「そもそも君の家の『禁曲』ってのは何なんだ?」
黒田探偵事務所の朝。
香ばしい焼き魚に醤油を垂らし、ホカホカと湯気を立てる炊きたての麦飯の上に乗せながら、探偵の黒田は葵に尋ねた。
禁曲の内容は、当然ながら楽譜ごとに違う音楽だ。
その楽譜には神話時代の神霊の力すら宿ると言われ、畏れと敬いの視線で見られる。
神聖なものとされ、限られた人間以外には触れることすら許されない。
だからこそ、それに軽々に触れ、挙句の果てに盗み出す怪盗などというものを、下流階級以外の人々は憎むのだ。
「始音家の禁曲は、演奏を間違えると天変地異が起こると言われております。曲の題名は私も知らされておりません」
葵は玉子焼きを食べながら、落ち着いた口調を心がける。
本当は禁曲を盗まれたなんて一大事に冷静でいられるわけがないのだが、自分が慌てたところで楽譜が戻ってくるわけでもない。
始音家の禁曲は、演奏を一歩間違えると日照りや洪水、竜巻や暴風雨など、厄災が起こるとされている、恐ろしいものである。神聖なものと言うより呪われた楽曲だと、葵は内心思っていた。
天候を操る神が、始音家の人間に楽譜を与えたという逸話が残っているという。
「ふむ、そんな危険な曲をいつまでも紅鴉の手に持たせるわけにはいかないな」
黒田の口からは、焼き魚の尻尾がはみだしている。はむはむと咀嚼するたびに、それが揺れた。
怪盗というものは下流階級に楽譜をばらまくのが目的で盗みを行っているとされている。
しかし、そんな危なっかしい曲は下流階級の人々の手には余るだろう。
場合によっては、楽譜を人質に始音家を脅す者も現れるかもしれない。
何にせよ、ろくなことにはならないのは確かだった。
朝食を終え、支度を済ませた黒田と葵は、怪盗・紅鴉の手がかりを求め、街に繰り出すことにした。
まず向かったのは警察署である。
「あっ、黒田さん。お疲れ様です」
「よっ。カラスについての資料、あるか?」
「資料室の机に揃えてあります」
警察とは無関係な探偵という立場にも関わらず、黒田はずいぶん警官に慕われているようだった。
それを葵が尋ねると「ああ」と黒田はなんでもないようにちょっと笑った。
「昔、僕も警察官だったのさ。厳しい上下関係が嫌になって、すぐに探偵に転職したがね」
そのわりには、やけに若い警官に好かれているようだったが、後輩の面倒見が良かったのかもしれない。
ただ、探偵という立場の人間が警察内部に入り込むのは嫌がる者もいるようで、廊下ですれ違う度に黒田を睨む強面の警官もいた。
だが、面と向かって警察署から出て行けと言うわけでもない。
「黒田さん、私たち、ここにいて本当に大丈夫なんでしょうか」
葵が不安げな顔で見上げると、黒田は口の端だけ上げてニヤリと笑う。
「平気、平気。この署にいる警察官で士族の僕に口答えできる奴はいないよ」
わざと他の警官に聞こえるように大声で言ったらしく、後ろで舌打ちが聞こえて、葵は生きている心地がしなかった。
「し、士族……武士の家系だったんですね」
「今の風雅の世には意味の無い家系だよ。だから、こうして君の役に立つのは儲けものだね」
黒田は、静かに肩をすくめる。
やがて、二人は資料室にたどり着いた。
四方の壁を本棚に囲まれた埃臭い部屋に、細長い木のテーブル。そこに警官が言っていた通り、紅鴉についての資料が平積みされている。
黒田はテーブルにつき、資料に目を通すと、シャツの胸ポケットから出した黒い革の手帳にサラサラと何か書き留めていた。
全ての資料を通読し、手帳を元の場所に仕舞う。
「よし、昼飯行こう」
黒田は立ち上がって、テーブルについていた葵に手を差し伸べる。
