産声をあげなかった琳音を、血相を変えた中年の女性が抱き上げ、身体中を隅々まで確認されたことは今でも忘れられない。
 長い長いトンネルを潜ってまるで夢から覚めるようなその瞬間、小さな頭に降りかかってきたのは膨大な量の前世の記憶だった。生まれたばかりの琳音には刺激が強すぎて、その頃はよく高熱にうなされていた。
 前世の記憶を生後三ヶ月にして完全に取り戻した琳音は、泣きもしなければ笑いもしない赤子だった。大人として自由に振る舞っていた頃と比べて、身体の自由は効かないし毎日天井を眺めるばかりのつまらない日々は、彼女の精神を壊していった。
 長い一日をぼうっとやり過ごす琳音をまるで人形のようだと、父親と母親は気味悪がった。やがて姉の紗奈は両親のいないところで琳音を叩いたりおもちゃを奪ったりするようになった。
 成長してからもそれは変わらなかった。むしろ姉は堂々と琳音を虐げるようになり、両親も琳音を腫れ物のように扱って見て見ぬふりをするようになった。

「気持ち悪い」

 それは姉の口癖だった。琳音のそばを通るたびに、態とらしい大きな溜息と共に吐き出される呪いの言葉。琳音は表情を崩さぬまま、じっと姉の顔を見た。
「こっちを見ないで頂戴。朝から不快だわ」
「紗奈。もういいから、こっちに来なさい」
「お母様、目が合ってしまったの。呪われてしまうかも」
「あれと関わるんじゃないよ。何回言えば分かるんだい」
 記憶を辿っても、ここ数年一度も母と視線を合わせた記憶がない。ましてや言葉を交わしたことなんて、五年前が最後だ。父は酒に酔うと琳音を蹴ったり、酒を浴びせてきたりするぐらいで、思い出してみても碌に意思疎通をとった試しがない。
 まるで亡霊だ。生きているのに、死んでいるみたい。
 毎日最低限の食事を与えられ、生かされてはいるものの、外に出ることは許されない。両親からしたら、自分の娘に亡霊がいるだなんて周りに知られたくないのだろう。家族構成を尋ねられ、『三人』と答えているのを聞いてしまったことがある。
 自分はいなくてもいい存在。じゃあ、何故生まれ変わったのだろう。
(──きっと、あの人に会うためなんだ)
 前世の記憶の中で、人生の大半を共に生きた人。その姿は、燃えるような赤い髪しか思い出せないのだけれど。
 自分の最期の瞬間に立ち会ってくれた人。あの人もどこかで生まれ変わっているのなら、見つけ出したい。前回は自分が先に逝ってしまったけれど、今度は見送る側になりたい。
 彼に会うこと、彼を見つけること。それは琳音にとって唯一の生きる希望であり、同時に生きる意味でもあった。


「──おらっ、気味の悪い女め、消えてしまえ」
 ぱりんと硝子が割れる音と共に、頭から吹っ掛けられる大量の酒。鼻につくような臭いのそれを鼻から吸ってしまい、くらくらと眩暈がする。
 ふらついたところをどんっと押されて、どたんと畳に勢いよく倒れ込んだ。
「お前なんて生きてる価値のないごみ屑だよ。あと何年この家に居座るんだ、座敷童子め」
 何度も何度も丸めた背中を蹴られ、無理やり身体を反転させられると今度は頬をぶたれる。着物の襟元は引っ張られてぐちゃぐちゃになっていて、鎖骨には今までに受けた傷痕が青痣となって無数に残っている。
『凛子、林檎は好き? 名前の響きが似ているね。剥いてあげるから、一緒に食べよう』
 暴力を受けている時に頭の中で反響するのは、罵詈雑言を浴びせる父親の声ではない。記憶の中の彼の声だ。
『凛子。凛子。早くおいで。外は寒かっただろ』
 抱き締められたときの温もりは日に日に薄れていき、思い出そうと自分を抱き締めても冷たいままだ。
(あの人、こんな声をしていたっけ)
 彼の声を思い出していたはずなのに、いつのまにか頭上で自分を好き勝手に殴る父の声に変換されてしまって、ぞくりと悪寒が走る。
(声も、体温も、匂いも、顔さえ。もう、はっきりと思い出すことはできないの)
 琳音は気付いていた。前世の記憶が薄れかけていることに。生まれた時に最も鮮明だった記憶は、あと少しで二十歳になろうとする今の琳音にはほんの少ししか残っていない。
 あんなに追い求めていた彼の名前も顔も思い出せない琳音が唯一覚えているのは、川のほとりに咲き乱れる満開の向日葵畑、それだけだった。


 従順に静かに時が過ぎるのをひたすらじっと耐えるだけだった琳音は、最近になって家族が全員出払った後に、こっそりと家を抜け出すようになった。
 目当ては勿論、脳裏に焼き付いているあの向日葵畑だ。彼についての手がかりを何も思い出せない琳音はもう、向日葵畑を見つけることに縋るしかなかった。
 あれもだめ、これもだめ。街で聞こえてきた話や、家族の会話をこっそり盗み聞きしてその場所に足を運んでみても、見当たらない。そもそもこの広大な世界の中で、記憶にないこの土地の周辺に、あの場所が本当に存在するのだろうか──。
 あてが外れていくたびに、琳音の心は疲弊していった。
 増える傷痕、浴びせられる罵詈雑言、居場所のない屋敷。琳音が縋る唯一の記憶すら奪われようとしている。
 もう、時間がない。一刻も早く、見つけ出さないと。



「だから、王を見たっていうのよ」
 その日、琳音が自室である物置部屋の隅で畳の縫い目を数えていると、興奮したような姉の声が階下から聞こえてきた。
「奈津子がね、街で見かけたんだって。信じられる? 顔ははっきり見えなかったみたいなんだけど、金色の髪をしていて、二十代ぐらいの青年だったって」
「王が都を抜け出すなんて考えられないわ。人違いじゃなくて?」
「そうでしょ。御付きの人もいなくて、一人だったらしいわ。街を見学されていたらしいんだけど、かなり急いでいたみたいですぐに消えてしまわれたらしいの」
 ただでさえ声が大きい姉だが、よほど熱が入っているのか今日は一段と声が通る。琳音はどこまで縫い目を数えたかわからなくなり、また一から数え直すことにした。
「何かあったのかしら。──あっちの王と、揉めているとか」
「わからないわ。だけど確かなことは、王が近くにいらっしゃっていたということよ」
「何よあんた。そんな噂を信じるの?」
「嘘だったらそれでいいじゃない。一度でいいから死ぬまでに御姿を見てみたいもの。お母様、一緒に行ってくれない? 案内するわ」
「紗奈は昔から王に憧れているものね。いいわ、一度行ってみましょう」
 浮き足立った様子の二人分の足音が消えてしばらくした後、琳音はそっと物置部屋の扉を開けた。父も外出しているため、この屋敷には今琳音以外誰もいないことになる。
 この機会を逃すわけにはいかない。琳音は急いで布を頭に巻いて顔を隠すと、下駄を引っ掛けて裏口から外へ出た。