ひたり。水の染み込んだ手拭いを頬に当てられると、それだけでピリッとした痛みが走る。
「結構深いな。痕が残らないといいけど」
 琳音の頬に触れながら晴月が悲しそうに眉を垂らすので、琳音もちくりと胸が痛くなった。
 琳音の痛みを自分のことのように感じてくれる、心の優しい晴月。晴月が痛みを一緒に背負ってくれるおかげで、傷付けられた張本人である琳音の方はさほど気にしていなかった。
「痛い?」
「ちょっとだけ。でも、平気」
 父親に蹴ったり殴られたりした痛みに比べたら、琳音にとってこんなものはどうってことない。心配させないように努めて明るく微笑む琳音の、そんな心の内さえ見透かしたように晴月はますます悲しそうに肩を落とす。
「ごめんな。俺がもっと早く来れたら。そもそも、あいつの侵入に気付けていたらこんなことには……」
「そんなこと普通は予測できないよ。それに、晴月が駆け付けてくれたから、わたしは無事なんだよ」
「無事じゃないでしょ。大事な顔に傷を付けたし、怖い思いもさせた」
 今日の晴月はいつも以上に過保護なようだ。琳音の血で汚れた手拭いに視線を落として、ぐっと悔しそうに唇を噛んでいる。
 正面で俯いたまましゅんとする晴月の姿をじっと見つめていた琳音は、徐ろに両手を伸ばすと、その金色の頭をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「助けに来てくれてありがとう。すっごく嬉しかった」
 晴月はぽかんとした様子で顔を上げる。月の光を背に、琳音は幸せだと言わんばかりに相好を崩した。
「わたしね、ずっといつ死んでもいいって思ってたんだ」
 二十年間、暗い部屋に閉じこもって、信用できる人間なんて一人もいなくて、ずっと冷たくて寂しくて痛くて苦しかった。
 唯一の希望である前世の記憶でさえ奪われかけて、何のために生まれてきたのかということさえ、わからなくなりそうだった。
「だけどあのとき、雨月に殺されそうになった瞬間、……死にたくないって咄嗟に思った。晴月の顔が一番に思い浮かんだの」
 走馬灯のように流れ出したのは、前世の記憶ではなくて晴月と過ごした思い出だった。
「琴子さんや、三山さんに山岸さん……。晴月が出会わせてくれた温かくて心の優しい人達と、……晴月と。まだこの世界で生きてみたい。だから、こんなところで生涯を終えるわけにはいかないって思ったの」
 温かい家と、温かい人達。琳音にとって、それらは決して当たり前なんかじゃなかった。あの屋根裏部屋の生活があったからこそ、今の生活がどれほど恵まれているかということを誰よりも理解することができる。
「わたし、強くなりたい。鬼にはさすがになれないけど、一人でも抵抗できる力を持ちたい」
 雨月にされるがままで、何もできなかった自分が憎い。後から襲ってきたのは、己の無力さに対する羞恥心と憤りだった。
 晴月は鬼だ。それに比べてただの人間である琳音は、大きな力を持つことはできない。
 けれども、自分の身を自分で守る力ぐらいならば、身につけられるのではないだろうか。幸せを脅かされる恐怖は、もう二度と経験したくないほどのものだった。元から不幸な人生よりも、今ある幸せを奪われることの方がよっぽど苦しいのだと、初めて知った。
「もう、奪われたくないの。これ以上、何も」
 ぐっと己の身体を抱き締める。前世で殺されてしまったという弱い自分。生まれ変わってもまた同じ目にあわされそうになるなんて、何一つ成長していない自分が情けない。
「……気持ちは嬉しいけど」
 ずっと黙って聞いていた晴月が、ぽつりと口を開いた。
「心配だから、そんな力持たなくていいよ」
「でも……」
「琳音はいつも自分を責めてばかりだ」
 晴月は少し困ったような顔で、優しく微笑んだ。
「たまには俺に全部預けてみてよ。今回だって元を辿れば俺のせいなんだ。あんな風に鬼に襲われて、人間が敵うはずないんだよ」
 晴月の落ち着いた口調が、優しい響きの声が、琳音の心の棘を少しずつ溶かしていく。強張っていた表情が緩んで、みるみるうちにその瞳に涙が溜まっていった。
「琳音が攫われたって聞いたとき、俺だって怖かった。君を失うのが、世界で一番こわい」
 晴月の手がそっと琳音に伸びた。怪我をしていない方の頬に触れて、親指で優しく撫でる。
「ねえ、もう一人で背負い込まなくていいんだよ。琳音には俺がいるでしょ」
 堪えていた涙が、ぽつりとこぼれた。一度泣いたらダメになってしまいそうで、どんなに罵られても、孤独でも、痛くても、ずっとずっと我慢していたはずだった。
「俺が生涯かけて守るから。ただ俺の隣で一生、守られて?」
 温かい手。優しい眼差し。
 琳音にとって晴月の存在はこれ以上ないほどの幸福であり、奇跡だと思った。
『僕が一生守るから。君を絶対一人にはしない』
「……?」
 不意に頭の中に流れ込んできた言葉に、琳音は思わず首を傾げる。琳音は誰からも言われたことのない台詞だから、凛子の記憶なのだろうか。
「どうかした?」
「あ、いや……」
 視線を合わせた琳音は、思いの外近い距離にいた晴月に気付き、驚いて「わっ!」と声をあげてしまう。
「ご、ごめん。びっくりして。なんだろ、ごめん」
 動揺してわたわたと大袈裟に身振り手振りをしながら、何故か熱くなってしまった顔をぱたぱたと手で仰いだ。
 さっきまで触れられていた部分がじんじんと熱を持っているし、恥ずかしくて晴月の顔を見ることができない。一体どうしてしまったのだろう。
「見て、琳音」
「え?」
 ふと呼び掛けられてつられるようにして上を向けば、そこに広がっていたのは満天の星空だった。
「うわあ……! すごい……!」
 キラキラと宝石のように輝く、空に散りばめられた星。それぞれ一つ一つの光は小さいのに、集まれば目を瞠るような輝きを生み出すそれは、無限の可能性を秘めている。
 琳音だってそうだ。一人だとちっぽけな自分だけど、晴月といれば無敵になれる気がする。自分を信じて、自分を認めてくれる人。そんなかけがえのない存在がいるだけで、人はこんなに強くなれるのだと、琳音は初めて知った。
「帰ろうか」
 目尻を細めた晴月が、琳音に手を差し出した。琳音も少しはにかんでから、その手に自分の手を重ねる。
 あの星は三百年前からあるのだろうか。だとしたら前世の私も、この景色を見たのだろう。
(その時隣にいた彼が、晴月だったらいいのに)
 全くもってありえない妄想を描いてしまうほどには、晴月に心を惹かれ始めているのだろう。重ねた手のひらをぎゅっと握り返して、星空の下、二人は肩を並べて歩き出した。