頬に、ぽつりと水滴が降ってきた。数分もしないうちにそれは、あっという間に土砂降りの雨に変わる。ゴウゴウと気味の悪い音をさせながら、強い風が琳音の身体に絡み付く。琳音は立っているのも辛くなって、近くの木にしがみついた。
向日葵畑。黒い空。嵐。
ズキンと頭痛がして、琳音はその場にしゃがみ込んだ。ズキンズキンと痛むそれには覚えがあった。生後三ヶ月の時、全ての記憶を取り戻した時と同じだ。
次の瞬間、ザザッと琳音の脳裏に映像が流れ込んできた。
『凛子、凛子……! 死ぬな、ごめん、守れなくてごめん……!』
救いもないような真っ黒な空の下、悲しいほどに満開に咲き誇る無数の向日葵に囲まれている。自分の身体は誰かに抱き抱えられていて、その人の声は震えていた。
温かい手。自分を強く抱き締めるその手は大きくて、酷く安心するものだった。もう身体に力は入らないけれど、この人の腕の中にいれば大丈夫だと、何故だかそう思えた。
映像が途切れる。やはり記憶通り、前世の自分はこの場所で最期を迎えたのだろうと琳音は悟った。一体何があったのだろう。自分を抱き抱える青年の声は、悲嘆に暮れていた。
ゴロゴロと空が鳴っている。雨で全身がびしょ濡れになって、布が肌に張り付いて気持ちが悪い。段々と具合が悪くなってきて、呼吸が早くなるのを感じた。
息の吸い方がわからなくなって、ひゅっと喉が鳴る。呼吸が乱れ、胸の辺りをきつく掴んだ。その時だった。
ずっと降り続けていた雨が突然止んだ。空はみるみるうちに明るくなっていき、雲ひとつない青空が広がった。驚いてぽかんと空を見上げているうちに、呼吸は落ち着いていた。
気付けば、いつのまにか目の前に誰かが立っていた。陽の光に透けて見える金色の髪、陶器のような白い肌、切れ長の瞳。しゃがんでいても背が高いと分かる青年は、ぱっと見ただけで高価だとわかるような紺色の着物を身に纏っていた。
太陽の光が被って、青年の表情は見えない。目を細める琳音を見下ろして、彼はしばらくの間無言で立ち尽くしていた。
「……あの?」
琳音は思わず声を掛けた。はっと息を呑むような声が頭上から聞こえる。
「……びしょ濡れ」
「え?」
「大丈夫?」
言われて初めて気が付いたが、ついさっきまで雨が降っていたのに青年は全く濡れていなかった。対する自分は頭からつま先に至るまで全身びしょ濡れなので、同じ空間にいるのにちぐはぐだ。
「大丈夫です」
立ちあがろうとした琳音は、くらっとしてしまう。地面に後頭部から倒れそうになったところを、青年の手が伸びてきて、ぱしんと琳音の腕を捉えた。
「すみませ……」
「顔色が悪い」
「平気です、少し疲れただけで」
そう言うが、身体の言うことが聞かない。全身の力が入らなくなって倒れ込み、見ず知らずの青年の身体に抱き留められてしまった。
「ごめんなさ……い……」
何だか懐かしい匂いがする。それに、涙が出そうなほどに温かい。琳音は意識が薄れてゆくことに抵抗することもなく、静かに意識を手放した。