「もうよろしいのですか?」
「うん。そもそも僕は何度か紅鴉と対決して、会話までしたことがある。奴のことはだいたい知ってるのさ」
「では、ここには何をしに?」
それには答えず、黒田は葵の背中に手を回し、抱き寄せるようにして一緒に資料室を出た。
葵は男性にそこまで接近したことはなく、戸惑いつつ顔を熱くして警察署を出る。
「近くに喫茶店があるから、そこで飯にしよう」
黒田の提案に従い、純喫茶に入った。
黒田はコーヒー、葵は紅茶、二人ともオムライス。
注文を終えると、黒田は再び手帳を取り出す。
「カラスが盗んでたのは、思ってた通り『秘曲』ばかりだな。禁曲は今回のケースが初めて」
うーむ、と黒田が手帳を見ながらうなった。
「僕にはわからないんだが、秘曲と禁曲ってどう違うんだ? どちらも門外不出の盗まれるべきではない曲というのはわかるんだが」
「秘曲……貴族や公家、皇族の方々が所蔵している曲ですね」
葵は形の良い桃色の唇に指を当てる。
「禁曲は文字通り禁じられた曲です。演奏することが目的ではないのです。秘曲は門外不出とはいえ、演奏はできますし、演奏をしくじったからといって、災難が起こるわけではありません。ただ、秘曲は高名な作曲家が貴族のために書き下ろした曲なので、高値で売れると思います」
「おいおい、待て待て。禁曲は演奏することが目的じゃない? それって、楽譜や曲として残す意味あるのか? わざわざ厄災を起こすような曲を楽譜に書き留めたってことだろう」
「さあ……私が生まれる何千年も前から、代々受け継がれてきた神代の曲だそうなので、なんとも。何かしらの意味はあったのでしょうが、今となっては誰にもわからないでしょう」
「そうか……そうだな。すまない」
何に対して謝っているのかはわからないが、黒田はガリガリと頭を引っ掻いたあと、店員が持ってきたコーヒーとオムライスに口をつけた。
しばらく二人で黙って食事をし、両方の皿が空っぽになって葵が紙ナプキンで口を拭くと、黒田が不意に口を開く。
「もう少し、調査に付き合ってほしい。楽器屋通りに行ってみたい」
葵はうなずいて、残った紅茶を飲み干した。
楽器屋通りは、下流階級である楽器職人が、中流階級の音楽家や上流階級の貴族などに制作した楽器を売っている店が軒を連ねている。
楽器製作というのはとても神経を使う仕事だろうに、そんなすごい人達が下流に属するのは、葵には納得のいかないことだった。
小さい頃、その疑問を母にぶつけてみたことがある。
「そうねえ、でも農民も食べ物を作るっていう大切な仕事をしているのに、階級としては立場が低いでしょう。多分、そういう大事な仕事をしているほど大変な目に遭うのよ」
それでは、自分たちの舞姫という仕事は、そこまで大切ではないのだろうか。
胸のもやもやは、今も葵の心を曇らせている。
しかし、楽器屋通りに来てみると、思いの外、活気のある場所だった。
人々がワイワイとショウウィンドウに飾られた楽器を見たり、買ったのであろう楽器を携えて通りを行き交う。
この民衆は下流か中流の階級の人々だろうと思った。上流階級の人間がこんな場所に顔を出すわけがない。黒田さん以外は。
隣の黒田を見上げると、優しい紫色の目と視線が合ってしまい、思わず目をそらしてしまう。
「お貴族様はどうやって楽器を買うのか、気になる?」
「使いの者を寄越すか、楽器職人の方を家に招くのではないですか?」
「当たり。さすが、上流階級の家に出入りしているだけはある」
実際に、楽器職人が楽器を持って貴族の家を訪ねるのを見たことがある。
貴族は楽器を受け取ると、職人にお金を投げ渡すのだ。
