「────もう、いい」


空き缶を放り投げる寸前で手首を掴まれる。そのまま、ものすごい力でオータの胸の中に押し込まれた。

暗転の後の、暗転。平手打ちではないほうの、選択肢。

そうか、ドラマ。はは、笑える。

ここで、号泣する。脚本には、きっとそう書かれているのだろう。だから、泣いてあげるよ。なんてね。さっきからずっと泣いている。

涙が零れて零れて、獣みたいな嗚咽がもれる。ひとの肌の温度が憎い。抱きしめるというよりは、拘束されたというほうが適切だった。

わたしたちのシルエットなんて、どうせ不格好だからカットがかかる。俳優さん、もっと優しく抱きしめてあげないと、美しくないよって。

受け取るべきではないものだ。異臭をはなって、帰れと連呼して、卑屈な言葉を並べる。そもそも、社会を拒絶して、健やかな時間を所有できない。呼吸しかできない。そんな人間に差し出してはいけないものだ。

柔軟剤の柔らかな匂いが、この空間においてはとても異質だった。この男は、殴れもしないから消去法として抱きしめるしかないのかと偉そうなことを思った。

オータとこんなにも物理的な距離が近づいたのは、長い間知り合っているのに、これがはじめてのことだった。

骨が圧迫されている。生きていることを実感させる一種の嫌がらせのような気もしてきて、背中に手を回して皺のない柄シャツを引っ張って皺をつくってやる。

窮屈だった。その窮屈さが心臓の在処を探し当てようとしているみたいで、ハートを直接手のひらの中にしまい込まれているような錯覚に陥ってしまう。

「もういいよ」
「…………」
「お前、もういい」
「………」
「もう、いい」

頭の後ろに手が回って、乱暴に胸に押しつけられる。

呼吸が苦しい。苦しいよ。傾いた世界から、こぼれ落ちた場所にいる。

「もう、いつからでも、いい。聞かない」

どうして、オータまでそんなに切羽詰まったような声を出すのだろうか。

「わかったから」
「……っ」
「ニーナ。もう、わかった」

宥めるというより、オータ自身が自分に言い聞かせるような口調だった。

湿って、きっとふけだらけの後ろ髪を撫でられる。そんなものは、ただ自分の手のひらを汚すだけの行為だ。旋毛にオータの鼻先が触れる。悪臭極まりないだろう。鼻が曲がっても責任をとるつもりはない。

一度、不格好な抱擁を解かれる。それから、オータは中腰になって照明スイッチに手を伸ばした。カチャ、と音がしてまた部屋が明るくなる。本当に勘弁してほしい。

滅多に見せないような硬く真剣な表情をしたオータが、じっと私を見下ろしていた。

「……つけないで」
「暗かったら、ニーナちゃんのあれこれが拾えないので」
「でも、私は明るかったら死にたくなる。もう分かってるはずだよ、オータ。いま、つかったままずっと放置してあるキッチンの包丁でさっさと死んでもいいんだ」

自分の命で他人を脅すなんて、愚かで仕方がない。あほらしい嘘をついている。死ぬことなんて、私にできない。

それでもこの状況なら現実味があったようで、「俺がそれさせると思ってるなら、甘いんじゃないすかね。全然、男女の力差利用するけど」とオータは眉を寄せて照明を常夜灯に落とした。

お互いの表情だけが闇に紛れてしっかりと分かるくらいの明るさになる。もう、これ以上話すことはないような気がしていた。

沈黙に包まれる。その果てで、「飲みかけのスーパードライある?」と訳の分からないことをオータが聞いてきた。

「……そこらへんにあるじゃん。転がってる」
「ううん、しっかりはいったやつ」
「……冷蔵庫に新しいのはある。なに、まさか、飲むの?」
「ん、まあちょっと、な」

立ち上がってオータは冷蔵庫のほうへ歩いていき、またすぐに戻ってきた。

常夜灯のもとで銀色の缶をもった男が、さっきまでは困惑をきわめていたくせに、何故か屈託なく笑った。

大丈夫だ、と言われる何倍も強い引力で、うっかり安心してしまいそうになり慌てる。プルタブを開ければ、スカッ、と気持ちのいい音がする。

けっきょく飲むのかと思って、じっと見つめていたら、あろうことかオータは、ためらいもなく自分の頭上で缶を逆さまにした。

「………は」

ダバダバ、と淡すぎる光のもとでは鉛色にしかみえない液体が、オータの頭に降り注いでいく。

驚いて声もでなかった。ただ、降り注ぐ様をじっと見ているしかなかった。酸っぱいビールは、髪の毛を湿らせて、顔や肩に流れていく。ギゴ、と缶がへこむ音がする。オータが潰したのだ。最後の一滴がなくなるまで飲み口を下に向けてオマケのように振れば、こちらにまでその一滴が降りてくる。

オータが何をしているのか分からなかった。正確には、そんなことをする理由が、だ。

空になったのであろう缶ビールをそこらへんに放り投げて、はは、とオータが何かを諦めたような笑いをこぼす。

「…なに、してんの」
「なにって、ビールかぶった」
「いや、」
「オータ君の特別パフォーマンス」
「は、」
「まともって言われて、こんなに微妙な気持ちになったのはじめてだ」
「……」
「どうすんの、俺? 一万五千円の柄シャツがビールでびしょびしょなんすけど」
「……私のせいって言いたいなら、いいよ、言ったらどう」
「うん、違う。違うな。ぜっんぜん、違う。びっくり」

ニーナチャン、わざとらしく片言に名前を呼ばれる。それで、今度はさっきよりも優しい力で腕の中に攫われた。

呆気にとられているうちに全てが、終わっている。ビール臭い。滑稽なパフォーマンスでまともからおりてきた男。

今度は、手加減された力での抱擁だから、これではカットの声もかからない。どうしてくれる。濡れている。染みこんでいく。もう、今は、私だけが臭いわけではない。だから、遠慮は遠のいてしまう。

背中を、微力で叩かれる。地球に存在しちゃってお前は仕方ないなあ、でもしちゃってるしなあ、というテレパシーを何故か感じて、垂れていた鼻水を一万五千円のオキニらしい柄シャツの肩の部分になすりつける。

オータは何も言わなかった。常夜灯さえ視界から閉ざして、ゆっくりと唇を開く。

「………結局、話せってこと? これもパフォーマンスの一種?」
「お前もビールかぶるか、それ以外か、選べってこと」
「なに、それ」
「酒とは違うから。言霊って言うじゃん。言葉ってさあ、吐いた瞬間、苦しくなることもあるから。黙ったままでいたほうがいい場合もある。話したくなかったら聞かない。俺は、ビールをかぶったことでそのスタンスをしっかり確立したので」
「……馬鹿じゃん。意味わかんないし」
「ガキの頃からずっと知ってるのに、今更」
「ううん、知ってる。オータはまともだ」
「うわ、まだ言うかそれ。しぶ」

渋いよまじで、とまた私の旋毛とオータの鼻先がくっつく。わざわざ悪臭を拾いにいくやつがどこにいるかと思った。

もう逃れる気さえおきなかった。