まるで卑しいものには触れたくもないみたいに。
黒田探偵事務所の朝。
香ばしい焼き魚に醤油を垂らし、ホカホカと湯気を立てる炊きたての麦飯の上に乗せながら、探偵の黒田は葵に尋ねた。
禁曲の内容は、当然ながら楽譜ごとに違う音楽だ。
その楽譜には神話時代の神霊の力すら宿ると言われ、畏れと敬いの視線で見られる。
神聖なものとされ、限られた人間以外には触れることすら許されない。
だからこそ、それに軽々に触れ、挙句の果てに盗み出す怪盗などというものを、下流階級以外の人々は憎むのだ。
「始音家の禁曲は、演奏を間違えると天変地異が起こると言われております。曲の題名は私も知らされておりません」
葵は玉子焼きを食べながら、落ち着いた口調を心がける。
本当は禁曲を盗まれたなんて一大事に冷静でいられるわけがないのだが、自分が慌てたところで楽譜が戻ってくるわけでもない。
始音家の禁曲は、演奏を一歩間違えると日照りや洪水、竜巻や暴風雨など、厄災が起こるとされている、恐ろしいものである。神聖なものと言うより呪われた楽曲だと、葵は内心思っていた。
天候を操る神が、始音家の人間に楽譜を与えたという逸話が残っているという。
「ふむ、そんな危険な曲をいつまでも紅鴉の手に持たせるわけにはいかないな」
黒田の口からは、焼き魚の尻尾がはみだしている。はむはむと咀嚼するたびに、それが揺れた。
怪盗というものは下流階級に楽譜をばらまくのが目的で盗みを行っているとされている。
しかし、そんな危なっかしい曲は下流階級の人々の手には余るだろう。
場合によっては、楽譜を人質に始音家を脅す者も現れるかもしれない。
何にせよ、ろくなことにはならないのは確かだった。
朝食を終え、支度を済ませた黒田と葵は、怪盗・紅鴉の手がかりを求め、街に繰り出すことにした。
まず向かったのは警察署である。
「あっ、黒田さん。お疲れ様です」
「よっ。カラスについての資料、あるか?」
「資料室の机に揃えてあります」
警察とは無関係な探偵という立場にも関わらず、黒田はずいぶん警官に慕われているようだった。
それを葵が尋ねると「ああ」と黒田はなんでもないようにちょっと笑った。
「昔、僕も警察官だったのさ。厳しい上下関係が嫌になって、すぐに探偵に転職したがね」
そのわりには、やけに若い警官に好かれているようだったが、後輩の面倒見が良かったのかもしれない。
ただ、探偵という立場の人間が警察内部に入り込むのは嫌がる者もいるようで、廊下ですれ違う度に黒田を睨む強面の警官もいた。
だが、面と向かって警察署から出て行けと言うわけでもない。
「黒田さん、私たち、ここにいて本当に大丈夫なんでしょうか」
葵が不安げな顔で見上げると、黒田は口の端だけ上げてニヤリと笑う。
「平気、平気。この署にいる警察官で士族の僕に口答えできる奴はいないよ」
わざと他の警官に聞こえるように大声で言ったらしく、後ろで舌打ちが聞こえて、葵は生きている心地がしなかった。
「し、士族……武士の家系だったんですね」
「今の風雅の世には意味の無い家系だよ。だから、こうして君の役に立つのは儲けものだね」
黒田は、静かに肩をすくめる。
やがて、二人は資料室にたどり着いた。
四方の壁を本棚に囲まれた埃臭い部屋に、細長い木のテーブル。そこに警官が言っていた通り、紅鴉についての資料が平積みされている。
黒田はテーブルにつき、資料に目を通すと、シャツの胸ポケットから出した黒い革の手帳にサラサラと何か書き留めていた。
全ての資料を通読し、手帳を元の場所に仕舞う。
「よし、昼飯行こう」
黒田は立ち上がって、テーブルについていた葵に手を差し伸べる。
「もうよろしいのですか?」
「うん。そもそも僕は何度か紅鴉と対決して、会話までしたことがある。奴のことはだいたい知ってるのさ」
「では、ここには何をしに?」
それには答えず、黒田は葵の背中に手を回し、抱き寄せるようにして一緒に資料室を出た。
葵は男性にそこまで接近したことはなく、戸惑いつつ顔を熱くして警察署を出る。
「近くに喫茶店があるから、そこで飯にしよう」
黒田の提案に従い、純喫茶に入った。
黒田はコーヒー、葵は紅茶、二人ともオムライス。
注文を終えると、黒田は再び手帳を取り出す。
「カラスが盗んでたのは、思ってた通り『秘曲』ばかりだな。禁曲は今回のケースが初めて」
うーむ、と黒田が手帳を見ながらうなった。
「僕にはわからないんだが、秘曲と禁曲ってどう違うんだ? どちらも門外不出の盗まれるべきではない曲というのはわかるんだが」
「秘曲……貴族や公家、皇族の方々が所蔵している曲ですね」
葵は形の良い桃色の唇に指を当てる。
「禁曲は文字通り禁じられた曲です。演奏することが目的ではないのです。秘曲は門外不出とはいえ、演奏はできますし、演奏をしくじったからといって、災難が起こるわけではありません。ただ、秘曲は高名な作曲家が貴族のために書き下ろした曲なので、高値で売れると思います」
「おいおい、待て待て。禁曲は演奏することが目的じゃない? それって、楽譜や曲として残す意味あるのか? わざわざ厄災を起こすような曲を楽譜に書き留めたってことだろう」
「さあ……私が生まれる何千年も前から、代々受け継がれてきた神代の曲だそうなので、なんとも。何かしらの意味はあったのでしょうが、今となっては誰にもわからないでしょう」
「そうか……そうだな。すまない」
何に対して謝っているのかはわからないが、黒田はガリガリと頭を引っ掻いたあと、店員が持ってきたコーヒーとオムライスに口をつけた。
しばらく二人で黙って食事をし、両方の皿が空っぽになって葵が紙ナプキンで口を拭くと、黒田が不意に口を開く。
「もう少し、調査に付き合ってほしい。楽器屋通りに行ってみたい」
葵はうなずいて、残った紅茶を飲み干した。
楽器屋通りは、下流階級である楽器職人が、中流階級の音楽家や上流階級の貴族などに制作した楽器を売っている店が軒を連ねている。
楽器製作というのはとても神経を使う仕事だろうに、そんなすごい人達が下流に属するのは、葵には納得のいかないことだった。
小さい頃、その疑問を母にぶつけてみたことがある。
「そうねえ、でも農民も食べ物を作るっていう大切な仕事をしているのに、階級としては立場が低いでしょう。多分、そういう大事な仕事をしているほど大変な目に遭うのよ」
それでは、自分たちの舞姫という仕事は、そこまで大切ではないのだろうか。
胸のもやもやは、今も葵の心を曇らせている。
しかし、楽器屋通りに来てみると、思いの外、活気のある場所だった。
人々がワイワイとショウウィンドウに飾られた楽器を見たり、買ったのであろう楽器を携えて通りを行き交う。
この民衆は下流か中流の階級の人々だろうと思った。上流階級の人間がこんな場所に顔を出すわけがない。黒田さん以外は。
隣の黒田を見上げると、優しい紫色の目と視線が合ってしまい、思わず目をそらしてしまう。
「お貴族様はどうやって楽器を買うのか、気になる?」
「使いの者を寄越すか、楽器職人の方を家に招くのではないですか?」
「当たり。さすが、上流階級の家に出入りしているだけはある」
実際に、楽器職人が楽器を持って貴族の家を訪ねるのを見たことがある。
貴族は楽器を受け取ると、職人にお金を投げ渡すのだ。
まるで卑しいものには触れたくもないみたいに。